寒中北海道見聞録・半世紀前の旅 7号車

さて朝の塩狩での一仕事を終え、塩狩駅で交換してきた332Dを仕留めてユースに戻り、仕度をしたのです。7号車はここから始まります。

■長駆登別。途中美唄下車

本日は、長駆登別までの行程で、しかも途中で道草(ではないが)するのである。昨日と違い、幹線の威力を実感することになる。

朝食を済ませて9:15の337Dに乗るのである。何しろエキチカなので大丈夫。9:00を過ぎていても3人とも気が付いていない。すれ違うことになっている急行「宗谷」が走り去って行くのが見えた。337Dは既に停車していたのであります。諦めつつも走れ走れでどうにか乗ることが出来ましたが、乗車後にキャラバンシューズの紐を結ぶ始末。教訓:何でも最後まで諦めたらあかん。小林氏はこの場でもハヒハヒ言いながら編成を調べました。

←幌延キハ22102旭アサ+キハ22321旭アサ(音威子府止り)

この日は急行で美唄経由で登別に行くことになっていたのに、何故宗谷本線の下りに乗ったか、お分かりかな?この337Dで一旦、士別まで下って、士別から急行「宗谷」で戻るためであります。当時の急行網とそれを利用できるダイヤに利用者への配慮が見えますね。鉄道の復権にはこういう木目細かい施策が不可欠と思います。

「宗谷」は、

←函館③キハ5625+④キハ56107+④(増)キハ2742+⑤キハ27103+キロ26101+⑦キハ56214 全て函ハコ

「宗谷」は満員であったけど、座席を無事確保した3人を乗せて旭川を過ぎ、電化の進む函館本線に入っていきます。

旭川を過ぎ、車内販売の弁当うなぎめしを買う。包みには写真のように岩見沢名物などと書いてある。ん?岩見沢も鰻の産地か?まあ、美味ければ良いのである。かぶって見ると皮が厚いではないか!これが本当の皮さかな(革さかなが相応しい?)と納得し食した。

岩見沢駅 ゴムを嚙んでいるような食感のうなぎめしは 2000円ではなく200円

12:26に美唄着。美唄は次の節に記すとして、美唄から札幌までは「なよろ1号」。札幌からは「ちとせ5号・とうや3号」で登別へ。

「なよろ1号」は、

←札幌④キハ27112+⑤キロ263+⑥キハ56149+⑦キハ27116+⑧キハ56141+⑨キハ27115+⑩キハ56112  所属は札サウ

また、特記すべきはこの列車の車掌は、倶知安で「凍死するなよ」と暖かいお言葉をいただいた車掌氏でありました。チャンと凍死せずに戻ってまいりました、ハイ。

■ 音はすれどもの美唄鉄道

12:26に「宗谷」は美唄に着いたのですが、例によって駅に荷物を預けて阪急バスと同じ塗装の三菱バスで常盤台へ向かうことになりました。

常盤台はガラ―ンとしていたので、どないなってるのか、駅長に聞けば目指す4110は全部山を降りてまっせ、ということ。ショックではあったのですが、暫くして「1パイ登ってくるで」という。イッパイとは列車1本くるという意味です。最近では使わないかなあ・・。

仰山(多く)やってくるのでありません。まあ、1パイでも良いかと暫くして登ってくる貨物を撮りに道路伝いに戻ることになりました。

あんまり良い場所は見つからないまま踏切で待つことに。待つこと10数分、遠くからドラフト音が聞こえてくる。次第に大きくなって来るのがわかる。ところがおかしい。警報機が鳴る距離になっても一向に来ない。ドラフト音がBobobobobo!!、Bobobbobo!と断続的なのである。おかしい。煙は見える、音も聞こえる、一向に近づいてこない。漸く見えたカマは4110ではなくがっかり、元国鉄の9619の7号機でありました。来ない理由が氷解しました。空転していて少しづつしか進めないのである。機関車もカラのセキで何でやねんと悔しい思いであったと思うが、機関士も悲壮。目の前を10輌足らずの空車のセキを従えてゆっくり、ゆっくり通り過ぎて行く。最後尾のセキが踏切を通過したところでとうとう止まってしまった。列車には悪いが、これはチャンス。踏切を通過するや否や線路沿いの道路を一目散に走り前へ廻って撮ろうというのであります。尤も小林センセは走らずゆうゆうと列車を追い越されましたが。道路にひっくり返るような雪はなかったのですが、ケツが痛むのをお恐れになられたのでしょうか。乗務員が線路に砂を撒いていたりしました三脚を立て記念写真という案もあったのですが、幾ら何でもと機関車が動き出したので止めにしました。この上もない珍体験をしてバスで美唄へ戻ったのであります。

美唄鉄道7号機 機関助士が砂を撒きながらゆっくりと進む

■ 沼の端から苫小牧。KAWANAKA氏を見送る

登別駅前ユース(何と食事なし、温泉のはず?なのに風呂もなし)で泊まったあと、沼ノ端。このあたりは北海道でいちばん暖かく 風はあったが雪は殆どなかった。沼ノ端には3時間ほどいたけど、これだけいれば石炭列車、DC急行、千歳線DCと全く飽きることがない。

D51343が牽く貨物列車

西村の後ろ姿

投網にジャコがイッパイ入った気分でここを打ち切る。

KAWANAKA氏は残念ながら、先約の友人との伊豆大島行きがあるので、苫小牧13:20の特急「北斗2号」で先に離道することになった。KAWANAKA氏は在来線の特急に乗るのは初めてであった。あっという間に函館であったという。※KAWANAKA氏の思い残し=北海道に直ぐ行こうと言ったのは、この予定があったのであるが、早く出発しておればもっと長く北海道におれたなあと。上野へはやはり「十和田」利用でビュッフェに入り、熱海まででも食堂車を使用している。大島のユースでのミーティングで、昨日の旅はどうしたか?の質問があり「登別から沼ノ端、苫小牧にいました」というと、他の宿泊者がこいつ天狗の孫かいな、というような不思議な顔をしておりました。

KAWANAKA氏の北斗2号の特急券

■ 車内放送をします

途中ですが、ここで乗務員の交代をします。KAWANAKAに代わり西村が皆様をご案内します。運行中の交代ですが、こだま号の浜名湖上、近鉄名阪特急のように安全に交代いたします。よろしく寒中の旅をお楽しみください。

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乗務員が交代致しました。原本の青信号22号掲載の記事もここまでで、以降は1969年12月15日発刊の青信号23号に連載となっていました。では苫小牧でKWANAKA氏を見送った3月5日から 3月13日に京都にたどり着くまでの小林氏との2人旅を西村がご案内致します。ちなみに原本の青信号23号の表紙の絵はKAWANAKA氏、タイトルは澤村達也氏の筆耕です。

青信号23号表紙

青信号23号 原文文頭

■札幌の夜

3月5日 苫小牧で川中氏を見送ったのち、千歳線経由で札幌へ向かう。予定では 札幌を夜行で発って再び常紋へ向かうことになっていたのだが、小林氏が少しカゼ気味で「夜行列車はイヤ、イヤ」とおっしゃるので 5日は札幌で泊まることにする。ユースは駅にいちばん近い札幌ハウスにする。ひとまずユースに荷物を置いて再び街に出る。大都市に来てまで ユースのまずいメシを食べることはないので、たぬき小路あたりで栄養補給することにする。たぬき小路までは歩いてもしれているが、市電で行くことにする。せっかく市電に乗るなら連接車かディーゼル車に乗ってみたく思うのが我々ファンの常。そこで折からの横殴りの雪にもめげず、連接車かディーゼル車が来るのを待ったのである。

ところがいくら待っても連接車もディーゼル車は来てくれない。正直言って腹も減ってきて連接車などどうでもよいと思い始めた。小林氏も寒さにたまりかねてか、先ほどからいくら電車が来ても乗ろうとしない我々の行動を怪訝なまなざしで見ていた交通局の職員らしき人に、「連接車かディーゼル車に乗りたいんですが、いつになったら来るんでしょうか」と尋ねられた。すると職員氏は 『世の中には物好きな人もいるもんだ』というような目つきで、「〇号系統に連接車が入っているので、もう数本待てば来るでしょう」と言い残してむこうへ行ってしまった。更に待つこと数本でやっと連接車が来た。連接車はうしろから乗って連接部分を通って、前から降りるようになっている。車内を見回しているうちに終点すすきのである。

さてここで我々が寒さに震えながらもこだわった連接車やディーゼ       ル車のことです。昭和44年の2月時点で 全国にどの程度連接の路面          電車が走っていたのか 調べてはいないのですが、毎日京都市電を見          慣れている者にとっては 連接車を見たい、乗りたいというのは自然        なあこがれだったと思います。ましてや路面のディーゼル車は札幌で      しか見れない、乗れない超レアな車両であったことは間違いないで            しょう。まず連接車ですが 昭和38年にA800型 3編成6車体が、昭            和39年にA810型 2編成4車体が札幌の街を走り出しています。残念               ながら我々が札幌駅前からすすきのまで乗った連接車が何番だったの          かの記録がありませんが、この5編成のうちのどれかだった筈で             す。なおA801+A802は札幌市交通資料館に保存展示されているそうで           す。一方のディーゼル車ですが、連接車より早い昭和33年に試作車の     D1001が登場して以来 5系式18両が在籍していました。昭和44年当        時はD1030型7両とD1040型2両の計7両が札幌の街にエンジン音を響      かせていたはずです。乗ることはかなわなかったディーゼル車です     が、連接車と同じく札幌市交通資料館にD1041が保存されており、再      会は可能です。なお当時の札幌市電の路線はこのようでした。

「世界の鉄道’64」より

なお札幌駅前から北に伸びる鉄北線はすでに新琴似駅前まで非電化で      延伸されており、ディーゼル車の活躍の場でした。総延長24.95Kmと     札幌市電の最盛期に訪問していたことになります。

さてたぬき小路界隈をブラついて某レストランに入る。一瞬客の目が キャラバンシューズにうす汚れたジャンパー姿の我々に注がれる。冬の北海道ではなかなか生野菜にありつけないので この際はり込んで野菜サラダ(但し1人前)などを注文する。豪華な食事を楽しんだあと 再び市電で駅前まで戻る。ところが三越前で電車は右に曲がってしまい、あわてて次の停留所で降りた。3月5日頃というと大学入試のシーズンで、札幌ハウスにも多くの受験生が泊まっていた。我々の部屋にも北大の入試を済ませて、明日は空路東京に戻り 次の入試を受けるという学生がいた。

ところで我々が泊まった札幌ハウスユースホステルは 何と昨年平成       28年3月末までユースホステルとして営業を続け、現在はY.H協会と          の 縁は切れていますが 北海道青年会館という名の宿泊施設とし盛       業中のようです。今でもこの時期は受験生で賑わっているのでしょ     う。

■ 札沼線を行く

3月6日は留萌線へD61を撮りに行くことにする。留萌線に入るには深川経由が速くて便利なのだが、札幌・深川間は何度も通っていておもしろくないので、札沼線経由で留萌線に入ることにした。

ホームでパンを買って8:31発の625Dに乗り込む。どういう訳か女子高校生で一杯である。編成は次の通り。

キハ2123(深川行き)+キハ21(浦臼止り)+キハ22(当別止り)

札沼線は石狩川をへだてて函館本線と平行して北上する。函館本線沿線には都市も多く 諸工業が盛んであるが、石狩川の西側 札沼線沿線は大きな町もなく 田園地帯が続く。石狩当別あたりまでは札幌の通勤圏らしく住宅が目に付く。石狩当別で1両を切り放す。高校生はまだ乗っている。札幌からどこへ通学しているのだろうと思っていると 中小屋でドッと降りてしまって 向かいの席の女子高生との何となくぎこちない雰囲気の1時間が終わり、空席ができた。知来乙(ちらいおつ)、晩生内(おそきない)、札的(さってき)などという奇妙な名前の駅を過ぎて浦臼に到着。ここで更に1両を切り放してキハ21の単行となる。石狩当別でも浦臼でもそうだが、交換駅で切り離された気動車は転線して反対側の列車に併結されて札幌に戻って行くダイヤになっているのは 非常に興味深い。

1両となった625Dは一路石狩沼田へと快走する。前で見ていると降り積もった雪のためにレールは全く見えない。ただ真っ白な道が続いているだけである。和(やわら)で上り630Dと交換する。退屈な3時間13分が過ぎて 列車は石狩沼田に到着した。

小林氏によると浦臼を過ぎて単行で走っている際に 途中駅にいた             保線係員に運転士が「除雪しろ!」と罵声を浴びせていたのに驚い           たとのこと。確かにレールは見えないとは言え 数センチ程度の積          雪で脱線するとも思えず 何も怒鳴ることはないだろうと思った           そうです。当時の国鉄ではそれほど運転士の地位が高いのかと感じ                 たとのこと。

この札沼線ですが 我々が訪れた3年後の昭和47年に新十津川・           石狩沼田間が廃止され、JRとなったあとの平成3年からは学園都市                 線と名前を変えています。ところでドッと高校生が降りた中小屋に       どんな学校があるのだろうと気になって航空写真などで調べてみま            したが、中小屋駅の近くにも近辺にも 全く学校や学校跡はなく農             地と森ばかりです。半世紀近くが経ったのだから不思議ではないの            かもしれません。あの高校生たちは一体どこに行くために登校時間                  にしては遅い時間帯に中小屋駅で降りたのか不思議です。ちなみに             昭和47年以降終点となった「新十津川」は奈良県十津川からの開拓       者が開墾した土地です。北広島市も同じく広島県人の開拓地です。        郷里を想い、誇りを忘れないための命名だったに違いありません。

石狩沼田では乗換え時間が40分程あるので 駅前で熱いうどんを食べて時間をつぶす。ところがふうふう言いながらうどんを食べているその時にD61がラッセル車を押して駅に入ってきた。慌てて食べた甲斐もなく 食べ終わらぬうちに汽笛一声 深川方向へ発車してしまった。2人で悔しがっているうちに 723D留萌行きが到着。次の恵比島へ向かう。

■雪の壁

石狩沼田と恵比島の間には真布乗降場があり、学校帰りの小学生などが降りていった。恵比島に着くころには空はどんよりと曇り 雪が降り始めた。恵比島にはスカ色に塗られた留萌鉄道のキハが1両 発車を待っていた。できることならそれに乗って昭和炭砿のクラウスを写しに行きたかったのだが、留萌線の貨物が2本通るのでそれを写すことにして クラウスはあきらめてしまった。今から考えればD61よりクラウスにしておけばよかったと思われてならない。

いやいやそうではありません。クラウスをとるかD61をとるか迷っ                 たのは当然です。しかしクラウスをあきらめて D61にしたのは賢        明な判断でした。明治鉱業昭和鉱業所には2両のクラウス 15号機          と17号機がいました。その2両は別れ別れにはなったものの健在な           のです。我々が恵比島を訪れたのが昭和44年3月。そして京都に           帰ってしばらくした同年5月に炭鉱閉山によって留萌鉄道は営業休             止、そして廃止となります。そこからこの山奥にいた2両のクラウ         スの流転の日々が始まるのですが、それだけでも連載記事になりそ          うなので、ここでやめておきます。ちなみに15号機は結局地元沼田          町指定文化財となって幌新温泉の炭鉱資料館に、17号機は栃木県那          須烏山市の那珂川清流鉄道保存会にそれぞれ安住の地を得ており         今でも会えるのです。

貨物列車の時刻も迫ってきたので留萌寄りへ歩く。このあたりはシベリアからの冷たい風が山脈に当たるために一段と雪が多い。そしてちょうどあいにくの吹雪である。顔を伏せて駅の外れまで行く。場所を定める間もなく上り貨物が音もなくやってきた。場所が悪いのと あいにくの雪でサマにならない。

D61 番号不明。これはD51だろうと言われても仕方がないが間違いなくD61。積雪2mはあるだろうか。列車の走行音は雪の壁に吸収されて聞こえず、線路内を歩いていると退避できず 大変危険! この時は 早めに雪の壁をよじ登ったと思われるが、記憶にない。

次の下り貨物までは多少時間があるのでひとまず駅に引き返す。あとで知ったことだが、留萌鉄道の車庫はこの恵比島駅のプラットフォームの向かい側にあったのだが、雪の壁に遮られて全く気付かなかった。そうとわかっていれば少しの待ち時間であったが車庫を覗いておけたのに。先日のスライド会で見た夏の恵比島とは似ても似つかない風景だった。

冬の列車撮影で困るのは カメラを雪から守ることである。吹雪の日など 列車が来ていても吹雪いている向きによっては列車にカメラを向けられない。私は小沢でC622の牽くニセコをこれで写し損ねている。それにも増してレンズ交換も至難のわざである。私はあいにく(?)スクリューマウントのPENTAXを用いているため苦労を重ねた。寒さのために駅のストーブで暖をとって再び吹雪の中に戻る。先ほどの場所で下り貨物を待つ。手の動きが鈍い上に手袋をしているので非常に手間取る。

駅のストーブで暖をとって再び吹雪の中に戻る。先ほどの場所で下り貨物を待つ。

早く雪の壁を登らないと危ないですよ!小林さん

しばらくして駅で煙が上がっているのが見えた。汽笛とともに発車。ドラフトは雪に吸い込まれて余り聞こえない。だんだん近づいてきた。D61だった。後部補機もD61.来た甲斐があったというものだが、あの雪ではD61もD51もない。

本務機D614

それほど長い編成ではないが補機がついている

後補機D61 番号不明

駅に戻ると深川まで乗り入れる留萌鉄道のキハ1103が730Dの到着を待っていた。730Dが到着し その後部に併結されるのを待ってキハ1103に乗り込もうとすると 留萌鉄道のDLがセキを従えて入ってきた。留萌鉄道にはロータリー式DLの草分けであるDR101CLとDD200型がいたのだが、幸いその両方が顔を見せてくれたので好都合だった。

留萌鉄道 DR101CL

青信号記載の原画

珍機の部類に入るDR101CL

留萌鉄道DR101CLは昭和33年新潟製の除雪用機関車です。非常に            特異な形態でエンジンルーム側にロッド式の動台車があり、運転室         側は2軸の付随台車です。夏期はロータリー装置を外せば普通の            ディーゼル機関車になるわけですが、図体が大きい上にスピードが              遅く本線用としても使い勝手は悪かったようです。留萌鉄道廃止後           は豪雪地帯の新潟県磐越西線鹿瀬にある鹿瀬電工専用線に移ります        が その後については存じません。

留萌鉄道DD201  昭和45年新潟製の45Ton機。僚機DD202とともに神奈川の日本鋼管に移った。

恵比島駅に停車中の留萌鉄道キハ1103    屋根の上にはラジオのアンテナがある。
留萌鉄道廃止後は キハ1001、1002、2004、2005とともに茨城交通へ移った。

DLを写してキハ1103に乗り込むと非常に排気ガスの臭いがする。いくら排気暖房とはいえ あんなに臭ければ暖房など無い方がいい。深川まで約30分だが 留萌の車掌は暇そうに爪を切ったり あくびをしたりしていた。

■ 白滝を越えて

深川から札幌まで急行「かむい5号」に乗ったのだが、車中でばったりと釧路Y.Hで一緒だった伏見の住人H君に会う。あいにく乗った車両が たてつけの悪い帝国車両製のキハ56で 話をしていてもガタガタビリビリと話が聞き取れない。彼も道内をあちこち回ったそうだが、雪景色にもうんざりしたし、体の調子も悪くなったのでもうすぐ京都に帰ると言っていた。

さて札幌に着いたのが18:00頃。22:05発の大雪6号まで4時間近くあってヒマを持て余す。まずは夕食と地下の食堂街へ。食事を済ませてもまだまだ時間があるので 次に喫茶店へ。コーヒー1杯でねばるにしても限度があり店を出る。だが雪の降りしきる街に出る気もせず、地下の待合室に行く。今度は先日札幌ハウスで同室だった松阪のニイチャン。向こうからコーヒーでも飲みませんかと言うので また先ほどの喫茶店に入る。彼は「利尻2号」で利尻島へ行くそうで21:00前に別れた。

「大雪6号」は函館発の123レが札幌から急行になるわけで、何も札幌から乗る必要はないので 上り列車で琴似まで戻って 琴似から乗り込むことにする。123レはかなり混んでいたが 大部分の乗客は札幌で下車し 乗客は入れ替わり 列車は急行となった。「大雪6号」の編成は次の通り。

ED76507(滝川まで)+⑧オハフ331547(函ハコ)+⑦スハ4545(函ハコ)+⑥スハ4552(函ハコ)+⑤スハフ4424+④スロ525+③オロハネ10502+②オハネフ12504+①オハネフ12510

滝川は電化されていてED76は快足ぶりを発揮する。いつしか私は眠りにつき、寒さで目がさめた時には列車は石北本線に入り、D51があえぎながら白滝越えに挑んでいた。

7号車はここまでと致します。明朝4:09遠軽到着まで しばしの仮眠と致します。

 

寒中北海道見聞録・半世紀前の旅 7号車」への1件のフィードバック

  1. 無事、7号車の乗務員が交代し出発していったようです。6号までを担当、7号車の途中で引き継いで、異形式連結となりましたが、無事去り行くテールランプを見送りました。西村専務車掌よろしく目的地まで、ご無事で。小林センセもxxが出ませんように旅をお続けください。
    ただ、この寒中列車北海道をうろうろしていますので、時々先回りして、カレチに依頼して潜り込ませていただくかも知れませんので宜しく。

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