日常を記録する
しばらく途絶えていましたが、また自身の記録に戻ります。京都市伏見区の深草が、旧深草町誕生百年を記念して、伏見区役所深草支所、龍谷大学、地域の文化団体が中心になって、多くの記念事業を展開しています。私は、深草には何の縁もない、一介の市民に過ぎませんが、できる範囲の協力をしてきました。テーマは「未来へ紡ぐ深草の記憶」。地域の暮らし・文化は、身近であるがゆえに、みんなで語り継ぎ、継承しなければ、その良さや重要性に気づくことなく失われてしまいます。地域の文化・歴史を共有して、未来を創造することが大事であるとの考えのもと、地域の暮らし・文化にまつわる写真・資料を収集、デジタル化して、地域で共有する取り組みです。文化庁の地域総合活用推進事業にも認定され、私もその趣旨に賛同して昨年から協力してきました。
▲深草の地域を東西に横断していたのが市電稲荷線で、50年前、昭和45年に廃止された。現在の同一地点から見ると、左の稲荷山は、マンションに囲まれて、頂上付近しか見えず、中央でひときわ目立っていた伏見稲荷の儀式殿(結婚式場)は、現在でもあるものの、老朽化して、すっかり色褪せして、地味~な存在になっていることを、ワークショップに来場していただいた市民の皆さんに見ていただいた。
先般は龍谷大学の教室で、市民の方に来場していただき、コロナ禍で延期されていたワークショップ「市電と深草の暮らし」を開催し、私の写真や、西村雅幸さん、ほかの方からお借りした写真をもとに、深草を走った、市電伏見線・稲荷線、奈良線や京阪について100分間の話をしました。終わってから、オブザーバーとして、地域の歴史継承をゼミテーマにしている龍谷大学の学生さんと話す機会がありました。市電のことなど、親の代ですら実体験のない世代ですから、思いも寄らない質問が来ます。地域の歴史を記録するために、大事なことは何でしょうかという質問になりました。
「近所で日常の写真を撮るだけです」と答えました。鉄道に置き替えれば、何も、イベント列車や希少な車両を血眼になって追う必要もない(そんなもん誰かが撮っている)、ふだん当たり前に走っている風景ほど、五十年、六十年経てば、自分でしかできない記録として輝きを見せると力説しました。
長々とツカミを垂れましたが、要は、また古い写真を見てもらうということです。ただ今回は、ひとつの括りを付けました。ちょうど五十年前に限定して、当たり前にあった、身近な鉄道を見てもらいたいという趣旨です。あとで述べますが、昭和46(1971)年という年は、私個人にとっても特別の年であり、年末のテーマとして適切と判断しました。
▲深草には京阪電鉄が開業した頃、第十六師団が移転し、軍隊のまちとして栄えた。東側に司令部があり、西側に練兵場があって、その間を走る京阪は、隊列が踏切待ちで分断されることがないように、京阪の費用で乗り越し橋を造った。それが、いまも龍谷大学前深草~藤森にある、第一・第二・第三軍道である。写真は、第二軍道をくぐる1000系の宇治行き、この写真は、もと深草の住民だった西村雅幸さんから提供をいただいた。
▲本町通を走る市バス16系統、周囲は賑やかな商店街が続く。市バスは市営地下鉄の延伸時に廃止され、商店街も今はずいぶん静かな街並みになった。来場いただいた皆さんからは、「この店は、まだやったはります」など話が飛び出し、大いに盛り上がった(写真は、デジ青に投稿済み)。
▲その本町通りには、町家や近代建築が連なっていて、興味深い町並みになっていた。左の薬局は業種を変えていまも健在、右上の銭湯「萬寿湯」は廃業して解体された。右下のお茶屋は、その後、修復されて、龍谷大学の「深草町家キャンパス」となり、地域の文化発信の場として使われるほか、講義も行われている。
『日常を記録する』
素晴らしいテーマですね。ふと気が付けば、私もカメラを手にして50年を過ぎました。昭和46年頃はハーフ版のカメラを手に、加太や伊賀上野へ何度も通いました。しかし、フイルムに写っているのは蒸気機関車ばかりで、気動車や貨車は端の方にわずかに見えるだけです。自分が乗った客車や気動車の写真は、一枚もありません。駅員や乗客は意識して除外しました。しかし、今ではそんな日常の風景こそが懐かしく感じられます。蒸気機関車の写真は、写真集やネットで自分よりも上手な作品をいくらでも見られますから。
市電の写真展にお邪魔する理由のひとつには、撮影された当時の街並みを見る目的があるからです。来場者の昔話を聞くのも、楽しいものです。「河原町丸太町」の写真展では地元の方が多く来場され、市電が走っていた頃の街並みを見て、自身の若い日を思い出されたことでしょう。
町内会の役員を仰せつかった年、地蔵盆の行事で鉄道模型を走らせ、市電の写真を見ていただきました。車両は京都に縁ある物ばかりです。広島の1900形は「あっ!市電や」の声が上がり、旧塗色の京阪電車には「やっぱり京阪はこの色がええ」との反応もありました。市電の背景には今は無き大宮東映が写っていて、「子供会から連れてもらった」と話す、昔の子供の言葉を聞いて、やって良かったと思いました。
しかし、これらの写真は未来を意識して写したものではありません。たまたまシャッターを切っただけのありきたりの構図で、発表するほどのものではありません。長い年月を経て、人々の記憶に訴える何かがあったのでしょう。
「近所の日常の風景を撮るだけです」
この意見に、私も大賛成です。自宅前を見ても、数十年、いや、10年も経てば変化があります。京都は古い町並みが残っている。そんな謳い文句は寺社の境内だけです。観光地の店も半世紀前とはすっかり顔触れが変わり、嵐山などは別の場所のようです。市内に目を向けると、子供の頃に見た建物はなくなってしまいました。市電やバスを待った停留所から見た風景、そんな過去に会うために写真展へ足を運ぶ自分がいます。
このシリーズ、期待してます。
紫の1863さま
ご自身の体験も交えて、コメントをいただき、ありがとうございます。「日常を撮る」は、実はいま書いている「50年前」ごろから意識したものです。それまでは、ひたすら車両・列車中心に撮っていました。何かそれだけでは空しい、鉄道は人やモノを運んでこそ、成り立っている産業です。なら、人もモノも積極的に取り入れようと思うようになりました。写真展をするたびに、その思いは間違っていなかったと確信しました。その頂点が、1863さんも書かれている「河原町丸太町」写真展でした。近所のオバちゃん、オッサンが押すな押すなで、「ええわぁ~」の連発で、一緒にやったカンジロウさんとともに感涙にむせびました。そんなご近所の日常を発表していきたいと思っています。よろしくお願いいたします。
萬壽湯の写真も撮っています。
平成2年の正月明けに近代建築ウオッチングで伏見のまち歩きをした際に写しています。1枚目の薬局もほぼ同じに写しているので、このおかみさんが朝清掃している写真が好みです。
KH生さま
「萬寿湯」も撮っておられましたか。タイルで描いた、ヘタウマの字が最高ですね。いつ頃、廃業したのかは知りませんが、深草の講演の時も、地元の方は、みんな銭湯があったことはご存じでした。いまは空き地になっていて、前の地蔵尊だけが残っています。
昭和45年3月1日、京阪との平面交差を通過する⑲です。突然雪が降り出しました。
京阪優先で、普通電車は、深草で特急や急行を退避するため、ヘタをすると3~4本位待たされることがありました。
藤本さま
写真、ありがとうございます。藤本さんとは、何度も伏見線、稲荷線へご一緒して、いろいろ教えていただきました。なかでも、いちばんの思い出は、伏見・稲荷線の最終日の朝に、電停で背広姿の藤本さんにバッタリ出会ったことです。聞けば、この日が、会社の入社式だったとのこと、藤本さんにとっては、伏見・稲荷線の最終日が、社会人の第一日目だった訳ですね。
総本家青信号特派員様
龍谷大学でのワークショップの熱気が伝わってきました。同席したかったですね。民俗学者の宮本常一氏が三原をはじめ、瀬戸の島々の何気ない膨大な日常風景をハーフカメラに収められており、非常に貴重な民俗資料となっています。「昔のことを一生懸命研究する人は多いが、100年後の人達のために現在の日常を記録する人はいない」という趣旨のことを語られていて、なるほどと感心し、鉄道に限らず「近所で日常を撮る」ことを続けています。定点撮影もおもしろいものです。「50年前に見た当たり前の風景」シリーズを楽しみにしています。
西村様
コメント、ありがとうございます。かつての深草住民の西村さんからは貴重な写真を貸していただき、改めて御礼申し上げます。前にもお伝えしましたが、大亀谷から来られた、おばあちゃんからも、当時の様子や、付近で獲れる農産物の話を聞かせてもらいました。西村さんからは、三原市の歴史・伝承をこまめに調べておられること聞いています。お互いに住む地域は違いますが、“近所を大事にする”記録を続けていきたいと思います。
50年前の風景が、2年、3年経つと、さらに変化します。冒頭の伏見線の背後に見えていた白い建物、伏見大社の儀式殿が老朽化のため取り壊されたと、地元新聞に報道がありました。星形をしたユニークな建物でした。伏見線を撮った時は、出来て間もない頃で、遠くからひときわ目立っていました。
もうひとつ、3番目の深草を走る市バスの写真が、店舗デザイン雑誌に採り上げられました。深草を例にして、街並みや建物の変化を、現況とともに定点対比しています。何気ない光景を記録として留めておくことの重要性を改めて感じました。