ハチロク補機
▲逢坂山トンネルの西口付近、貨物列車を押し上げるハチロク補機、本務のD62は、もうトンネルに入っている。撒いた砂のため、道床は白くなっている。上りの重量貨物列車は、梅小路~膳所で補機の助けを借りて10‰勾配を上がって行った。
山科にハチロクとは、ちょっと違和感がありますが、写真展では数点を展示しました。このハチロクは、1200tの重量貨物列車の後部補機として、梅小路~膳所の上り貨物で運用されていました。佐竹さんが最初に山科で撮った昭和23年には、なんと補機にC53が使われていたということですが、まもなくハチロクに置き換えられました。
この頃、梅小路区には12両のハチロクが配置され、湖東線、山陰本線の各駅の入換と、膳所までの後補機がおもな働き場所で、入換用は朝早く単機で各駅に回送されました。いっぽう補機は、一仕業3往復で、間合いに浜大津支線の貨物を牽いて、江若鉄道向けの貨物の中継も行っていました。それが済むと、単機、重連で梅小路に回送されますが、臨時貨物が運転されると、時には三重連となって回送されることもありました。また梅小路の六検(機関区で行われる6ヵ月ごとの検査)の試運転を、補機仕業を兼ねて行うことがあり、D51や、ときにC57、そしてC62 3も補機として使われていたのを撮影されています。
▲キャブ下がSカーブになったハチロクの初期車、8635が推す上り貨物。
▲展示はしなかったものの、山科にもこんな霧の深い日もあった。
▲時にハチロクの補機回送は三重連になって梅小路に戻ることもあった。築堤の南側から、夏空に雲が湧いて、ハチロクはシルエットで撮られている。「山科でいちばん好きな写真です」と佐竹さんは、言っておられた。
遅くなってしまいましたが、このシリーズを期待しておりました。会場ではじっくり鑑賞したつもりでしたが、膨大な作品数に圧倒され隅々まで見ることはできませんでした。どうしても車両中心になり、風景の変遷や線増の歴史にまで思いを馳せることはできませんでした。
「鉄道ファン」に連載された『やましなものがたり』を開き、会場では得られなかった知識や時代背景にも思いを巡らせています。
1枚目の逢坂山トンネル西口付近は湖西線ができて、すっかり様子が変わってしまいました。気が付いたころは既に工事が始まっていて、電化前の様子を想像することもできませんでした。
撒かれた砂で真っ白になった道床も印象的ですが、10‰の勾配とはいえ定数一杯の重い貨物を牽くD52には難所だったのですね。
2枚目の8635の前はワフ25000でしょうか? 後にワフ35000に改造された緩急車ですが、昭和30年頃は普通に見られたようですね。電化工事も近いのか、コンクリートの電柱も見えます。
それにしてもシャープな画像ですね。60数年も昔に、これほどまでに見事なネガを残された佐竹様の技量に脱帽するとともに、丹念なデジタル作業を行われた総本家様に感謝です。
紫の1863さま
コメント、ありがとうございます。河さまの項でも書きましたが、私が初めて山科で撮ったのも、逢坂山トンネル西口でした。86テンダーの上に砂利道が見えますが、ここを行くと、トンネルの真上に出ます。架線はありましたが、昭和37年に行った時も、佐竹さんが撮られた時代と、それほど変わっていなかったと思います。今でも、逢坂山トンネルに近づくと、ついトンネル上の道路を見て感傷に浸っています。
86の前の貨車はやはりワフ25000ですか。会場で展示の86貨物の後部の緩急車が貴重なワフ25000だと話題になりましたね。
昭和30年代と40年代後半の航空写真を比べてみると、山科の変貌ぶりに驚きます。名神高速道路と新幹線が開通し、田畑をつぶして住宅が建てられました。逢坂山トンネル西口付近も広い住宅地が開発され、のどかな田園風景は一変してしました。ちょうど大阪万博が開催された時期と重なり、なるほど、「日本列島改造計画」ですか。
佐竹様が自転車で山科まで通われていたと知って驚きましたが、総本家様も自転車で行かれましたか。皆様の行動力には、とてもかないません。私は嵯峨が精一杯でした。九条山の上りは自転車では厳しかったことでしょう。私の単端式ガソリンカーは、4速に落とさないと登ってくれません。
紫の1863さま
九条山は、碓井峠と同じ66.7‰ですから、自転車でもたいへんでした。逢坂山トンネル西口は、気に入ったのか、翌年の中学2年生の時にも出かけています。「第一ひびき」がトンネルに入るところです。その後が、佐竹さんが86補機を写されたところになります。
総本家青信号特派員様
佐竹大兄の「わが“やましな”の記憶」には、小生の全く知らなかった世界に引き込まれている自分がおります。
小生が鉄道(国鉄)に目覚めた頃は、既にSLは衰退が始まっており、身近な国鉄は阪神間の「省線電車」でした。
ただ、大阪以西の東海道本線上では上下4線の両外側がSLの主戦場となっていて、旅客はC62、C59が、貨物はD51やD52の他にD62等が入り乱れていたと記憶しております。
しかしながら、当時小学生の小生には、後の国電である「省線電車」への憧憬の念でいっぱいでした。
「山科」が有るのを知ったのは、ず~っと時代が下った「湘南型急行電車時代」で、大兄が撮られた「山科の試運転電車」に強烈な印象を持った時だったと記憶しています。
自分も「このアングル」で「急行(快速)電車」をモノにしたい!
ネガを振り返って見ると、「記念すべき」最初の出撃は1962(昭和37)年8月
16日で、104M第一なにわ、3816M草津行き臨電、1032レ桜島、405M比叡2号、102M六甲、845M赤穂行6連快電、830米原行き快電10連、505レゆのくに、などを撮って意気揚々と帰った記憶が有ります。
この時何故かバックに写る比叡山にピカリと光る天文台ドームが目に焼き付き、それを写し込んだ自分のショットに大満足したものでした。
さてさて、こんなに長い文章でコメント欄を占領してしまった「お詫び」に小生としては取って置きの1枚を貼付しておきます。(大兄の足元にも及ばない1枚で~す。 その上、写真は後追いです。)
河さま
山科の思い出を聞かせていただきました。佐竹さんの写真で、いちばん影響を受けられたのは、湘南型の試運転だったとのこと、国電ファンの河さんらしいですね。そして、山科へ最初に行かれたのは昭和37年8月だったとのこと、実は、私も昭和37年10月7日に初めて行っています。中学1年生の時で、自転車で九条山を必死になって上がり、親戚から借りたオリンパスペンで撮りました。行ったのは、築堤でなく、逢坂山トンネルの西口まで行きました。自分にとっては、いちばんの遠出で、いまでもトンネルの上から見た列車の感動が忘れられません。
総本家青信号特派員様
流石に「鉄道オールマイティ」な貴殿の事、小学生の頃から目の付け所が違いますネ。 逢坂山トンネルを出るSLとは。
それも上から見たとは、その迫力を承知の上で観察されたんですネ。
先頭のSLがボワット出て来る様は確かに圧巻でした。(・・・って、専ら小生は阪神間の芦屋川、住吉川、石屋川で天井川の下を通り抜ける、せいぜい2~30メートルの川底トンネルでしたが。)
河さま
いつもコメント、ありがとうございます。私が行ったのは電化後ですが、まだ周囲の雰囲気は、佐竹さんが撮られたままでした。今回、ちょうど60年ぶりにスキャンして、写真を載せました。下りに「第一つばめ」です。さすがに中学1年生ですので、稚拙なものですが、懐かしい思い出です。
総本家青信号特派員様
写真が飛びませんでした。