「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅵ-

集煙装置を付けたC62

上り「はと」を牽くC62 42 向こうに山科駅が見える(昭和30年5月)。

「これは初めて見ました」と、撮られた佐竹さん自身もまだ気づいておられなかった写真も数点展示しました。上掲の写真もそうです。撮影場所は、山科駅の少し東、大築堤で撮られた写真は数多いのですが、山科駅が入った写真はほとんどありません。いつも完璧性を追求される佐竹さんらしい撮影場所の選択ですが、写真展の場合は、流れの変化と、撮影場所を明確に伝えるという観点から、駅構内も必要と感じて加えることにしました。この写真から、山科駅は二面四線の典型的な国鉄駅の構造だったことも分かります。そして、注目すべきは、C62 42の煙突回り、ヘンなものを付けています。これこそ、C62に唯一取り付けられた集煙装置なのです。

東海道本線は、米原以東は電化が完成していて、関ヶ原も難所ではなくなり、京都~大津が、東海道本線最大の難所として存在していました。とくに、東山、逢坂山トンネルへの対策の一つとして、吹田第一区のD52に取り付けられていた集煙装置を改造して、昭和28年に試験的に宮原区C62 42に取り付けられたのです。

結局、高速を要求される特急蒸機にはあまり効果が得られなかったようです。と言うか、国鉄最上級の「つばめ」「はと」において、長大トンネルでの無煙運転を行うために、乗務員の運転技量の研鑽・向上が図られていたことが、連載「やましなものがたり」からも伺えます。特急牽引機に無粋な集煙装置など、不要と判断したのでしょうか。取付はC62 42だけに終わり、昭和32年10月、小樽築港区へ転属した際に取り外されていて、その期間は4年で終わりました。「国鉄時代」の表紙も飾ったC6242の牽く「はと」、京都市内、東大路通の下をくぐって東山トンネルに入る。取り付け直後で、検査のため、テンダー上に検査員がしがみついているのが見える。集煙装置の横に、斜めに取り付けられた板状のものが何かと会場で話題になった。九州の蒸機の煙突横に取り付けられている、煙の濃度を計測する、リンゲルマン濃度計ではないかとの結論になった。

こちらは米原駅構内、下り「はと」がEF58からC6242に交代するところ。誘導掛の振る手旗旗に導かれて、今まで牽引したEF58112の横をゆっくり過ぎていく。

 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅵ-」への26件のフィードバック

  1. C6242の集煙装置はD51やC57など一般のそれとは異なり角張っておらず流線形的に仕上げられています。試作的要素もあったのでしょうが特急牽引機用に特別に格好よく作ったのではないかと思ってしまいます。リンゲルマン煙色濃度試験計は九州に多かったですが、千葉管内でもよく見かけました。C6242は小樽築港の後は昭和38年4月に仙台に転属し1年後廃車されています。昭和38年4月の動力車配置表では小樽築港所属ですがその後赤ペンで転属を記録しております。吹田一区のD52集煙装置付きの残党が結構遅くまで残っておりデジ青でも発表されたと思いますが1枚貼り付けます。昭和39年5月21日阪急中津駅下の梅田貨物駅付近で撮ったD52340です。

    • C6242の集煙装置は、たしかに違和感はありますが、決して不細工ではなく、一体感があって、あれはあれで良かったと思っています。同機は、小樽築港へ転属したものの、すぐ仙台へ転属して、1年で廃車になっていますから、記録そのものも少ないようです。リンゲルマン濃度試験計は、九州だけでなく、千葉管内にもあったとのこと、決して九州の専売特許ではなかったこと分かりました。

      • 1966(昭和41)年7月24日、房総西線(現在の内房線)竹岡付近のC57160の海水浴臨時かもめ3号でC58も含め何両かの蒸機が煙濃度試験をつけていました。なお、C57160は奈良県の王寺駅近くの小学校に保存されています。

        • 私は房総の蒸機は全く撮ったことがなく、珍しいC57を見せてもらいました。たしかに、煙突横に装置を取り付けているのですね。九州と比べると、横幅のある、大きなサイズだったことも読み取れました。

  2. もう1枚 !    昭和37年10月2日安治川口で撮った吹田1区の集煙装置付きD52142です。

  3. 井原 実様
    その話はひょっとしてあるんとちゃうかと思っとりましたが、勘弁してちょ。なにせ安もんのハーフで撮ったんで番号や形式は分からず今でもそうですが、客車に対しては「豚に真珠」、「猫に小判」のようなもんでして興味がなくてメモもしとりません。全体を撮ったものがありますが、参考にならんでしょう。

    • 早速ありがとうございます。
      これは配給車で、オハ31を改造したオル31ですね。安治川口ですと大鉄局で、昭和37年10月時点では、
      梅田 5,50,205,207,210,211,213,217
      神戸港 3,201,219 合計11両
      が配置されていました。
      1~は便所無し、201~は便所有りです。準特急さんの写真では便所の反対側で、床下に水槽が有るか無いかがよくわかりません。
      ともあれ、目の保養をさせていただきました。またお願いします。

      • 井原 実様
        厳しい井原さんから直ぐにご丁寧な解説をいただきホッとしております。有難うございました。私は知識がない上に客車の配置表というものを持っておりませんので客車の鬼のような方々から客車についてのご指摘を受けますとあわてふためくのが実情です。米手作市さんからも次のコメント欄に実物の写真を張り付けていただき納得しました。オハ31ならあの頃はまだそこそこ見られましたのでその改造車オル31はそれほど珍しいものではなかったようですね。

        • オハ31は、昭和37年度初は278両、末には195両に減っていますが、希少という程ではありませんね。オル30は15両、オル31は74両と、配給車の90.8%を占めていました。

    • 準特急様
      D52の後ろの客車に注目が行っていますが、私は昭和37年に(準特急さんは高校2年生でしょうか)なにゆえ安治川口まで行かれたのか、そのほうが気になります。私も吹田一区のD52は、城東貨物線で撮っていますが、梅田駅や安治川口など、大阪のあちこちで活躍していたのですね。

      • 総本家青信号特派員様
        C6242が主役のはずが吹田1区のD52の集煙装置の改造の話が出て、それなら撮ったことがあるので脱線したところ、さらに米手作市さんの戦時設計D52や井原先生のオル31に派生しました。焦点がぼやけましたがコメント写真も多く出てよかったので勘弁してください。安治川口は天王寺で阪和線のEF52やED60を、大阪で151系や153系を撮ったあとに桜島線をぶらっと乗り鉄しました。広いヤードにD52がいたので撮ったまでです。保存蒸機で有名な元大洋のスーパーカートリオの一人で後に巨人に行ったYさんはこの辺りの出身だそうです。

        • ご連絡、ありがとうございます。なるほど、当時の桜島線は、ユニバが出来る、はるか前ですから、特別に行く用事のない線だったと思います。ぶらっと乗り鉄も理解できました。Yさんが、この付近のお生まれだったとのこと、兵庫のS学園高校と聞いていましたので、阪急宝塚線沿線あたりの育ちかと思っていました。著書の略歴を改めて読んで、大阪市此花区生まれで、純粋の大阪人と分かりました。私より10歳若く、誕生日も2日違いと言うことも分かりました。

          • 総本家青信号特派員様
            Yさんは此花区のあとに川西池田の方に移られたようでヤクルトのキャッチャーのF田さんは小学校だったか中学だったか忘れましたが後輩だそうです。なお、三田学園時代は寮生活であまり福知山線のことは話されませんでした。

    • さすが米手さん、珍奇な写真をありがとうございます。
      この車両は、オル31の形式図(VC03535)とは車体の向きが逆なのですが、何故でしょうか?
      画面右側に物品を置く区分棚があり、屋根左端にストーブの煙突がありますね。

  4. 準特急さんへ
    集煙装置がついたD52の写真を拝見しましたが、私はこんな珍しいD52の写真を持っています!なにが珍しいか?
    大雪の瀬野で撮りました。

    • 米手作市様
      D52は我々と同じ時代の生まれで物資の少ないころの戦時設計スタイルでした。D51やC11などにも戦時設計が存在したことはご存知の通りです。Ⅾ52は角形ドームでデフレクターも板のようでした。テンダーも見た目には上段部分が小さくなっていたようです。一番大きな特徴は米手さんの雪の瀬野で撮影されている417号機のように煙突の前にある給水温め器がないことです。珍しいと言えばこの事くらいしかわかりません。戦時スタイル車は戦後しばらくしてから後年見られる姿に順次改造されて行ったと思います。米手さんが撮影された時期にはまだ戦時色を残したD52もある程度いたと思います。因みにD52の戦時スタイルは佐竹さんが2番目くらいに好きな蒸機だと言われていました。(一番は分かりますか?) また、電機ではEF13が戦時設計でしたがこれも写真等ではご存知と思います。

  5. 特派員様
    誠に僭越ながら以下の部分が誤りではないでしょうか?
    《「国鉄時代」の表紙も飾ったC6242の牽く「はと」、京都市内、東大路通の下をくぐって東山トンネルに入る。》
    撮影場所は東山通りの東側ではなく、西側ではないでしょうか?
    理由は写真の三線が接近していること、北側に側道があることです。下り線は東山通を西へ越えるまでは南へ離れています。トンネル入り口に保線小屋があったほどです。また、北壁は道路は取れないくらい急な斜面です。今も東山通の西には側道があります。
    トンネル入り口付近からの写真を掲載しますのでご覧下さい。
    向こうに見える橋は東山通りです。

  6. これから「東大路通の下をくぐって東山トンネルに入る」と解釈していました。佐竹様が撮影されたのは、米手様がおっしゃる通り東大路通西側です。更に付け加えるなら、大谷中学高等学校のグラウンド東端あたりです。側道の傾斜具合と、わずかに見える石垣が決め手になりました。昭和20年代には瓦工場があって、石垣は今も痕跡をとどめています。
    米手様の写真は昭和30年代後半の撮影でしょうか? 現在の下り外側線の工事が始まる前ですね。

    • 米手さま
      紫の1863さま
      細かいところまで見ていただいて、感謝いたします。適当なことを書いてしまいました。たしかに、東大路の西側、大谷高校のグラウンドの前あたりですね。石垣はご指摘のように今でも見られますね。ただ瓦工場があったとは知りませんでした。

  7. 紫の1863さん
    なるほど《(これから)東大路通の下をくぐって東山トンネルに入る》とも解釈できますね。それならこの記述は間違いではありません。いずれにしても特派員さんの正解発表を待ちましょう。

  8. SNさんから井原さんへのメッセージ

    いつも写真解析でご協力いただいているSNさんから、井原さんの「珍奇な写真をありがとうございます。この車両は、オル31の形式図(VC03535)とは車体の向きが逆なのですが、何故でしょうか?」
    “珍奇”ではなく“貴重な”が正しい使い方ですが、これはさておき、以下にSNさんの調査結果を貼りますのでご覧下さい。
    https://drfc-ob.com/wp/archives/127604#more-127604
    へのSN様の投稿と併せてご覧下さい。

    《米手様投稿のオル315について井原様より問い掛けのあったオル31の形式図との関係について調べてみました。
    1.先ずはインターネットで写真をみることができる実物のオル31(ただし、オハ31から改造されたものに限る)の区分棚の位置と改造時の便所の取り扱いを調べまとめました。
    窓配置から推定すると
    (1)オル31 0番台
    ①区分棚は改造前のオハ31の前位側(便所・洗面所と反対側)に設置。改造により便所は撤去。
    ②添乗員室は改造前のオハ31の後位側(便所・洗面所側)に設置。元便所の位置はおそらくストーブ置き場とし屋根にその煙突を置。

    (2)オル31 200番台
    ①区分棚は改造前のオハ31の後位側(便所・洗面所側)に設置。便所は引き続き存置。
    ②添乗員室は改造前のオハ31の前位側(便所と反対側)に設置。前位側最寄りの座席を撤去しその位置にストーブ置き場とし屋根にその煙突を設置。

    (3)オル31の写真はyahooで「オル31」で検索し、検索結果が表示されたら検索窓の下を画像に設定します。

    オル31 0番台24,37(これはDRFC-BBSが出典),45
    オル31 200番台204,213,214を閲覧できます。+米手様掲示の5

    2.オル31の形式図
    調べるにあたり、私はオル31の形式図VC03535は持っていないため、手元にあったキャンブックスの岡田誠一著:国鉄鋼製客車Ⅱのp218に掲載のオル31形式図を見ました。

    ① 区分棚は改造前のオハ31の後位側(便所・洗面所側)に設置。しかし平面図には存置しているはずの便所が見当たりません。元便所の窓の位置はそのままです。

    ②添乗員室は改造前のオハ31の前位側(便所と反対側)に設置。前位側最寄りの座席を撤去しその位置にストーブ置き場とし屋根にその煙突を設置。→窓配置だけからは200番台のように見えます。
    なお、ストーブの位置が異なる2通りの添乗員室が描かれています。

    3.以下は調べのまとめ(私の勝手な推測)です。
    (1)0番台
    便所を撤去する仕様の場合、現場の感覚すれば最後のご奉公の配給車としての運用にも支障がなく改造工期が限られているため、作業の容易な座席撤去と窓を目隠しするだけでよい区分棚を前位側(便所・洗面所と反対側)に設置し、執務用机、調理用の流し、石炭ストーブ等新たに追加する必要のある添乗員室を後位側(便所・洗面所側)に設置することになったような気がします。

    (2)200番台
    逆に便所を存置する仕様になれば、逆に区分棚を後位側(便所・洗面所側)、添乗員室を前位側(便所・洗面所の反対側)に設置することになったような気がします。

    (3)その他
    ①形式図VC035035一葉だけで0番台、200番台双方が表現されているのでしょうか

    ②形式図は改造と同時並行か後追いで作成されいたかもしれません。

    形式図VC03535の現物が見れずここまでが私のまとめです。力不足申し訳ありません。

    種車がオハ31以外の場合について補足します。
    1.種車がオハ30の場合ーオル31 0番台26,27
    ・写真がキャンブックス国鉄鋼製客車Ⅱp218でています。

    ・窓配置からは定かではありませんがオハ30の写真の票差しの微妙な位置から、区分棚は前位側(便所・洗面所と反対側)と推定

    ・オハ30についてはデジ青オハ30の話投稿日時: 2017年8月25日 投稿者: 湯口 徹様にあります。

    2.種車がオハフ30の場合
    ①オル31 0番台48,52,53
    写真がなく確認できませんでした。おそらく便所撤去があるので区分棚は前位側。

    ① オル31200番台221~223
    区分棚は種車のオハフ30の後位側(手ブレーキ側)

    3.種車がオロ31の場合ーオル31 0番台43
    写真がなく確認できませんでした。おそらく便所撤去があるので区分棚は前位側。
    以上

    追伸:準特急様のD52142次位は窓配置からはオル31の200番台と思います。

    • オル31(VC03535)です。日付は昭和31年9月となっていますが、この時点では便所無しとしていて、昭和33年7月9日付で便所部分を追加しています。ですから、便所無しのオル31 1の改造はこの図に基づいて施工されたと思われます。一方、便所有りの201~は、204が一番早いのですが、昭和32年12月26日付改造ですので、日付としては図の方が遅れています。実際の改造に際しては、既設の便所を残し、区分ダナを現物合わせで付けるわけですから特に問題は無かったのではないでしょうか。なお、日本国有鉄道『客車形式図 1959』p.25-12は、「オル31201~31220」というタイトルで便所部分の図が隠れてしまっています(注記は残っています)。キャンブックス『国鉄鋼製客車Ⅱ』p.218の図は、スペースの関係で省略したのでしょう。
      事業用車両では(ある程度両数が多い形式は特に)、種車の形式が違う場合という事情があったりもしますが、VC図面と現車が違うことはよくあります。米手さんのオル31 5は、オハ31改造でありながら「5」番の時点で早くもVC図面と相違していることがわかります。梅田と神戸港のオル31は全てオハ31改造ですから、準特急さんのD52 142の次位は、床下に水槽がある(つまり便所がある)ように見え、また確率からいっても201~の可能性が高いですね。

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