前回、「四国総局管内の荷物輸送(客車編)」をまとめてみたので、「片手落ちだろう」と指摘される前に気動車についても調べてみた。ただ客車編同様、特に興味をもって接していたわけではないので、手元にある1982(昭和57)年11月15日改正の気動車運用表をベースに、その頃の状況をまとめてみた。▲キニ15 1他DCとターレット、1980/09/13、阿波池田駅3番線
1983(昭和58)年3月31日現在の荷物・郵便気動車の配置は高松運転所のみで21両あり、13仕業(所要15両)をこなしていた。なお、当年2月1日に徳島本線で荷物代行輸送が実施されたため、徳島気動車区のキユニ26 11号が高松運転所に転属となっている。
▼四国総局配属の荷物・郵便気動車(1983(昭和58)年3月31日現在)
運用範囲は、徳島本線(1983(昭和58)年2月1日以降)、鳴門線、内子線、予土線を除く全線で運用されていた。▲四国総局配属の荷物・郵便気動車の運用範囲(1982(昭和57)年11月15日改正)
さすがに、この時期には10系気動車は引退していたものの、特筆すべきは郵政省所有のキユ25が運用されていたことだろうか。58系急行形DCと同デザインの同車は、高松~高知間では209D「土佐9号」の先頭にたち、また松山~高松間では普通列車ながら58系急行形DCで運転された138Dの最後尾をつとめ、統一された編成美をみせてくれた。
松山気動車区には、アコーディオン・ドアを車内に取り付けたキハ52形2両(603、604号)が運用されていたが、1982(昭和57)年11月15日改正の気動車運用表では、特に他のキハ52形と区別なく運用されていたことから、荷物輸送には従事していなかったと思われる。
牟岐線では、キユニが最南端の海部まで2往復しているが、営業は牟岐以北だったと思われる。
以下、私の撮影できた荷物・郵便気動車の写真をご笑覧ください。▲キニ15 1、1981/03/20、高知機関区
【キニ15】1954年製のキロハ47003,47004(→キロハ18 4,5号→キニ15 1,2号)の2両を1961年に多度津工場で改造した荷物気動車で、終生高松運転所の配置であった。2号は1979年、写真の1号は1981年に用途廃止となり形式消滅した。写真からはわかりづらいが、DT19、TR49を履いている。
▲キユニ15 5、1981/03/01、202D、多度津駅3番線
【キユニ15】キニ15に改造されなかったキロハ47000形6両(1954,1956年製)がキハユ15に改造され、さらにキハユ15 4号を除く5両が1963年度までに多度津工場で再改造された。キニ15同様、終生高松運転所の配置であった。写真の5号が1981年に用途廃止となり、形式消滅となった。
民鉄の場合には先月の総本家青信号特派員氏の投稿「車両のある風景 ~37枚目の写真から~ 〈21〉」にあるように乗務員の業務範囲であることが多いのだが、四国総局の急行愛称名のヘッドテールマークは、折り返し使用でない限り始発駅の助役さんが取り付けるので、自ずと始発駅のホーム側に取り付けられることとなる。従って、写真の列車は高知駅1番線(3番線の可能性もないわけではないが)を出発してきたことが推察できる。
▲キニ17、1980/09/14、高松運転所
【キニ17】1953年製キハ45000形5両を1966、1967年に多度津工場で改造した荷物気動車で、終生高松運転所の配置であった。1982年に全車が用途廃止となり、形式消滅となった。
▲キニ26 4、1985/01/03、多度津運転区
【キニ26】1958,1960年製キハ26,キロハ25形4両を1973、1974年度に後藤、名古屋の各工場で改造した荷物気動車で、高松運転所には3,4号が1979年に、2号が1982年に転入した。1984年度までに全車が用途廃止となり、形式消滅となった。
写真はラストナンバーの4号であるが、前面強化工事がなされておらず、顔付がすっきりしている。
▲キユニ26 17、1980/08/30、阿波川口駅1番線
【キユニ26】キハ26,キロハ25,キロ25形25両を1973~1980年にかけて、旭川、苗穂、五稜郭、名古屋、松任、後藤、多度津、幡生の各工場で改造した荷物・郵便気動車で、高松運転所には上表のとおり8両が配置されていた。1985年度までに全車が用途廃止となり、形式消滅となった。
▲キニ28 2、1979/05/06、紀勢本線大内山~梅ケ谷
【キニ28】1962,1965年度製キロ28形5両を1978、1980年度に名古屋、多度津、幡生の各工場で改造した荷物気動車で、高松運転所には3~5号の3両が1980年度に配属された。1986年度に全5両が用途廃止となり、形式消滅となった。
四国内での写真がなかったので、紀勢本線での写真で失礼する。
▲キユニ28 18、1985/01/03、多度津運転区
【キユニ28】1961~1968年度製キロ28形28両を1977~82年度に郡山、名古屋、高砂、多度津、幡生の各工場で改造した荷物・郵便気動車で、高松運転所では1981年度に22号が配属された。その後他局から5両が転入したが、1986年度に全車が用途廃止となり、形式消滅となった。
▲キニ56、1980/03/06、高松駅4番線
【キニ56】キハ55形2両(141号、216号)を1971年度に多度津工場で改造した荷物気動車で、高松運転所に配属された。その後他工場でも2両が改造されている。1985、1986年度に全車が用途廃止となり、形式消滅となった。
高松運転所では高松~宇和島間の1往復に充当されており、往路の601Dでは松山~伊予長浜間でキハ47形2両+キハ20形1両(キハ20形は土曜日以外は欠運用)を連結するため、土曜日の場合4M4mとなり、速度記号はC5と、B5の多い予讃線で何とか急行の面目を保っていた。東向きとなっていたのは宇和島駅での荷扱い作業に配慮したものと考えられる。
▲キユ25 3、1985/03/??、高知駅1番線
【キユ25】郵政省所有の唯一の郵便気動車。1964年度に2両、1971年度に2両の計4両が製造され、全車高松運転所に配属された。高松~松山間で2往復、高松~高知間で1往復運用されたが、1986年度に全車が用途廃止となり、形式消滅となった。
キユニ17とキニ19の写真はありませんでした。ご容赦ください。
四方誠様
まだ国鉄四国支社の時代ですが、1967年12月に四国を旅行した時に2枚ほど荷物・郵便気動車の写真を撮っていました。鉄道雑誌で四国に多種類の気動車が配置されていることは承知していましたが、最初からの撮影目的にはなく、たまたま撮ったものです。
したがって、形式番号や撮影地の記録はなく、撮影日は前後の記録から類推して1967年12月27日でした。わかる範囲でご教示いただければ幸いです。鑑定宜しくお願いします。
1枚目です。
2枚目です。
快速つくばね様、
お写真を、お見せいただきありがとうございます。2枚のお写真とも前面補強がなく、前照灯もシールドではなく原型で、羨ましい限りです。前面補強の方はDF50同様、1970(昭和45)年のDF50 65号の踏切事故がきっかけだったのかもしれませんね。
さて1枚目のキユニ17 13号ですが、お写真を撮られる5か月前に多度津工場で竣工(種車はキハ17 121号)、高松運転所に配属となりましたが、1978(昭和53)年に徳島気動車区に転出、その翌年キユニ26 11号の転入により用途廃止となったようです。
また2枚目のキユニ15 5号は、1963(昭和38)年にキハユ15 6号を種車として竣工、高松運転所(一時高知機関区の時代もあったようです)に配属、1981(昭和56)年に用途廃止となっています。
(詳しくはないので、ネットの「きはゆに資料室」を参考にしました)
また、1枚目は堀江駅、2枚目は窪川駅のように思えますが、同日というのが引っかかっています。
四方誠様
早速のご教示有難うございます。2枚目の写真の撮影は、1967年12月28日でした。その時の行程を収集していました入場券からトレースしますと「四国均一周遊券」を使用して27日に仁堀航路で四国に上陸し、堀江から写真を撮りながら予讃本線を高松まで上りました。28日に日替わりしてから土讃本線の夜行221列車で須崎まで行き、乗り継いで窪川まで足を延ばしました。
撮影した駅が堀江と窪川で間違いありません。有難うございました。
快速つくばね様、
両駅ともバックの山と線路の配線状況から推理しました。堀江駅の場合はレールが積み上げられていたこと(現在では伊予北条や三津浜に置いているようです)、窪川駅の場合はホームの丸印(乗車位置ではなく、影野方の通票)から確信したのですが、どちらも光線状態が午前中のようで、移動は無理かと思っていました。
入場券も買っておくものですね。行程の記録になるとは思いもよりませんでした。ちなみに、高松駅の普通入場券の文字の左にある”自”に〇は、何を意味するのでしょうか。自動車の案内所のようなところで入場券を販売していたのでしょうか。もしご存知でしたら、ご教示お願いいたします。
四方誠様
当時の国鉄バスの四国地方自動車部には、次の8カ所の自動車営業所がありましたが、高松には存在しませんでした。
・観音寺、川之江、松山、佐川、伊予大洲、鍛冶屋原、土佐山田、窪川
高松には、北四国急行線(高松-松山)と西讃本線の支線の高松線(善通寺-高松)が乗り入れていただけでした。
他の駅の入場券を調べましたが、この場所は出札窓口を識別する位置で、当時使われていた単機能の硬券の自動券売機で購入したのだと思います。時間が深夜だったので出札窓口が閉まっていたか、混雑していたのかは分かりません。
○自の「熊本」の入場券は同じく券売機で購入した入場券ですが、いくら窓口で購入したいと申し込んでも常備していないとのことでやむなく買ったものです。初期の印刷式の軟券なのでスタンプで押したような券面です。後日、小児用は断られないと思い窓口で手に入れました。
幾つかの入場券をお見せしますが、同一駅名のある「中田」と料金変更印が押印されている「金蔵寺」です。
次も同一駅名の「国分」ですが、予讃本線には○讃と線名が印刷されていますが、日豊本線の方には印刷されていません。国鉄時代は9つの印刷場で分担して乗車券類などの印刷をしていましたが、予讃本線の「国分」は高松印刷場、日豊本線の「国分」は門司印刷場で印刷していましたので券面様式が微妙に異なっています。
最後は、現在朝ドラで脚光を浴びている「後免」ですが、土佐電気鉄道の「後免町」では5銭の入場券を料金変更印も押さずに20円で売っていました。
快速つくばね様、
硬券の自動販売機があったのですか。初めて知りました。また、自動車営業所や印刷場までお教えいただき、ありがとうございます。
私が四国に行ってた頃は、金蔵寺や国分は既に無人駅となっており、中田は無人駅ではなかったですが、入場券は常備されていなかったような記憶があります(実家にほったらかしの切符類を調べてみないとわかりませんが)。
後免駅は、土佐くろしお鉄道が開業の折に改築されたのでしょうか、立派な橋上駅となっていて驚きました。冬場の駅事務室は、寒がりの駅員さんがいたのか、ガンガンに暖房が効いており、周りの駅員さんたちの顰蹙を買っていました。民営化の方向で動き始めており、皆さんやや神経質になられていたようです。
昭和42年発行の5銭の入場券は、凄いお宝ものです。まだ安芸線が走っていた頃かと思いますが、この当時から土電の経営は厳しかったのですね。
また、折に触れ、いろいろなことをお教えください。よろしくお願いいたします。
四方誠様 四国のキニ、キユニ、キユの情報ありがとうございます。大変興味深く拝見しました。平成27年12月4日にキユ253の廃車体を撮影していますのでご紹介しておきます。奥道後、松山市高野町の国道317号線沿いに「レストラン でんぷん」となっていましたが、手を加えられ過ぎていて痛々しい感じでした。社内(店内)の様子はわかりません。
もう1件、昭和51年8月に予讃本線(場所不明)の国道と並走区間でキユニ15を撮っていました。冷房も無く、窓や扉を開けて走行していました。
西村雅幸様、
コメントありがとうございます。
キユ25 1号は、グーグルマップにも表示されますので、盛業中のようですね。外観も内装も相当に変化しているので、ふつうに建築しても大差なかったのではないかと思うのは、私だけでしょうか。
キユニ15の方は夏らしい一枚ですね。直観的には、新居浜~中萩のように感じましたが、「井上産婦人科(?)」で検索すると、今治や伊予三島でヒットし、どうやら私の直観もハズレっぽいです。
ご存知かもしれませんが、キニ56の601Dは大阪で印刷された新聞を輸送していたようです(友人情報による)。時間から考えると、大阪(31レ)尾道(トラック)三原港(船)今治港(トラック)今治(601D)松山以西のようで、今治では積込作業のため20数分停車していました。連絡船以外の輸送ルートがあったことに、今更ながら驚いています。
好奇心的な観点で言うと、四国の郵便荷物輸送の気動車使用は、他の地区、幹線では郵便荷物列車は専用の客車を機関車が引く例は本線級。
支線級なら客レが残っている所は合造車。ディーゼル化された支線はキハユニ級の連結対応。それが各地だったのに、四国は独立王国で気動車化が1960年代に一気に進み、ユニ級の客車を連結可能な列車は予讃線と土讃線の残った普通列車のみ。
他線区では紀勢本線和歌山側でしか見られなかった急行列車に、性能の劣る10系改造車を堂々と連結して、気動車ならではの総括制御が可能ゆえ、急行列車の先頭に立つと言う珍しい風景が見られた。
これは50年後の現在に、史実として伝えても良い、過去の歴史を知らない後世の鉄道ファンに背景と理由をきちんと伝えていくべき、テーマではないかと思いました。
私が四国に渡った1983年以降では、高速で走る急行列車の連結はほぼ見られず。それとキロ28改造車が集められ、10系改造車は皆無でした。
唯一急行列車の宇和島側に連結されたキユニ56を1986年に松山で捉えています。
K.H.生様、コメントありがとうございます。
1986年当時の運用がわからないのですが、西向きのキニ56を初めて見たような気がします。
「他線区では紀勢本線和歌山側・・・」とは、貼付写真のような状況ですか。(山中渓、1977年6月)
写真の場所から阪和線線区内も連結していたようですね。
電気式の気動車から一般的なディーゼルには3年ほどで改造されて、キハユニ16となり、さらにキユニに改造された個体を久大線で見ています。
10系雑型郵便荷物気動車の急行連結は、この「きのくに」と四国管内。常磐線内では2個エンジンの単独運転で急行並みの速度で、キハ55系改造車が走っていたようです。
郵便荷物輸送が消えて40年。知らない世代が大人になり、興味を持って頂いても、資料が散逸気味で、判りにくいようです。
以前、大手町に逓信博物館があった頃は、鉄道郵便のコーナがあり、そこにある程度の資料がありましたが、現在は逓信省と郵政省の当時の役割も、学術的な研究も切手の趣味分野も弱くなり、なかなか話題にも登りません。
貴重な投稿を続けていただけると幸いです。
訂正です。
601Dのキニ56が今治から輸送する新聞は、伊予市以西から取り下ろしていくようです。また、宇和島に到着した新聞のうち一部は予土線834Dに積み替えられ、吉野生までの主な駅まで輸送していたようです。
834Dは松山気動車区のDCA2仕業(キハ52+キハ55の2B)で、DCA1仕業とセットの循環仕業のため所要各形式2両となり、このキハ52に603号と604号を積極的に充当していたのではないかとは考えられますが、それを示唆するものは見当たりませんでした。
荷物輸送の中でも、新聞輸送は少し特殊なようです。情報提供の友人に感謝です。