山陰本線のDL(1)
▲ギラリのDD54 2が862レを牽いて馬堀の築堤を行く。DD54一次車特有の特徴あるフォルムが浮かび上がる。50年前の山陰本線のDLは、あのDD51は、まだ一両も入線しておらず、DD54、DF50という、今も関心の高い両機が、旅客、貨物の牽引を担っていた(写真は昭和46年1~4月撮影)。
今から50年前の昭和46年には、京都周辺の鉄道で、二つの大きな出来事がありました。ひとつは、北丹鉄道(福知山~河守)の休止(のちに廃止)であり、もうひとつは山陰本線京都~園部を走っていた、梅小路区のC57の廃止、DL置き換えです。いずれも、DRFCでは、行事を行って見送りをしています。当時の山陰本線の客車列車・貨物列車は、蒸機牽引のC57より、DD54・DF50のDLが多かったものの、どしても眼はC57に向いていました。DLは撮っていたものの、顧みることはほとんどありませんでした。そこで、当時の山陰本線の“当たり前”だった、DLの牽くシーンをまず見てもらいます。
▲正月が明けた馬堀、雪の構内では、DD54同士の交換が見られた。停車する834レ、DD54 24の牽く863レが窓下の前灯を輝かせて通過して行く。▲冬枯れの里を行く。山陰本線京都口の貨物は、福知山区のD51、時にC57が牽いていたが、その前の年に、旅客よりひと足早く無煙化が完了、すべてDD54が牽引していた。
▲12系客車の回送を牽くDD54の一次車、春の観光シーズンに運転されていた12系の臨時急行の返しと思われる。推進軸が破損して脱線事故など大きなトラブに見舞われたのは、この2年前のこと、徹底した検査、修理、改造が行われ、ようやくDD54も安定してきた時期で、最終製造の40号もデビューし、翌47年には、京都~米子で特急「出雲」の牽引も行った。束の間のDD54の晴れ舞台だった。
うわー、見たかったな、のこんな風景。
DD54は東京へ向かう新幹線の中から京都駅周辺の梅小路付近に停車中の姿しか見ていません。
同じテーマで昭和60年になると、亀岡でこのようなDD51+50系に変わっています。
この日は正月明けで、18切符の残りを使い、同じく丹後半島の加悦鉄道を目差した雪の残る日でした。
KH生さま
写真、ありがとうございます。KH生さんの時代になると、もうDD54は過去の車両になるのですね。それだけ、波乱万丈だったDD54の短い一生がよくわかります。逆に私は、DD51+50系は、ほとんど撮っていません。
親の仇のように考えていたDD54だけに、ほとんど撮っていません。昭和46年、馬堀の縛りではロクな写真がありません。C57目当てに出かけたのですが、昼間のスジはDD54に替わってしまい、ずいぶんがっかりしたものです。そばにいた大人のファンが「こいつだけは撮る気がせえへん」とつぶやいた言葉は、今も覚えています。
昭和50年9月の撮影ですが、この風景も過去のものになりました。
保津峡の写真、見せてもらいました。DD54とキハ55系ですか、いいですね。C57はたしかに50年前の昭和46年4月になくなりましたが、昼間のスジは、その前年にDD54化されていましたね。私も「撮る気がせえへん」の口で、撮ったとしても、力が入っていないこと、写真から分かります。
総本家青信号特派員さん、何回も馬堀に行きましたね。なんせ、近いので庭みたいなもんでした。馬堀の50年前と今の写真を投稿した写真にもありましたが、夕日に輝いていた1個のコンテナが面白くて撮ったものです。ところで、この貨物列車は何が牽引していたと言うと・・・。それは明日のコメントで。
どですかでん様
はい、みんなで馬堀はよく行きました。数々のエピソードもありますね。この写真、よく覚えていますよ。学館でやった鉄道写真展に出品されましたよね。5個載せのチキにコンテナがポツンと一個、夕陽のギラリですから、いっそうコミカルな写真になりました。こんなシャッターチャンスをよくとらえたものと感心したことを覚えています。
私もやはり保津峡、馬堀にはや何度か行きました。懐かしいですね。その中で一度保津峡からトンネルを越えて嵯峨の方に行ったのですが、ダイヤが分からず、嵯峨寄りのトンネルを越えるのも怖く、川岸にでて丁度ボートに乗っていたアベックに乗せてもらって嵐山に行ったのを覚えています。その時、DF50も撮ったのではと思いますが、また写真を探しておきます。
大津の86さま
保津峡の思い出、ありがとうございます。トンネルと言うのは、保津峡のすぐ嵯峨寄りのトンネルですか。出ると、すぐ鉄橋ですから、かなりヤバイですね。以前は、保津川の右岸(南側)に、保津川下りの船をロープで曳き上げる道が残っていて、嵐山から保津川まで歩けたのですが、今は荒廃した廃道になっているそうです。あるサイトに、転落の危険を冒して、嵐山から鉄橋下まで歩いて撮影した記録が載っていました。
「あるサイト」を見つけて読んでみました。昭和51年頃まではハイキング気分で歩いたものですが、もう行くのは無理なようですね。
昭和46年4月に嵐山から歩き、鉄橋で撮ったDD54 3です。
総本家さんの写真は、無煙化が進む時期の平穏そうな日常が捉えられていますが、当時、馬堀駅近くのM会員宅をアジトにして、総本家さんが先頭に立って闘っていた馬堀現地闘争では、DD54がやって来ると「ひっこめ~」「あっち行け~」といった訳の分からん怒号・罵声が飛び交い、鼻クソを投げたものです。
DD54は、運転台の窓回りがどうにも不細工で好きになれません。京都鉄道博物館で見る度にそう思います。ところで、4枚目の左下の2人の人物は誰でしょう。
井原様
コメントありがとうございます。馬堀の現地闘争の数々の輝かしい成果は、永くDRFCの歴史に刻まれることと思います。この写真は、その現地闘争で一夜を明かした翌日のシーンですね。たしかに周囲には罵声が飛び交っていました。その後ろを振り向くと、ン?、居並ぶカメラマンの上に、信号にしがみつく人間が! カメラを構えて、その顔は伺えませんが、分かる人にはわかりますね。
コンテナ1個の貨物列車を牽引している機関車の写真をお見せいたしましょう。その前に以前に投稿した「馬堀で時空散歩 あの写真はどこで撮ったのだろうか?」を見ていただければと思います。
下記のURLで見ていただければと思います。
https://drfc-ob.com/wp/archives/46616
昔と同じ写真は撮れませんでしたがやはり馬堀はええ。
貨物列車の機関車はDD54とC57の重連でした。
京都で学生時代を過ごしたことは鉄ちゃんにとっては恵まれていたと思います。どなたか述べられているように保津峡、馬堀は正しく庭のような存在でした。私は馬堀に何回も行っておりますが所謂京都の歴史的な有名な場所にはほとんど行きませんでした。後年、大河ドラマを見るようになってその舞台が戦国であれ幕末であれ京都であることが多いので多少後悔もしております。総本家さんの自主公演「50年前のあたりまえの風景」に対して皆さんの投稿が多いということは馬堀がそれぞれがよく通われた地であり思い出が多いのだなと感心しております。DD54は「出雲」の牽引で撮ったことがありますが、短命の機関車で撮影意欲はそれほどあった訳ではありません。しかし、DD54はDF50共々今になってそこそこ格好いい機関車に見えます。一方、DD51は入れ換え機DD13を大型化したような形でとうとう最後まで好きになれませんでした。大体凸型は苦手でした。
さて馬堀で夕方のDD54を撮っていましたので1枚貼り付けます。1968(昭和43)年9月21日20分遅れの福知山発京都行き840列車DD546+DD543とメモにあります。
準特急さま
いつもコメント、ありがとうございます。貴重なDD54重連ですね。私は御召で重連を撮っていますが、ほかで見たことがありません。準特急さんからは、撮影地における、関東と関西の違いを聞かせてもらいました。関東はダダ広いから、なかなか山間地に行き着かない。片や関西は平野部が狭く、とくに京都は、10分も行けば、山間部や田園地帯に行ける。これが、撮影地として関西の魅力だと聞いていました。馬堀はその典型だと思います。
最後に京都でみかけたのは・・・はしだてビーチ号だったと思います。 DD54 12 ?
アサヒフレックス タクマー50/3.5
トライX
しろくま様
写真、ありがとうございます。「はしだてビーチ」は後年、DD54に変わっていましたね。ただ、時折、C57が代走することもあって、それを狙って写しに行ったことがありました。