四国総局管内の荷物輸送(客車編)

昨年、ヤフオクに四国総局報号外(昭和54年春季荷物輸送)が出品されていた。旅客や貨物の輸送計画の号外は知っていたが、荷物輸送については全く知らず驚いた。

これによると、高知発3/21~4/9の228レに臨南東荷83(マニ、汐留~高知)が増結されており(南東荷3仕業を2車にしたようなもの?)、2024年8月4日に投稿した「讃岐財田駅」(id=153890)での車掌さんの話とも符合してくる。

また、以前に「DF50 18号(その1)」(id=153477)で、1981(昭和56)年10月(正確には同月13日)以降、DF50は貨物列車専用機となったと書いた。DF50の引退イベントである臨時列車以外の旅客列車をけん引していないのは事実なのだが、不定期ながら工場入出場や転配属する客車、あるいは線路検測のためのマヤ34を貨物列車に連結し、客車そのものはけん引していた。 続きを読む

DF50の予潤滑スイッチ!?

SNS等をネットサーフィンすると、こんなことがあったのかと驚かされることが間々あるのだが、先日、松田優作バリに「何じゃ、こりゃ!」と叫んでしまいそうな写真を発見した。

4枚組の写真は、1枚目がM.A.N.製のV6V22/30mA(撮影時期からDF50 537号?)、2枚目が制御箱内上段(同扉が上下段に分割されていないので、Sulzerならば50号以前、M.A.N.ならば549号(?)以前と思われるが、機号不明)、3,4枚目が機関士席の写真であった。

問題は、この3,4枚目である。機関士席パネルの表示灯(「主電動機送風電動機停止」及び「第1弱界磁」)の左側にポツンとスイッチが1個取り付けられている。下の写真のようなイメージである。   ▲機関士席(DF50 41号2E、1981.07.28)

K14Aブレーキ弁の検査日付からDF50 17号2Eの機関士席の写真と思われ、同スイッチ上部には「予潤滑」と読めるような手書きのラベルが貼り付けられていた。DD51やDE10形式の機関車には標準で取り付けられているスイッチではあるが、DF50にもオプションとは言え取り付けられていたことを、引退から41年を経過した今になって初めて知ることとなった。

この予潤滑スイッチは、名称から察すると潤滑油を循環させて機関始動を容易くするものと考えられるのだが、実際には機関を回転させ、そのシリンダとピストンの摩擦熱や圧縮過程におけるシリンダ内の温度上昇を利用して燃料の爆発を容易にしているだけのことと思われ、潤滑自体は結果論のように思われる。DD51やDE10形式の構造をよく知らないので、これらの形式ではどのようにこの機能を実現しているのかはわからないが、DF50については恐らく以下のようなものと思われる。

長野鉄道管理局で刊行されたDF50形電気式ディーゼル機関車運転取扱説明書では、冬季などで着火が困難なときとして「機関始動押スイッチと同時に機関停止押スイッチを押すことで、燃料を噴射することなく機関は回転し、摩擦熱により予熱され、適当な時期に機関停止押スイッチを離せば、機関は始動する」と書かれている。つまり、下図のように配線とスイッチを追加するだけのことで、多度津工場の匠にとっては造作のないことであったと思われる。ちなみに、この予潤滑スイッチを機関稼働中に押した場合には、単なる機関停止スイッチとして使用可能であることもわかる(但し、機関停止直後にこの予潤滑スイッチから手を離す必要はありそうだが)。    ▲想定回路図

予潤滑スイッチの追加方法については、凡そのことは想像できたのであるが、わからないことがまだ残っている。

一点目は17号がいつこの改造を受けたのか、また17号以外にこの改造を受けた車はなかったのか、という点である。

二点目は、予潤滑スイッチに対するニーズがどこにあったのか、という点である。17号は四国以外での配属はなく、改造工場は多度津工場でしかない。高松、松山、高知は始発駅であるから出区してから出発までの間に機関を停止することはなかったであろう。多度津や伊予西条、阿波池田では入区したり、もしくは出発線で停車時間中に機関を停止する場面もあった。ただ阿波池田を除けば、そこまでは寒くなかったであろう。後は斗賀野ぐらいであろうか。夕方に石灰を積み込んでから多ノ郷へ向かうまでに、斗賀野駅4番線で2時間余り停車していたので、駅東側の住民の方から苦情があったのかもしれない。その間、機関を停止していたのかどうかまでは確認していないが、その可能性は高いと思われる。また、同じ盆地内にある西佐川駅では、分岐器凍結防止のためのカンテラが常備されていたことを考えると(斗賀野駅に常備されていたかどうかは知らない)、斗賀野駅での機関停止後の再始動に不安があったのかもしれない。ただ予潤滑スイッチがなくとも、機関始動押スイッチと機関停止押スイッチを同時に押すだけで同等の対応は可能であり、他の車にこの改造が広がることはなかったものと思っている。

三点目は機関士の養成上、機関始動の手順をDE10と極力共通化させたい意図があったのだろうか、とも勘ぐれることである。予潤滑スイッチを押す前までの手順はDF50とDE10では大きく異なると思われるので、あり得ないとは思うのだが・・・。

何かご存知の方がいらっしゃれば、ご教示のほど、よろしくお願いいたします。

DF50 4号、解体撤去される!

今年(2024年)も残すところあと5時間半となりました。

少し時間が経過してしまいましたが、DF50 4号の解体撤去は、私にとっては今年最もショッキングな出来事でした。                          ▲DF50 4号(左:2010.08.10、右:1983.02.13) 続きを読む

KE52

ネタに窮すると、つい総本家青信号特派員氏の記事に頼ってしまう。「鉄道少年の時代に戻ってみる〈7〉」の山科のカーブを行くつばめ号の何と美しいことか。ブレーキホースや元ダメホース、KE3ジャンパ栓等が、10日後の西下の準備も万端であることを物語っている。「せっかく連結器にカバーをつけてまで見た目に拘っているのに」とお嘆きの方もいらっしゃるかもしれないが、連結解放により輸送需要に対応できるのは他の交通機関に真似のできない鉄道の最大の長所であると思っている。それだけに連結面はとても興味深く、ついつい見入ってしまうものである。

実は、私もつばめを撮影したことがある。

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讃岐財田駅

讃岐財田駅は、1923(大正12)年5月21日に讃予線琴平~讃岐財田間(12.6km)の開業に伴って開設された駅である。北側の琴平駅の1889(明治22)年開業から遅れること34年、徳島線の佃信号場(当時)まで南進される6年前のことであった。

もう2ヶ月前ほどのことになるらしいが、築101年となる木造駅舎が改築されたことを、先日Youtubeで知った。香川県では高徳線の丹生駅に次ぐ2例目だそうである。ちょっと豪華なバス停(?)の趣きとなっており驚いたが、トイレも改築されており、利用者の方はもちろんのこと、保線作業関係者にも優しい改築となっていた。▲1983年3月31日、273レ(DF50 31号牽引)、讃岐財田駅3番線

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MC24

「MC24」のMCはMaster Controllerの頭文字で、国鉄ディーゼル機関車DF50形の主幹制御器の形式名称である。

Wikipediaの「国鉄DF50形ディーゼル機関車」のページ(国鉄DF50形ディーゼル機関車 – Wikipedia)には次のように記載されており、雑誌やネット等でも長年にわたり引用されている。

「運転台の主幹制御器は、電気的な要素はなく一種の可変空気調圧器に類する構成で、制御空気圧の昇降を直接行い、電気的な制御は行わない。」

この文章の引用元は「鉄道ジャーナル 1979年12月号」P.83で、

「制御は電気指令でなく、空気圧力で行なうため、車端に総括用空気ホースがとりつけられている。したがって主幹制御器には電気要素は一切なく一種の可変空気調圧器的な要素を有するだけで、ノッチ区分(19ノッチ)もいわばキザミ的な役割にすぎず、中間ノッチも使用可能である。」と記載されており、特に何の問題も無いように思われる。

では、実際のMC24の内部をご覧ください。

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DF50 18号(その2)

終の棲家となると思われた「交通科学博物館」(1990年に交通科学館から改称)は、「梅小路蒸気機関車館」を拡張した「京都鉄道博物館」に統合されることとなり、2014(平成26)年4月6日限りで閉館されることとなった。DF50 18号機は、1990(平成2)年には弁天町駅北口の新設に伴い、当初の大阪環状線高架の東側から西側への移動があり、再び引っ越しを余儀なくされることとなった。▲2014年3月31日、交通科学博物館、大阪環状線には103系がまだ健在だった頃

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DF50 18号機(その1)

総本家青信号特派員氏の「交通科学館」のC53 45号の写真を拝見した。実見したことはあるものの、C53を懐かしめる世代ではない。ただ、バックに写る建物の波型鋼のような屋根に妙に懐かしさを覚えた。図書室には、一時大変お世話になった。ここにあった資料は、恐らく「京都鉄道博物館」にあるのだろうが、未だ行ったことがないので、よくわからない。▲交通科学博物館(2014年3月31日)

今回は、この「交通科学館」に展示、保存されていたDF50 18号機について綴ってみたいと思う。

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ダイアグラムをエクセルで描く

先日のサロン会で、「ダイアグラムをエクセル上に表示できる」と口走ってしまった。四半世紀ほど前の話になるが、脱サラした際にパソコンやプリンタは必需品であったが、使用頻度の少ないプロッタを購入するか否かで悩んだ。プロッタとは、座標値を与えて直線や円などの図形を紙の上に作画する機械である。当時、私の書く1本のプログラムの中ではプリンタやプロッタへの出力コマンドが7割程度を占めており、このネックを解消すべく計算処理後の結果のみをエクセルに渡して表示させたり、印刷ツールとしてエクセルを使うようにしていた。この延長戦上で、エクセルのシート上に図形描画機能を使って作画し、印刷できればプロッタを購入する必要もなくなる、と考えたのがキッカケである。 続きを読む