京都駅で「こだま」
京都で育った鉄道少年にとって、京都駅へ行って写真を撮ることは、自然の成り行きでした。新幹線の開業前、東海道本線には、最新の鉄道車両が走り、ホーム端へ行くと、山陰線のC51が見られるなど、最新電車から蒸機まで揃った京都駅に、少年の眼は輝きました。なかでも「こだま」に代表される151系電車は、みんなの憧れの電車でした。東海道線時代の「こだま」型に乗ることは叶いませんでしたが、豪華な車内を羨ましそうに見て、列車を撮影するだけで、胸の高鳴りを感じたものでした。鉄道写真アルバムの第1ページにもこんな写真が貼ってありました。▲昭和36年8月3日朝7時30分、上り「第一こだま」が京都駅1番ホームに滑り込んで来た。稚拙な写真だが、特徴あるホーム屋根から京都駅と分かる。と言っても「こだま」に乗った訳ではなく、近々家族で箱根への旅行を計画していて、列車の混雑具合を確かめるため、父とともに京都駅へ来た。「こだま」が昭和33年にデビューし、その後も「つばめ」「はと」「富士」と電車特急が増発されるが、電車特急の人気は高く、2週間前発売の指定券はすぐに売り切れていた。勢い、自由席のある急行に目が向くが、これも満員になる。交通公社の時刻表には、優等列車の前年同月の乗車率が載っていたが、8月は、東海道本線の主要な急行は軒並み100を超していた。とくに京都から東上する場合、大阪で乗り込まれると座れる可能性は極めて低い。そんな状況のなか、それを確かめるため京都駅へ来て、乗るアテもない「こだま」を写したということである。
▲京都駅東側に架かる高倉陸橋、通称“タカバシ”へも自転車に乗って行ったものだった。昔から汽車見物の名所で、多くの写真が残されている。橋の欄干に足を載せて、自転車に乗ったまま、ずっと出入りする列車を眺めていた。「こだま」の時だけは、たった一駒のフィルムを大事に写していた。列車は午後に出る「第2こだま」、右手は、突貫工事で建設が進む、足場を組んだ京都タワー。関電ビル、京都駅舎、中央郵便局以外には何も見当たらない。
▲こんな「こだま」にも遭遇した。昭和39年4月24日、静岡付近を走行中の宇野行き特急「第一富士」が、踏切でダンプカーと衝突、脱線、大破した。新幹線開業前で、「こだま」形は九州乗り入れを控えて改造入場中で、予備編成が全く無い状態だった。そこで、事故翌日から5月6日、上り「第1こだま」、下り「第2こだま」は153系で代走することになり、特急料金は半額となった。これまでもダイヤの乱れで所定運用ができず、153系を特発した例はあったが、長期間153系代走は初めて、いわゆる“替えだま”と呼ばれる特異な例となった。私は新聞記事で知り、高倉陸橋へ行ったが、周囲に撮影者は誰もいなかった。
▲今回、古いフィルムをスキャンしていると、プリントしていなかった駒のなかから、「こだま」が出て来た。当時、写真屋で同時プリントを頼むと、二重撮りなどの失敗駒は、プリントから除外されるため、気が付かないままだった。京都駅かと思ったら、左上に「なごや」の駅名が。前後の駒から考えて、昭和36年5月ごろ、名古屋へ行った時のものと判明した。
(写真の一部、および記事の一部も過去のデジ青投稿から抜粋しました)
手を出してしまいそうな気がします。昨日は大変お世話になりましてありがとうございました。おかげさまで楽しい時間が過ごせました。
小学6年生の総本家様が、自転車で京都駅まで往復ですか! その行動力にはただただ驚くばかりです。
総本家様が「こだま」を撮影されたころ、私は幼児で実物の記憶はありません。ただ、小さいころから乗り物、とりわけ電車が好きだったようです。多分、絵本で「こだま」を見ていたのでしょう。そんなころ、当時国鉄に勤めていた伯父さんが、「こだま」型のおもちゃを買ってくれました。ブリキでできた幼児向けのおもちゃで、4~50センチはあった大きなものでした。ところがヘッドマークは「こだま」ではなく、「つばめ」だったのです。「こだま」と違うと駄々をこねた覚えはありませんが、あまり気に入らなかったようです。見かねた父が「こだま」を買ってくれましたが、二回りほど小さいもの。それでも私はとても喜んで、日がな一日遊んでいたそうです。もう60年以上も昔の、遠い日の思い出になりました。もしもネットでブリキの「こだま」や「つばめ」を見つけてしまったなら、手を出してしまいそうな気がします。
冒頭の「手を出してしまいそうな気がします。」は間違って入力してしまいました。読み飛ばしてください。
総本家青信号特派員さま
京都駅へ列車を見に行ったり、混雑度を確認に行ったり、私も同じことをしていました。京都に生まれ育った鉄道好きは自然とそうなるのだろうか、と思うほど酷似しています。私は写真こそ撮りませんでしたが、こだま型が1番線に進入してくる際の、上り本線から分岐してポイントを渡る走行音が今も耳から離れません。その箇所は2・3番ホームにかかるかかからない位の位置ですが、山陰線ホームとに挟まれて周囲に物凄く反響して大きく聞こえたことが印象に残ります。優等電車は空気ばねのせい(だと理解していました)か、かなり高い乾いたような音でした。客車は例えばスハ43系ならズシンズシン的でしたが、編成中の荷物車等とは明らかに異なる音でした。
高倉のこ線橋も東寺の西から自転車で時々行きましたよ。以前にコメントしましたが、奈良線の南側に在った留置線からEF58が出区するのを飽きず眺めていました。ウロ覚えですが市電の線路が中央ではなくやや西に寄っていて、車道が狭くちょっと怖い想いをしながら見ていたように思います。
新幹線開業の翌年に家族旅行で信州に行く際に、同じように下見に行きました。名古屋を11時に出る新潟行急行「赤倉」に乗るため、京都から153系の準急「比叡」で名古屋に向かいましたが、仰る通り京都からの着席には大きな不安があったための下見でした。贅沢な新幹線を使うという発想は全く無く、新幹線開通まであった全席指定の準急「伊吹」のスジを転用した「比叡」を利用するしか選択肢はありませんでした。余談ですがダイヤを大きく触らなかったようで、本来大津・岐阜・一宮のみ停車のスジで、他に石山・草津・近江八幡・彦根・米原・大垣にも停車するという、私の理解を超えたダイヤに興味深々で乗ったことを覚えています。名古屋には数分程度の遅れで着いたと記憶しますが、驚愕の運転時分でした。
老人の回顧談になりますが、あの頃はデザイン的・カラー的に垢抜けした国鉄型が次々と登場して、絶えずワクワクしていたものでした。
総本家青信号特派員様
憧れの特別急行「こだま」いつ見てもワクワクします。
これらのシーンを見ようと思えば見られ京都の方が、羨ましい限りです。(昔思っていたこと)
昔父親と美術展見学に来た帰り、準急「比叡」に乗る前に「こだま」が停まっていました。憧れを目の前にしてドキドキしました。乗っているお客さんが眩しく見えました。少年時代の思い出です。