五十年前に見た 当たり前の風景  -3-


山陰本線のDL(2)

当時走っていた山陰本線のもうひとつのDL、DF50に参ります。当会にも、DF50信奉者がおられ、当欄でも拝見しています。私もDLのなかでは、いちばん好きというか、もっとも親近感を感じたDLでした。50年の前のもっと前、海水浴行きなどで山陰本線を利用すると、先頭が蒸機でなく、DF50だと、快適な旅が約束されて、ホッとしたものです。当時はまだ茶色の旧色の時代、ドドドッというエンジン音を聞きながら、紫煙の匂いを嗅ぎながら、五感で鉄道が近代化へ向かって行くのを感じたものでした。嵯峨野の竹林を抜けて1826レ DF50 559 (昭和46年4月)

DF50は、DD50に次いで昭和32年に登場した本線用の電気式ディーゼル機関車、スイス・スルザー社と新三菱重工の技術提携による0番台、ドイツ・マン形の機関を搭載した500番台に分かれ、昭和38年までに138両が製造されました。山陰本線のDF50は、米子区に集中配置され、0番台、500番台が混用されて、昭和41年度には41両と日本最多の配置区となっていました。その後、昭和44年以降は500番台に統一、この時代、京都口では、DD54は客貨両用でしたが、DF50は旅客のみの牽引でした。保津峡駅に到着の923レ マン形のトップナンバーDF50 501の牽引。昭和46年4月に、同機は山陰本線の西部で御召列車を牽いている(これのみ昭和44年6月)。

冬枯れの馬堀、922レを牽く(昭和46年1月)。DF50 504の牽く922レ 500番台は、0番台より出力が大きく、機関や主発電機も異なる。ただ車体は共通のため。外観上に差異はない(昭和46年1月)。春の馬堀、一本桜の向こうを行く843レ、ED70やEF30にも通じる、斜めの前面が感じられる角度が好きだ(昭和46年1月)。最後は馬堀ギラリで。その後、DD51の入線、増備とともに、山陰本線のDF50は活躍の場を狭め、昭和53年に全機が引退している(昭和46年4月)。

 五十年前に見た 当たり前の風景  -3-」への37件のフィードバック

  1. 第2弾は、やはりDF50でしたか。予想が的中しました。
    初めて撮った鉄道車両は、京都駅山陰線ホームにいたDF50でした。しかし愛着があったわけではなく、ありきたりの撮り方しかしてません。DD54に比べて加速が遅く古臭い印象でしたが、DF50が牽く客車に揺られて通った保津峡の風景は、今も忘れません。
    DF50が旅客専用だったとは、今の今まで気が付きませんでした。
    総本家様の写真を拝見し、のどかだった馬堀の風景を思い出します。私は線路端にへばりつくばかりで、風景を写し込むことができませんでした。
    嵐山から岩田山入り口を通り、例の鉄橋に至るハイキングコースの途中で、浜坂始発の836列車を牽いたDF50がやってきました。昭和46年4月の撮影です。

    • 紫の1863さま
      いつもコメント、ありがとうございます。「例の鉄橋」へのアプローチですが、
      (1)嵐山から保津川の右岸にある、船曳き道を行く。
      (2)山陰線の線路上を嵐山方面から歩いて行く。
      (3)保津峡駅からトンネルを抜けて行く。
      いずれの方法も、困難が伴い、私は結局、「例の鉄橋」まで行くことはできませんでした。手っ取り早いのは(3)でしょうが、大津の86さんのように、かなりビビリます。トラス橋のなかに、縦位置でうまくC51、C57を入れて撮られた先達の写真を、いまも羨望を持って見ています。

  2. DF50も撮っています。カラーポジで撮ったものがありますが、カビで変色した部分があるので完全に修正はしていませんがなんとか見ることが出来るように修正しました。普通客レも長い編成でこれでは密になりませんね。

    • どですかでん様
      カラー写真、ありがとうございます。馬堀の良さをしみじみ感じます。これは、桜の散る頃でしょうか、田んぼの新芽がきれいですね。DF50の新色は、当初好きにはなれませんでしたが、茶色の旧型客車の先頭に立つ姿は、決まっています。

  3. つられて一枚。旧丹波口を発車して終着・京都へ。現在の「梅小路京都西」駅付近。DF5049

    • 米手さま
      自宅から歩いて5分の撮影地、ありがとうございます。こんなところ、と言っては失礼ですが、手近に撮影ができたのも、50年前ならではですね。私も梅小路機関区の行き帰りに、築堤に上って、撮影しました。

      • はい、私も築堤上にいました。梅小路機関区でC57に別れを惜しんでましたが、園部行きの通過時刻が迫ると一斉に築堤へ駆けあがりました。東に広がる貨物駅を一枚でも写していればよかったのにと今でこそ思うのですが、それこそ「当たり前の日常」の風景でした。

      • 一瞬、あの日米手様とニアミスしていたのかと思いましたが、客車を見て時代が違うと気付きました。
        私はもう少し京都寄りの、鉄橋東側におりました。恥ずかしい写真ですが、昭和46年4月25日の1829列車です。

      • C57127の次がスニ73、その次がスロハ32であることから、京都9時33分発の811レ、山陰線回り門司行であることが判ります。
        昭和38~39年頃は、福知山までDD911が牽いていましたが、時々C57が牽いていました。
        写真は、昭和39年5月3日です。

        • そうです。
          こちらの画像からもスニ7315の次にスロハ32が連結されていることが判ります。
          スニ73の前にスユニ60が連結されるようになったのは、昭和39年無3月のダイヤ改正以降だったと思います。

      • DF50の次がスユニ72ですので、京都14時27分発、827レ、浜坂行です。
        昭和38年11月3日、スユニ724です。827レの発車前にC57が客車の入換えに来ていました。
        前回のスニ7315は、昭和38年12月31日に撮影しています。

        • 藤本様、初めまして。
          1980年度の四方と申します。
          14時27分発の浜坂行き、後にDC化され、福知山行きとなりましたが、郵便・荷物輸送はキユニ26で継続されました。下りは西向き(貼付の左側)、上りは東向き(同右側)の連結でしたので、梅小路で転回していたのでしょうか。SLならば当たり前のことですが、気動車が毎日転車台で転回していたとは、考えにくいです。

          • 四方 誠様
            仰せの通り、浜坂行はDC化されて福知山行になり、客車はキハ35に、スユニはキユニに変わりましたが、郵便・荷物輸送は引継がれました。
            連結位置の件ですが、ずっと福知山寄りであったと思います。京都寄りに連結されているのを見られたということであれば、例外的に、そういう日もあったということだと思います。
            画像は、昭和51年9月5日、キユニ269で、キハ2619からの改造車です。

      • 四方 誠様
        キユニ26の連結位置ですが、下りは福知山寄りの先頭、上りは京都寄りの先頭と解釈すればよろしいでしょうか?
        時期によって違ったのかもしれませんが、昭和50年9月に見た130Dは最後尾に連結されてました。

        • 紫の1863様、貴重なお写真ありがとうございます。
          キユニ26の連結位置は、仰せの通りです。DD54牽引の貨物列車と交換しており、スジも同じですので、撮影時期の違いかと思われますが、私、まだ中学生で撮影メモを取っておらず、明確なことが言えなくて申し訳ありません。
          ホームを外れた上り客車列車のデッキから保津川を覗くと、お写真のようにフェンスがあるもののかなりの恐怖でしたが、意外と高かったんだなぁと思ったり、盛業中の橋の袂の商店など、楽しませていただきました。

          • 藤本哲男様、ご返信ありがとうございます。返信ボタンが見当たりませんので、ちょっと離れていますが、この場所で失礼いたします。
            荷物車は西向きが所定だったということですね。紫の1863様の写真もありますので、私の写真はたまたま東向きの珍しい写真が撮れたのだと理解することにしました。ありがとうございました。

  4. 学生時代に撮った写真には山陰線DLの写真はありませんでした。高校生時代の1968年8月に撮ったDF50の写真が1枚出てきました。後ろは保津峡駅ですね。こんなアングルでとれるところがあったのでしょうか。

  5. 大津の86様
    左に見えるトンネルの上から、撮影されたのではないでしょうか。
    撮影は昭和50年4月です。

    • すみません、早とちりして間違いました。このトンネルは馬堀方面へ行った場所で、保津峡駅の嵯峨方とは別物です。
      いずれにせよ、トンネルポータルの上から撮影されております。

      • 紫の1863さま
        たしかに、擁壁のところには、旧々線の廃線跡があって、左へ行くとトンネル跡もあるところですね。私も取材依頼で、このトンネル跡へ行ったことがあるのですが、ここへどうして行ったのか、記憶を振り絞って考えますと、当時はトロッコ列車になっていて、列車ダイヤを調べて、新線の保津峡駅からトロッコ線の降りて、トンネルを越えたことが分かりました。紫さんの写真で記憶がよみがえりました。

    • 紫の1863様
      ありがとうございます。トンネルポータルの上からですか。トンネルと保津峡駅がそんなに近かったと思っていなかったので、陸橋のようなものがあったのかと思っていました。当時望遠など持っていませんでしたので、標準レンズでは、トンネルポータルの端から撮らないとだめだったのでしょうね。危険な行為で、今ならトンネルの入り口に行くまでに警察沙汰になっていたかもしれません。

  6. 1980年度生の四方です。初めまして。
    総本家青信号特派員先輩のお写真、いつも楽しませていただいております。今回は、私の鉄の原点ともいうべき山陰線京都口のDF50ということで、少しお邪魔させていただきます。
    昭和46年といえばSLがなくなり、キハ35による運転系統が整理される以前のことで客車列車も多く、とりわけ列車番号が900番台の客車列車(敦賀発着でしょうか?)は貴重ですね。また、DF50の貨物列車は「鉄道ダイヤ情報」(1976年夏号)によると下り1本(㋵875レ、梅小路21:40→綾部0:54)だけありました。所要時間もDD54と大差なく、次に牽引する福知山2:09発の1893レまでのつながりが不明で、迂闊に信用していいものかどうかはわかりませんが。
    米子区のDF50の最期は、記述のとおり昭和53年10月15日、822レ(浜田~米子間)でした。その前日の831レ(米子~浜田間)がサヨナラ列車として運転されたため、誤解されている方も多いかと思いますので念のため。京都口では、昭和51年夏に見たのが最期でしたが、詳細ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただければ幸いです。
    ちなみに4枚目の504号のお写真ですが、第一サイドエアフィルターの形状から564号のように見受けられますが、いかがでしょうか。
    貼付写真は恥ずかしいのでかなりトリミングしていますが、恐らく昭和51年頃の保津峡~馬堀間です。

    • 四方誠さま
      DF50の“鬼”のような方からも、コメントをいただき、光栄です。さすがに、いい位置から撮られていますね。これは、馬堀から保津峡へ入って行った、最初の大カーブでしょうか。京都口におけるDF50の貨物牽引は、昼間は無かったことは確かですが、夜間に運用の都合による貨物牽引があったこと初めて知りました。私はC57が無くなってからは、以降の山陰本線の記録は完全に空白になっていて、京都口でいつまでDF50が働いていたのか、不明です。4枚目の写真は、写真を拡大して読み取ったつもりですが、間違っていたようです。細かいところまで見ていただき、ありがとうございます。

      • 総本家青信号特派員様から、「光栄です」なんて書いていただくと、穴があったら・・・どころか掘ってでも入りたくなりますので、ご勘弁願います。
        撮影場所はご推察のとおり、保津峡では一番長い直線トンネル(名前は忘れました)の京都寄りのカーブです。保津峡なのに、川の入っていない写真なんて、とお叱りを受けるかと思っておりました。

        • 四方さま
          撮影場所の特定、ありがとうございます。馬堀から入っても、トンネルを抜けなければなりませんね。赤丸のところから南に「みずき山」があり、馬堀から登山道があり、そこから新線の鉄橋の両方が撮れますね。

  7. 京都口でのDF50を探すのですが、敢えて撮っていなかったのかと思うほどに見つかりません。石見路、長門路のDFを貼り付けます。昭和47年3月27日折居・周布間の534レ DF50547です。

  8. 昭和49年1月5日 宇田郷の有名な惣郷川橋梁を行くDF50牽く客レです。客車列車は絵になります。

    • 西村様
      宇田郷の写真も撮っておられましたか、私はここで撮るのが、ずっと憧れでしたが、ついに果たせないままです。いまは、この区間、さらに列車が削減されたようです。

  9. 寒い日の山陰線のDD51ということで昭和52年2月6日に滝部駅で写した505号機の写真を出してみます。
    これは午後の遅い時間の益田行き列車と思います。
    私にとり日豊本線と山陰本線の活躍の印象が強く、子どもの頃から、C62、EF58そしてDF50は図鑑に載って親しみ深い機関車でした。
    しかし活躍した線区のことを考えると、これほど「裏日本の似合う機関車」は他になく、京都口の華やかな感じよりも、淋しい冬の日本海の波頭を車窓に見ながら、824レで死ぬ程退屈な旅をしたかったと思います。
    中島みゆきの暗い歌の好きだった四方さんが、この機関車を愛したことも、学生時代は「暗いなあ〜」と茶々を入れたものでしたが、齢60を過ぎると、冬は熱燗を飲みながら、山陰線の踏切の向こうを走るDF50の幻が見えるような気がします。

      • K.H.生様、コメントありがとうございます。
        高松へ転じてからの505号を貼付しておきます(浅海~伊予北条間、昭和53年3月31日)。機関士席側のワイパーが原型だったことに、今頃気付きました。

    • DF50の思い出、ありがとうございます。「裏日本(今は日本海側と言うのかな)の似合う機関車」、言い得て妙な表現に感心しました。私にとっては、山陰本線も去ることながら、北陸本線の最後の非電化区間、直江津~糸魚川で見たDF50、奥羽本線の矢立峠で補機の助けを借りて勾配に挑むDF50、いずれも日本海側で見たDF50でした。

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