DF50 18号機(その1)

総本家青信号特派員氏の「交通科学館」のC53 45号の写真を拝見した。実見したことはあるものの、C53を懐かしめる世代ではない。ただ、バックに写る建物の波型鋼のような屋根に妙に懐かしさを覚えた。図書室には、一時大変お世話になった。ここにあった資料は、恐らく「京都鉄道博物館」にあるのだろうが、未だ行ったことがないので、よくわからない。▲交通科学博物館(2014年3月31日)

今回は、この「交通科学館」に展示、保存されていたDF50 18号機について綴ってみたいと思う。

DF50 18号機の略歴は、以下のとおり。

私と18号機の初めての出会いは、18号機が高知機関区へ移動後の1980(昭和55)年3月6日、DF50が本州での活躍を終えた5日後のことであった。前面補強、ツリアイ管、大型の連結器解放テコと、本州や九州のDF50にはなかったスタイルで、重連であったことやけん引していた18両のホキ5200の姿も手伝って力強く、厳つく感じたものだった。▲1980年3月6日、吾桑駅、5795レ、SGホースも備えフルホース状態

DF50の活躍は四国だけとなったもののそれで安泰ということではなく、翌年3月には土讃本線の客車列車を主体に、さらに10月には予讃本線の客車列車を主体にDE10に置き換えられ、客貨両用機として開発されたはずのDF50は貨物専用機となってしまった。これはSG装置の使用を停止することで、その検査費用を削減する大赤字の国鉄の経費削減策の一環でもあったわけだが、乗務員さんにとっては従前の温水暖房に戻り、少し寒い思いをされたことと思う。またラジエータの散水装置もSGの送水ポンプを使用している関係で使用不可となったはずだが、使用していたのかどうかも怪しく、問題はなかったのではないかと思っている。

1983(昭和58)年2月22日、DF50のDE10への置換計画案が各労働組合へ提示された。高松運転所の1仕業と高知機関区の全仕業をDE10に置き換えるというものであった。高知機関区のDF50は9両配属されていたが、これを同数のDE10に置き換え、余剰となるDF50のうち4両が高松運転所へ転出、残る5両は用途廃止となる計画である。残念ながら、18号機は検査時期の関係で後者であった。4月13日、18号機は43号機とともに石灰列車をけん引後、780レをけん引して高知機関区へ戻り、運用を離脱した。▲1983年4月13日、吾桑駅~多ノ郷駅、5796レ▲1983年4月13日、高知機関区転車台上▲1983年4月13日、高知機関区にて、左から43、47、18、50号機

4月16日、18号機は前々日の48号機に続いて㋵284レに連結(無動)されて多度津運転区へと旅立った。この284レは多度津工場入場車の指定列車であったが、重連でけん引する列車であったため、機関車次々位に連結した場合DF50の三重連となるところであるが、機関車次々位には多度津工場の配給代用車が連結され、入場車は機関車次々々位に連結された。多度津運転区内では、4日後に回送されてきた、石灰列車をともに最後にけん引した43号機と並ぶ形で留置された。

1984(昭和59)年1月16日、お昼のニュースで18号機が宇高連絡船に搭載されるシーンが流れ、交通科学館で保存、展示される事実を知った。交通科学館の一体どこに?とは思ったが、第二展示場が現在の弁天町駅北口付近に開設され、展示開始直後はDD54 33号機とともに、大阪環状線高架の東側に南北の縦一列(DF50 18号機が南側)で展示された。

▲回送票(1984年3月25日)▲ディーゼル機関車保存展示披露式(1984年3月25日)▲DF50 18号機(1984年3月25日)

3月25日、展示が開始された。野天での展示ということもあり、放熱器にはお遍路さんの傘を模したと思われる蓋が多度津工場からプレゼントされていることがわかる。煙道、信号炎管や側面片側3箇所の雨樋も蓋されているようで、雨水、防錆対策には十分な配慮がなされているようだ。また運転室内の見学ができるように、④位の乗務員室扉にはデッキが設置された。

「何故、18号機だったのだろう?」と、時折ふと思うことがある。恐らく1966(昭和41)年のお召し列車けん引の実績が評価されたのであろうが、大阪で保存するのであれば亀山機関区配属経験車、この当時であれば24、29、31、34、59、62号機が該当し、お召し列車に拘るのであれば24号機や時期的に間に合わなかったかもしれないが59号機、また米子区ではあるが41号機も選択肢としてあったはずだ。このような状況の中で、お召し列車けん引の痕跡の少ない18号機が選ばれたことは疑問でしかないのだが、「実は1号機が準鉄道記念物に指定されているので、次に若い番号の18号機を選んだ」なんて吐露する関係者が現れないことを祈るばかりである(それが事実であるのならば、致し方ないが)。

いずれにしても、石灰列車を最後にけん引した18号機が選ばれたことを、個人的には喜んでいる。

「DF50 18号(その2)」へ続く(予定?)。

DF50 18号機(その1)」への6件のフィードバック

  1. DF50の次位に連結された配給車代用車は
    多度津工場配給車代用のワム80000でしょうか…

    四国局のワム80000白帯車はワム280705しか分からないもので…

    • 白帯貨車及び事業用代用貨車のファン様、
      拙稿をご覧いただき、ありがとうございます。
      実見したのは、佃駅で1983(昭和58)年3月31日の284レ(DF50 48+DF50 29+配給車代用車+DF50 61+・・・)を731Dから見た1回しかないのですが、そのときはワム80000ではなく、添付写真の2両目に写っているような少し小ぶりの貨車のようでした。形式番号がわかればよいのですが、ご期待にそえず申し訳ありません。

      • 四方誠様、
        ワ12000の様ですね…
        1983年ならまだ小型のワ10000ワ12000の白帯車がまだ居たと言う事を忘れておりました…

        これからも白帯貨車か事業用代用貨車が少し写っている写真があればまたその投稿も宜しくお願い致します…

        ちなみに私は貨車以外では白帯貨車と連結された救援客車、配給客車も好みですので…

        でもそれらの写真もなかなかネットや書籍で見つからないので、鉄道友の会の長老格を当たるしかありません…

        • 白帯貨車及び事業用代用貨車のファン様、
          貴殿のお好みについては、気に留めておくようにいたします。ただ、私の訪問先は自動車配給が主で、公安室までが緊急時に自動車を必要とするようなところでしたので、期待はなさらないでください。

          • 白帯貨車及び事業用代用貨車のファン様、
            高砂工場の配給代用貨車ワム75554(末尾1桁は怪しいかもしれません)の写真を見つけましたので、添付いたします。1980年5月24日、向日町駅です。

          • ありがとうございます、RMLIBRARY237に掲載されなかった約900枚の写真の類とは異なりますが、このような他の車両と連結されている写真なら少しは見つかるかもです

            これからも写真探索宜しくお願い致しますね・・・。私側も出来る限り探索に尽力をかけますので・・・

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