鉄道少年の時代に戻ってみる  〈5〉

山陰線の普通列車を乗り通す

“江若鉄道・湖西線”月間も、何とか乗り切ることができました。日常のデジ青生活に少しずつ戻ることにします。まずは「鉄道少年」を続けます。昭和39年の中学3年生、家族で山陰方面へ旅行した時の“窓から写した”シリーズです。乗った列車は、京都を早朝5:33発の普通列車の石見益田行きで、11時間余り乗り続けて玉造温泉まで行きました。 改めて時刻表を見ると、山陰本線は長距離鈍行の宝庫でした。京都発なら、石見益田行きだけでなく、発車順に門司、浜坂、鳥取、下関(夜行)、大阪発福知山線経由でも、浜田、米子、出雲市、大社(夜行)と、行き先がすべて異なる長距離鈍行が出ていました。

今回、ネガからスキャンしたものの、フィルムの劣化がさらに進行して目も当てられない惨状でした。そこで、プリントを新たにスキャンすることにしました。精度は劣りますが、キズだらけのネガスキャンよりはまだマシです。 長々としたタイフォンを響かせ、海沿いの鎧を通過して行く「白兎」 (以前の投稿から再掲)

 

乗車した京都発石見益田行き825レ DF50 48[米] DF50にも新塗装化が始まっていた。▲▲京都5:15発の東京発浜田行き急行「出雲」 旧型客車、急行時代の「出雲」の時代。

保津峡を行く825レ ▲▲八木で交換の福知山発京都行830レ C57 41[福]

福知山発京都行832レはC57 58[福]の牽引 下山 ▲▲立木で交換したDC列車 キハ174+20+25+25 東舞鶴発京都行き 

綾部で交換の福知山発京都行き準急「丹後1号」キハ28 189+キハ26 203 ホームに売店もある賑やかさ ▲▲石原にて 福知山発東舞鶴行き935レ D51 334[福]

下夜久野で交換 鳥取発大阪行き712レ DF50 56[米] ▲▲出雲市発大阪行き714レ DF50 44[米] 居組  いずれのDF50も旧塗装のままだった

特急「まつかぜ」が通過。本来は京都発博多行きだが、山陰線水害後のため松江止まりになっていた 岩美 ▲▲米子には15:12に到着、構内に境港線のキハ06(右)+キサハ042が留置中。京都から乗車の825レは、米子まではDF50+客車8両の編成、米子で編成はガラリと変わり、先頭はC57 52[浜]に。客車は増結さされて12両になり、後部にはC57 120[米]が補機として連結、C57+客車12両+C57という長大編成となった。▲▲松江の停車時間中に牽引のC57 52を見に行く。初めて[浜]の区名札を見た。

 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈5〉」への8件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    懐かしい車両たちです。客車内からとはいえキチンと撮影しておられるのはさすがですね。私は慌てて撮ったこともあり、斜めに歪んだものしか撮れませんでした。
    その頃の長距離列車は東海道線を除き殆どが客車でした。乗車された825レが米子から12両になったとのことですが、これは松江で切り離されませんでしたか?さらに後部補機のC57120は逆向きではなかったでしょうか?
    実は小生が長年気になっていた列車の一つに松江17:26発米子行540レという列車がありました。時刻表を見ても松江止まりの前運用が見当たらないため、米子あるいは出雲市方面から回送してくるか、鈍行に併結回送されてきているのではと推理していました。今回の記事を拝見してどうやら825レで松江に来たのではと確信できたように思います。同レの松江着が16:20頃なので辻褄があうわけです。それにしても当時のその辺りで12両もの客車を連ねた列車があったとは驚きでした。
    他にも松江19:10発出雲市行なる短距離客レもありますが、これは木次線内運用後の米イモ所属車を出雲区へ戻す列車でした。当時既に短距離列車の一部はDC化が行われてはいたものの、まだまだ客車も多くありました。

    • 1900生様
      細かいところまで見ていただき、ありがとうございます。ご指摘の825レですが、メモを見ますと、松江から本務のみの牽引と書かれていますので、おそらく松江で、後部のC57120+客車6両は切り離されて、1900生さんご指摘のように、折り返し540レとなったのではと思います。添付の写真は米子~松江で撮った825レの後部です。ただ補機となるC57120は逆向ではなく、正向となっています。松江に転車台があれば、転向のうえ、540レとして仕立てられたのでしょう。なお、昭和39年7月号時刻表では、540レは、松江17:53→米子18:42でした。

      • 昭和30年代の航空写真で松江駅を見たところ、ホームの西に転車台が確認できました。上路式か下路式かはわかりませんが、20メートル級のようです。
        高架駅になった現在では、転車台があったとは想像もできません。

  2. 60年前の夏休みに行かれた各駅停車の旅、時刻表を見ながら楽しませていただきました。それにしても11時間余りも乗り続けるのは、鉄道好きの少年はともかく、ご家族は大変な思いをされたのではないでしょうか。しかも5時過ぎに京都駅で撮影されてますので、お母様は何時起きだったのかと考えてしまいます。
    山陰本線は山あり海ありで、沿線の風景が素晴らしく、それはそれは楽しい旅だったことでしょう。車窓から撮影された駅の様子も、今では見られない素晴らしい〝昭和〟の鉄道風景ですね。綾部駅ホームの売店、石原駅で列車を待つ通勤客など、懐かしく思い出します。と書いたものの、私が見たのはもう少し後、昭和45年以降ですが。
    準急「丹後」1号がたった2両とは疑問に思いましたが、東舞鶴からの編成を待っていたのですね。しかも敦賀からの車両も含まれ、複数の始発駅から来る列車をまとめて京都を目指したのは、少ない本数ながらも工夫を凝らした跡がうかがえます。
    さて、もしも現在このような列車が運転されていたらと妄想しますと、乗ってみたいような乗りたくないような複雑な思いに駆られます。イヤというほど時間がかかり、しかも冷房などありません。快適な暮らしに慣れてしまうと、とても若いころのような旅行はできなくなりました。それでもときどき思い出すのは、いっぱいに開いた窓から入ってくる夏草のにおいと、駅の売店で売っていた冷凍ミカンです。

    • 紫の1863様
      はい、この頃は毎年夏になると家族4人で旅行するのですが、“とにかく長い間乗っていたい”私の意見で、いつも鈍行利用で、しかも早朝出発で、もちろん市電はなく、タクシーでした。私の町内に帝産タクシーがあって、いつも前の日になると予約しに行ったものでした。この頃の山陰線は車窓風景だけでなく、列車・車両も面白く、まさに鈍行旅行に最適の路線でした。列車交換があるたびに、窓から首を出して写していました。綾部駅の「丹後1号」は、お書きのように西舞鶴方面からの到着を待っているところです。ホームの賑わい、売店まであるのには、今とは比べものになりませんね。
      最後の2行、キュンと来ましたよ。窓をいっぱいに上げて、夏独特の匂いを感じました。冷凍ミカン、あったなぁ、買うとまず頭や手に載せて涼をとりました。食べると、冷たいだけで、ミカンの甘さを感じませんでした。

  3. 総本家様が山陰に旅行された昭和39年夏、小学校3年の私は、京都から白兎に乗って母の郷里の米子へ行きました。
    鎧駅で交換した白兎は京都行7両、大阪行5両の12両編成で福知山で分割併合をしていました。京都には14時20分着→15時35分発で、1時間くらい前に2等車(自由席)に並んだのですが、当時の看板列車だけに人気は高く、窓際の席を取れないでガッカリしたのを覚えています。
    米子は小学生の頃はほぼ毎年帰っていて、10日以上過ごしました。リアルタイムの写真で、当時を懐かしんでいます。

    • 勘秀峰さま
      米子がお母様の里であること聞いています。勘秀峰さん自身も、米子が出生地だとか。「白兎」は、山陰線の急行のなかではエリートでしたね。編成も長く、オール28・58系だったと思います。ウサギのヘッドマークも粋でした。
      米子周辺でもよく撮影をされていたこと、とくに「青信号64号」の大山バックの82系「まつかぜ」は、よく覚えていますよ。

      • 総本家様
        青64号ですか!私は半分忘れていました。引っ越しに伴う資料整理で、64号がすぐに、まつかぜのカラープリントもすぐ出てきました。
        64号はモノクロなので、カラーで皆さんに見てもらうのは初めてになります。大阪発博多行まつかぜ1号 伯耆大山~米子間(現在の東山公園付近)で撮影は昭和50(1975)年3月2日です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください