部分廃止の留萌線 55年前の記録から偲ぶ (下)

昭和の時代、われわれが留萌線を訪れる理由は、前記テーマのD61だけではありませんでした。最初にも記しましたが、沿線は産炭地であり、輸送のための私鉄、専用線が分岐していました。留萌から出ていた天塩炭鉱鉄道、恵比島から出ていた留萌鉄道、その終点には明治鉱業の専用線がありました。天塩炭鉱鉄道にはC58似のカマなどがいましたが、私が訪れた前年の昭和42年7月に廃止されてしまい、実見することはできませんでした。留萌鉄道は、DC、DL化されていましたが、その終点の昭和から奥に伸びる明治鉱業の専用線で働いていたのが、いまでも語り継がれるB型タンク機10形、15号、17号でした。ドイツのクラウス製の優美な小型機は、まだ北海道に多くいた私鉄蒸機のなかで白眉の存在で、多くファンが留萌線、留萌鉄道を乗り継いで、山あいの小さな専用線を訪れたものです。2両のクラウスは明治22年製、当時で80年近く使われた現役蒸機では最古と言われた。たいへん美しく手入れされて、大事にされていることがよく分かる。

留萌鉄道・明治鉱業を訪れた昭和43年9月4日は、塩狩YHを出て、旭川で乗り換えて、深川10:00発の留萌行き721Dに乗車した。編成は、キハ22230+キハ22105+2004+2005の4両編成で、うしろ2両は恵比島止まりのキハ22似の留萌鉄道DCの併結、塗装はクリームにグリーンの鮮やかなカラーで、前2両の国鉄キハ22とコントラストを描いていた。恵比島に10:44着、昭和方面に乗り換えるため3番ホームへ行く。乗車した2004+2005が引き継ぐのかと思ったら、待っていたのは、写真の1001号だった。ユニークなのは、台車の動きと連動して投光する“ヘソライト”。

途中駅の幌新は唯一の交換可能駅で、石炭列車との交換が行われていた。牽引するのは凸型のDD202で、もう一両の同型機あった。さらに、わが国初と言われるロータリー式除雪車もあった。留萠鉄道の子会社が開発し、その技術は現在の日本除雪機製作所(NICHIJO)に継承され、除雪機、特殊車両等のメーカへと成長した。同社の年史に写真を採用していただき、記念誌とキハ1001の模型をいただいたのも思い出。

留萌鉄道のキハ1001に乗って、昭和に着いたのが11:30、折り返し12:10発で留萌区へ向かう計画をしていた。ただ、2両とも庫内に入ったまま。聞くと、出炭に応じて外へ出るため、つぎに出区するのは、12時過ぎと言う。となると、次の列車に間に合わない。鉄鈍爺さんとボヤいていると、それを察したのか、機関士の方が出てきて、12時前には転車台に乗って、めでたく撮影タイムとなった。

正面から見た17号機と、幌新に放置されていた木製車、ホハフ2854、ホハニ201

比較的遅くから採掘がはじまり、設備も古くはなかった昭和鉱だったが、エネルギー革命は、この頃に急速に進展し、あっけなく閉山に追い込まれ、留萌鉄道も訪れた8か月後の昭和44年5月に休止されてしまった。その年の9月に恵比島を通ると、幌新に放置されていた客車2両が置かれているのが確認できた。結局、留萌鉄道は、昭和46年4月に正式に廃止されてしまった。DCは、すべて(現)ひたちなか海浜鉄道へ譲渡され、最近まで活躍が見られた。

その後の恵比島の様子については50年前の撮影地を歩く -13- | DRFC-OB デジタル青信号 に記しています。

また、つい先ごろ渡道された、ぶんしゅうさんの記事も。『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅   第3弾 Part3 留萌本線に乗る | DRFC-OB デジタル青信号  昭和の時代、恵比島から峠下まで歩いて撮影されています。

またKAWANAKAさん、1900生さん、西村さんの三人による「雪中北海道見聞録」も寒中北海道見聞録・半世紀前の旅 7号車 | DRFC-OB デジタル青信号 豪雪の時の留萌鉄道の貴重なシーンが多数収められています。

※当時の表記は「留萠」ですが、現在の表記の「萌」に統一しています。

 

 部分廃止の留萌線 55年前の記録から偲ぶ (下)」への9件のフィードバック

  1. 留萌本線に活気があった昭和40年代の記録、楽しませていただきました。留萌鉄道は昔から鉄道誌で見ておりましたが、恵比島から分岐していたことは今回初めて知りました。留萌本線は留萌港への石炭輸送を主な目的に建設されたのか、炭鉱が閉山された後は急速に活気を失ったように思えます。留萌市の人口は当時から見ると半減し、観光客も多くは望めず、廃線も致し方ないのかもしれません。
    改めて地図を見ると、クラウスがいた昭和炭鉱は留萌鉄道の終点なんですね。気を利かせて庫からクラウスを引き出した機関士さんの厚意は、今では想像もできません。遠くから高い旅費を使ってきてくれたファンのため、良い写真を撮ってもらおうと思われたのでしょうか。
    大井川鉄道の千頭駅で、クラウスの15号を見ています。昭和49年4月に撮影しました。

    • 大井川時代のクラウス、ありがとうございます。改めて留萌線の輸送密度を、JR北海道の資料から調べました。昭和50年が2245人(それ以前のデータはなし)、令和3年は90人ですから、46年の間に4%に激減しているのですね。令和4年以降は、乗り納め客で増加という、皮肉な結果になっているようです。ほかの線区以上に激減の要因のひとつは、留萌・増毛は、高速道路、高規格道路で札幌と直結していることが大きいと思います。
      明治鉱業昭和鉱の思い出、「内地から、わざわざ来たお客さん」と言う思いが、北海道の現業の方々にはあったと思います。とくに「京都から来ました」と言うと、東京の数倍の効果?がありました。別に下心があった訳ではないのですが、暖かいもてなしは今でも忘れられません。

  2. 特派員さんの1年前に訪れた時も稼働していましたのは、17号機でした。
    昭和45年に開催された大阪万博で「ドイツ館」の前に加悦鉄道ハブ3と共に展示されました。昭和45年9月3日の撮影です。

    • 藤本様
      万博にも展示されましたね。この撮影は、夜間撮影ですか。私が昭和43年に北海道へ行く時に参考にさせてもらったのが、藤本さんが書かれた「青信号」20号の「北海道ご案内1968」でした。北海道の私鉄の現況が書かれていて、大いに参考にしました。天塩炭鉱鉄道の廃止も「青信号」で知りました。

  3. 総本家青信号特派員様
    留萌鉄道の写真を見て、コロナワクチンの後遺症による「カスミ頭」にもピピッと来る物が有り、「一筆」です。
    何時ごろか忘れた古い昔に、ピク誌でこの車両の写真を見てインパクトを受けたのを思い出しました。
    そうです。正面のど真ん中に直径50(30)cmも有ろうかと思う大型のライトが・・・。
    その時は「何の為のライトだろう?飾り?」で、そのままスルーしてしまった様な。
    今またイニシエの記憶を呼び起こされているところです。
    「台車の動きと連動」などと、これは又こんな時期に高度な技術が?…と感心する事シキリです。

    • 河さま
      コメントを頂戴し、ありがとうございます。“ヘソライト”は路面電車や気動車でも見られましたが、台車と連動している例は珍しいと思います。とくに降雪時の見通しを考慮したものと思います。同社の子会社がロータリ除雪車を開発したと記しましたが、同社には、もともと「雪」に対するノウハウが蓄積されていたようです。

  4. 「へそ」電の留萌キハ1001型は意欲的な戦後製ディーゼル車の幕開けとしてと、それと北海道の気動車普及の際に国鉄より早く私鉄が研究データを提供した未来的な乗り物、先進的な取り組みとして、路線の廃止後は茨城交通湊線に転じますが、保存できなかったのか、残念に思う車両のひとつです。
    これは1983年夏に初訪問時に那珂湊に留置されていた姿で、休車になり錆も出始めて復活はないだろうなの哀れな姿でした。しかし放置ではないので、この時点で道や留萌市とかに戻せたかもしれません。

    • 茨城交通時代の貴重な写真、ありがとうございます。
      この塗装は、マルーンに白線ではないでしょうか。もともと、この塗装は、羽幌炭鉱鉄道のカラーでした。羽幌からも同社へ気動車が譲渡されていますから、同じ“道産子”気動車として、まとめて同じカラーになったのでしょうか。

  5. 留萌から離れた、行政的にも異なる、石狩支庁に“留萌鉄道”があることに、以前から「なんでや」と思っていました。調べますと、最初は留萌の築港線(貨物専業)から始まった鉄道で、のちに国鉄に買収されて、そののちに建設された恵比島~昭和が「留萌鉄道」として存続したということでした。

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