貨物を牽いたD52・D62
▲大カーブを終えて、直線で山科駅に向かうところに、三条通(当時、国道1号)を越すガーダー橋があり、アクセントとなっていた。眼前をゆっくりとD52 203の牽く貨物が通り過ぎる。戦後の荒廃も癒えて、貨物機と言えど、美しく整備されていた。よく見ると、同機にも集煙装置が取り付けられていることが分かる。
佐竹さんに好きな蒸機は? と聞くと、意外にも「D52です」と返事があったことは、準特急さんからの投稿からも伺えます。今回の写真展で、その気持ちが理解できたような気がします。昭和30年代の山科の主役は、C62・C59でもなく、貨物を牽いていたD52・D62であったこと、その当時に撮影した人間でしか分からない実感だったと思います。なにせ、戦後、高度成長の端緒に付いた時代、鉄道の貨物量は、現在とは比較もできないぐらい膨大なものでした。資料を見ますと、昭和31年の鉄道の貨物輸送量は約18,000万トン、現在では4,000~4,500万トンですから、ざっと4倍の貨物量があったわけで、とくに、天下の東海道本線には貨物が集中していたのでしょう。
佐竹さんが、「やましなものがたり」に昭和28年のある日の山科の列車種別を記した一覧があります。それによると、6~17時台の明るい間、貨物列車は臨時も含めて上下48本程度、それに比して、旅客は、優等列車、普通列車、荷物列車ともで上下58本程度で、意外に貨物が少ない印象はありますが、夜間になると、がぜん本数が増えて、18~5時台では、旅客は上下38本に対して、貨物は上下55本となり、昼夜を分かたず、貨物が山科を通過して行ったことが分かります。加えて上り重量貨物の場合は、極端に速度が落ちて、京都~大津で所要時分が24分と記されていましたから、表定速度は25kmとなり、自転車程度のゆっくりした速度で眼前を通過していましたから、高速で走り抜ける特急より、ウンと存在感があったはずで、その先頭に立つD52、D62に畏敬の念を抱かれたのも理解できます。 ▲東海道・山陽本線にたくさん配置されていたD52だが、トップナンバー機もしっかり撮られていた。この頃は吹田一区の配置で、下り貨物を牽いて大津~山科を行く。この機にも集煙装置を付けている。
▲D52の従台車を2軸に改造したD62、全部で20両が改造された。「8620の助けを借りて、貨車70両の1200トンの重量貨物で‥」と書かれていて、ホンマかなと思って、写真の貨車を1両ずつ勘定すると、たしかに69両ほど連結していた。われわれの少年時代にも、貨物が通ると、両数を勘定するのが常だったが、その時は、決まって45、46両だった。
Ⅾ62は姫路電化で一ノ関へ転出し1966(昭和41)年までに廃車されました。写真は1965年9月3日一ノ関機関区での撮影ですから全廃の1年前です。正面はシールドビームの前照灯、予備灯でまるでカニの目玉のようで不細工この上ないと言った感じでした。山科時代の写真で見る艶のある姿とは雲泥の差です。東北本線一ノ関-有壁間には岩手県と宮城県の県境の峠があり、山科の様な開けた感じではなかったですが、一部の貨物列車にはC58の補機が付いていました。尚、D62はその後C62同様の考え方で釣り合い梁の支点の位置を変更することにより軸重軽減されました。専門家にそのことを訊きましたがよくわかりませんでした。従台車の数を増やすことなら軸重軽減される意味がわかりますが、釣り合い梁の支点の位置変更でそれほど軸重軽減ができるのかよくわかりません。聞いた話ですが、常磐線から呉線に来た軸重軽減C62は空転が多かったそうです。
忘れていました。この機関車はD6215です。左にチラッと写っているのはボイラ端面角形のC6020です。一ノ関にはD62の他にC61、C60、D51、C58と大船渡線バック運転用にテンダーを切り開いたD50などが見られました。仙台最後のC59もここで泊まって翌朝帰って行ったものと思われます。
大船渡線の変形テンダーのD50は有名ですが、似たようなテンダーのC58を撮っていました。1970年8月23日、新庄ですれ違った列車の窓から撮った新庄機関区のC58 206で、撮影時には気付かず、現像後もC58なので注意して見ませんでした。最近、デジタル化をしていてやっと気が付きました。私はC58にもこんなテンダーがあったことは知りませんでした。こんなテンダーになった事情、他にもいたのか等、ご存じの方、ご教示ください。
珍奇な車両を得意とする井原さんに神様がプレゼントしてくれたのでしょう。私も始めて拝見しました。
ありがとうございます。
準特急さんがご存じないとしますと、これは相当手強いのでしょうか。困りました。
井原様
私も、変形テンダーのC58見つけましたよ。横手区のC58298で、大船渡線のD50と似たテンダーです。しかも、デフなしとは、相当に変形です。履歴を調べますと、撮影の4ヵ月前に新見から転属したばかりでした。横手に転属してすぐにテンダーが交換されたようですが、井原さん撮影のC58206からの流用かもしれません。
準特急さま
やはり撮っておられましたか。さすがです。昭和40年と言えば、DRFCに入られて1年目ですね。私は、制式蒸機のなかでD62、E10は、撮ることはもちろん、見ることも叶いませんでした。書いておられる釣り合い梁の支点を変えることは、割合い簡単に変更できるように聞いたことがありますが、実際、どのような変更なのか、よく知らないままです。
D625 一ノ関出発 この上り貨物にはC58304の後補機が付いています。
米手作市様
この写真はいつ頃撮られたのでしょうか。と言いますのはその後撮られて発表されている皆さんのD62の前照灯を見ますと私が申し上げたカニの目玉のようなシールドビーム2灯です。米手さんの前照灯はLPの番号がよくわかりませんが従来タイプのようでしてその横にシールドビームの予備灯が付いています。多少古い時代の作品です。恐れ入ります。大体は想像がつきますが、いつ頃くらいかは思い出せることのできるご年齢ですので宜しくお願いします。
キャブ廻り
特派員様 E10に会う機会はありませんでしたが、D62は高校1年の夏休みに亀岡のM君と東北旅行に出かけ、花巻駅でD624を、一ノ関駅でD6218を撮ったのが最初で最後です。一ノ関駅のホームがこんなに低かったとは。
昭和40年3月23日、一ノ関機関区で撮影したD6217です。当時からローカル私鉄をメインに撮影していましたので、D62のまともな写真は、この1枚だけです。
架線の下ですが、1965(昭和40)年9月3日東北本線一ノ関₋有壁間の上り貨物牽引するD624です。
もう1枚。1965年9月5日同線塩釜-陸前山王間を行くトップナンバーです。
準特急さん、あなたは高齢者運転免許更新試験の担当者ですか?
記憶力は完璧です!撮影年は昭和38年8月です。
では、もう一枚。これは仙台だったと思います。
米手作市様
有難うございます。今では想像もつかない当時の仙台駅の風景。場所と時期がわかれば貴重な記録写真がさらに素晴らしいものとなります。加えてちょっとした思い出などがあれば最高です。
山科のSL写真には花山天文台がよくランドマークの如く写りこんでいますが、ご掲載の写真にもクッキリ写っています。2017年の天文台特別公開に行きました。天文学の素養はありませんが、建物、望遠鏡もなかなか見ものでした。天文台から大築堤を俯瞰できるか、ひそかに期待して行きましたが、残念ながら見通しはききませんでした。
宇都家さま
コメント、ありがとうございます。花山天文台は、山科のランドマークでしたね。とくに、大カーブで上り列車を撮ると必ず背後に写っていました。天文台付近は、いまは木が繁って展望は難しいのでしょうね。佐竹さんの当時は、天文台へ行く途中の道から、山科の大パノラマが利いたようです。
山の上から大築堤を行く蒸機列車を眺めたらさぞ絶景だったことでしょう 緑化はいいことなんでしょうが、樹木の過度の成長は視界を損ないますね