カラーでも撮っていたC62重連
また北海道の蒸機に戻りますが、その代表であるC62も、少しだけカラーで撮っていました。昭和43年に初渡道した時の装備は、モノクロ用にアサヒペンタックスSVに55mm、135mmレンズと、もうひとつ、カラー用として父親から借りたマミヤ光機の正体不明のEEカメラの二台態勢でした。時折、思い出したようにカラーで撮りましたが、黒い蒸機は高価なカラーで撮るだけの理由もなく、とくにC62重連は、思いのほか高速で通り過ぎることもあって、確実性を採ってモノクロの一発必中でした。しかし、条件が揃うと、ヘナヘナの三脚にカラー用のEEカメラを載せて撮ったものでした。▲お馴染みの上目名151キロポスト付近の上り「ていね」、この場所は前にも記したが、やや開けた斜面があって、珍しく熊笹の繁茂もなく、斜面を自由に上下できるのが特徴だった。C62重連の迫力を出すため、レール面より少し下で三脚付きのカラーを構え、ケーブルレリーズで接続、レール面から少し上でモノクロを構えて、高さを違えて二台態勢で撮影した。先頭C6244、真っ黒の流れた煙と、結果は最良ではなかったが、C62定番撮影地での一枚となった(昭和43年9月)。
▲こちらは上目名150キロポスト付近の上り「ニセコ3号」、やや開けたカーブで撮影には好適だが、線路脇は熊笹がびっしり繁茂していて、勢い線路端での撮影となる。そのまま撮ってしまうと、バックの緑に蒸機が同化してしまい、とくにカラーの場合は具合が悪い。ここでも線路と同レベルに構えて、C62の半分は空で抜くことができた(昭和44年9月)。
▲この2枚、二股~蕨岱の二股川鉄橋の夏と冬。上路ガーダーで、編成の下回りまでキレイに見える。ただ全編成は無理なので、鉄橋からの位置を勘案しながら、重連のみ、客車2、3両までと調整して、河原でカメラを構える。鉄橋に目印を作っておいて、◎番目の橋脚を通過したら撮るなどと決めておくと、迷うことなく二台連写で撮れた。夏ならまだ陽は高いが、冬は日没直前で、C622のツバメマークがわずかに輝くのも魅力だった。下り「ニセコ3号」 (昭和44年9月、昭和46年3月)
▲こちらは単機の上り「ていね」を大沼付近で撮る。カラー向きの景勝地で、DC特急だけで無く、蒸機もその景色には勝てず、ついカラーのシャッターを押したものだ。なお、C62の端梁が茶色く変色しているのは、蒸機の汚れではなく、フィルムの変色によるもの、もとのフィルムはカビだらけで、何とか修復できたが、変色まではなかなか難しい(昭和43年9月)。
賑やかしコメントで失礼します。
以前に投稿した写真ですが、カラーで撮ったC62×2 “まりも”です。
C62重連が牽引する「まりも」は昭和40年9月で終わりましたから、そのカラー写真はたいへん貴重な記録です。運転区間は函館~釧路でしたが、特に末期は札幌で編成の約半分を入れ替えて昼行座席列車~寝台列車と性格が変わりました。そのため、全区間通しの食堂車(マシ35)は、編成端から3両目という、当時のDC特急に似た、偏った位置に連結されていました。
昭和39年10月からの編成は、
←函館 オユ+マニ+①オロネ10+②オハネフ10+③~⑥オハネ17+(増オハネ17)+⑦~⑪スハ+⑫スロ52+⑬スロ52+⑭マシ35+⑮スハ+⑯スハフ 釧路→ ①~⑥札幌-釧路 ⑦~⑪函館-釧路 ⑫~⑯函館-釧路
失礼しました。⑦~⑪函館ー釧路は、⑦~⑪函館ー札幌が正です。
井原さん、そのとおりです。
証拠写真をご覧下さい。後から三両目がマシ353函ハコです。
素晴らしいですね。食堂車をはじめ、所々窓が開いているのも堪えられません。右端にいるのは、近所の子ですか。
同行の会員です。
前年にマシ35を訪ねて釧路まで行ったのですが、あいにく研修庫に入っていて撮れませんでした。
それは残念でした。でも、マシ35は函ハコなのですから、何もわざわざ釧路まで行かなくても函館で待っていれば良さそうに思いますが。
言われてみるとその通り!
米手作市様
釧路の庫の中とは、これまた貴重なシーンでは! 給水シーンですよね?
北海道では、到着した編成を全部、検修庫に入れて作業出来る庫に入れて、検修する様ですが、暗いのであまり写真を見かけません。
屋内比する目的は、融雪のためとか、色々有るのでしょうか。内地なら、給水・洗浄は屋外の事が多いですものね。
廣瀬様
北海道では一般作業を検修庫の中でするんですか!
それは知りませんでした。こんな写真に意味づけをしていただき、ありがとうございます。
「はつかり」のDC化で渡道したマシ35のうち、五稜郭で撮影された青15号に2本線の「はつかり」用の塗装のままのマシ35 3の写真が残されています。本州で塗り替える手配が間に合わなかったのでしょうか。さすがにそのまま運用してはいないだろうと思いますがどうでしょうか。
マシ35は、札幌駅で撮りました。
昭和42年9月4日、マシ352です。
私は昭和43年9月10日に急行「ていね」の食堂車で「ホタテ定食」を食べて辛うじてマシ35に間に合ったのが思い出に残っています。
私が一番すきな食堂車がマシ35でした。同世代と言うことでもあるのでしょう。でも、一度もまともの撮れた事がなかったのです。そのうち北海道へ行ってしまい、追いかけましたが間が悪く、藤本さんのようなきれいな写真は一枚もないのです。
客車の鬼と言われた米手作市さん、客車の履歴研究の第一人者井原実博士に僭越ですが仲間入りさせていただきます。全区間蒸機牽引の特急「はつかり」の客車時代は短命でしたがその「はつかり」の食堂車マシ35が渡道したのは恥ずかしながら始めて知りました。米手さんの「まりも」は貴重です。もっと早く北海道に行きたかったと思います。この急行も函館・釧路全区間蒸機牽引でした。写真は1966年9月10日札幌駅で撮った「ていね」に使用の藤本さんと同じマシ352です。こんなん乗って「ホタテ定食」食いたかった!
「ホタテ定食」は、レギュラーのメニューではなく、その時季だけの限定メニューだったと思います。領収書が残っていませんので値段はわかりません。
最初の御題からは、大分離れてしまいますが、マシ35の話題で盛り上がることは、そうはないでしょう。と云う訳で、私も参加させて下さい。渡道した仲間は先に廃車になりましたが、本州に残った2輌のマシ35は、昭和45年10月改正まで生き残りました。その2輌は元カシ36で、最後はマシ352000番台となった、2011と2012でした。この写真は、不鮮明で申し訳ないが、十和田6号で最終運用に就いたマシ352011が、上野に到着せんとするところで、昭和45年9月30日です。
井原 実様
有難うございます。私は当時はユースの食事以外はパンとコーラなどで済ませていましたが、ホタテとは奮発しましたね。C62重連函館発小樽経由釧路行き急行「まりも」は札幌行きの昼行急行「ていね」となりましたが、それでも食堂車、1等車含め上り11両、下り12両の客車を連結した堂々たるものでした。今の特急とは貫禄が違ったと思います。2等客車はスハ43系の北海道版二重窓のスハ45系でした。「ていね」運用に入る前の姿をもう1枚出します。編成の①号車が指定席・自由席の1等車、②③号車が座席指定2等車、④号車が食堂車でした。写真は③号車スハ4553で同じ1966年9月10日札幌での撮影です。余計なことですが私の家も昨年二重窓にしました。
スハ45のラストナンバーです。
準特急邸の窓は、まず内窓を持ち上げて止め、外窓の窓戸錠を両手で持ってつまんでエイヤッと持ち上げるのですね。
既存の引き戸の外側にさらに引き戸をつくりました。窓拭きなど手間がかかります。雨戸含めて三重です。
こんな感じ
米手作市様
窓と椅子の具合が良く分かる写真ですね!
これは、スロ62、スロ54、どちらでしょうか?
廣瀬様
どちらもちがいます!
椅子と窓の間隔にご注意を。
窓一つに椅子一脚です。
正解はこれです!→スロ529
あらためて準特急さんや藤本さんに宮崎さんまで、これ見よがしにマシ35を並べられては、今さらながらに悔しさが身にしみます。
なんとか一枚ぐらいと探しましたがありませんでした。あえて出せるのは、最初の『まりも』と同じ時に仁山信号所で撮ったマシ35です。こんなものを出している私の歯ぎしりが伝われば幸いです。ギリギリ
廊下の窓を開けているのは、冷房をしない時期なのに暑かったからでしょうかね。函館までもう少し。
さすが米手作市様!
こちら側のサイドで床下も写っているのは貴重ではないでしょうか?
昭和43年9月4日、青森駅、マシ352012です。
いい写真ですね。
宮崎様の写真とあわせて、期せずしてここでマシ35全車が揃いました。ありがたいありがたい。
マシ35の特徴である、ヘッダーなしの幕板がよく解りますね。
米手作市様
米手作市さんとは何時ぞや目的の車両等を撮り損なうと悔いが残るというような話をしたことがあると思いますが、鉄道趣味では皆大なり小なりそういう悔しさがあると思います。米手作市さんはマシ35が最もお好きであったとのことですが、廣瀬さんがコメントで米手作市さんがマシ35を北海道特有の研修庫で撮られたり、床下が綺麗に写っていると褒められており、一応撮られているのですからもう充分だと思います。ただ、オーソドックスな形式写真を撮りたかったことは推察致します。私など米手作市さんが阪急の710系の特急やP-6の幌付き時代を撮られて羨ましく思った次第です。どうぞ、今後も「どや!」というようなお宝を見せてください。
準特急さん
そうですねぇ。失敗写真だとばかり思い、半世紀以上過ぎてホメていただけるとはデジ青のお陰です。
準特急さんはじめ983-3さんのきれいな写真を見るにつけ我が身を恥じるのです。撮影会の作品を審査することがありましたが、同じ時間に同じモデルを撮って、なんでこんなにちがうのか?と思うことがしばしばありました。この場所で、この角度で、鉄道写真の場合はこのタイミングで、も有りますが、ようはその人の感性、センスと言うことになるのでしょう。
特派員さんの写真を見てよく解りました。
総本家青信号特派員様
完全に出遅れていますが・・・ 本文記事について
良く考えたら「ていね」時代鮮明なカラー写真は、あまり見かけません。有っても、機関車アップだったり、客車は煙に巻かれていたりです。
考えれば当たり前かもしれませんが、この時代のオユ10は、ピカピカの茶色だったのですね。晩年(DD51)の急行「ニセコ」では、青色だったので、つい見逃していました。「ていね」編成を模型化する際には、茶色のオユ10と青色のマシ35を揃えなきゃ!
もしかして、蒸機時代の「ニセコ」も茶色が多いのかも?