寒中北海道見聞録 10号車(最後尾)

京都を出て18日目、小林氏と私は青森駅から米坂線に向かいます。

 ・雪の米坂線を行く

4:38米沢着。米坂線一番列車は5:10発121レである。

59663[坂]+オハフ61521(坂町行)+オハユニ6145(今泉行)+オハフ61360(今泉行)+オハ61302(坂町行)+オハ61413(坂町行)+スハニ642082(坂町行)(全車秋ヨネ)

今泉までは平坦線で田園風景(と言っても夜明け前でよくわからない)の中を行く。やがて空が白み始める。夜明けはいつ見ても良いものである。今泉では30分余り停車する。大きい荷物をかついだ行商人が多く乗り込んでくる。おばさんたちはひとまず荷物を置いてホームでソバをすすっている。ホームの外れでは96が石炭と水の補給を受けている。今泉の駅はおもしろい駅で、赤湯から来た長井線が今泉で米坂線と接し再び別れて荒砥まで伸びている。

6:27今泉を発車した列車は次第に山間部に入って行く。車内には高校生が多く乗っている。あちこちで見たのであるが 人口密度の低い地方では学校も大きな町にしかなく 遠くから一番列車で通学する生徒を見るといつも感心せずにはいられない。

 ・小林氏の迷案内

さてどのあたりで降りてねばるのが良いのかわからない。小林氏は夏に一度来たことがあるそうなので私は安心していた。伊佐領で降りようかと言っているうちに伊佐領に着き、どうしようかと言っているうちに発車。次の羽前松岡で上り貨物とすれ違い やはり伊佐領で降りておけばよかったと悔しがる。次の小国で高校生たちは降りて 車内はガランとなる。ここで上り124レと交換。またしても1本撮り逃がす。列車は荒川の渓谷に沿って進む。思ったよりも雪が多く、この分だと写真撮影はかなり困難なように思われる。さて まだどこで降りるか決まらない。小林氏は「玉川口より先の方がエエのと違うか」と言われるので 玉川口で降りずに乗ってゆく。線路と平行している国道113線は全然除雪されておらず、ところどころに道路標識が頭を出している。そんなわけでこの辺りは米坂線なしではいられないことがよくわかる。さて次の越後金丸で上り貨物と交換。いよいよおもしろくない。これで3本も蒸機列車を見送ったことになる。今度の旅行では米坂線は予定に入っていなかったのでダイヤの持ち合わせもなく 頼るは小林氏だけだったのであるが。ここ金丸で降りようかと迷っているうちに発車。次の越後片貝で降りることにする。8:16越後片貝着。ところが降りてはみたものの駅からどこへも行けない程の積雪である。ダイヤを聞くと当分何も通らないとのこと。ただ8:30頃上り急行「あさひ1号」が通るのみである。しかしこれを写せるような場所は全く無い。

仕方なしに駅で時間をつぶして9:45の上り126レで玉川口まで戻ることにする。片貝の駅で何もすることがなく、おまけに朝から何も食べていないので全くどうしようもない。リュックの中をゴソゴソしていると 川中氏にもらったコーンビーフの缶詰が出てきたので これ幸いと食べることにする。生のままでは食べる気がせず、ストーブで缶詰めのフタを使って焼いてみたが これが非常にマズイ。川中氏には誠に申し訳なかったが 少し食べて駅に置いてきた。さて126レで再び玉川口へ向かう。ところがである。次の越後金丸でまたまた下り貨物とすれ違ったのである。こうなっては踏んだり蹴ったり、いや踏まれたり蹴られたりである。玉川口で降りてはみたものの ここも駅から少し行ったところの鉄橋までしか進めない。どうしようもなくここでねばることにする。ここで下り123レ、上り貨物を写す。

昭和44年3月12日 玉川口を出発した123レ

同じく123レ。豪雪で玉川口駅からこの荒川鉄橋まで来るのが精一杯だった。

上り貨物列車

そして次の玉川口着13:18の上り128レを待ったのである。ところがダイヤが乱れているのか時間になっても来ない。我々は13:36発の125レに乗らねばならないので ギリギリまで待って渋々駅へ戻りかけた。丁度その時である。128レが鉄橋を渡ってきたのである。そのとき我々は鉄橋の下を歩いていたので シャッターチャンスを逃がしてしまった。

遅れてきた128レ

こんなわけでまともな写真は上りの貨物1本ぐらいというひどい有様で米坂線に別れを告げることになった。

 ・旅の終わり

125レで玉川口をあとにする。再び片貝を過ぎて一路坂町へとひた走る。米坂線は数年前に水害のために長い間運休していたのであるが、注意して見ていると未だに被害の跡がそのまま残っているところがいくつもあった。鉄橋が水中に落ちたままになっていて レールがグンニャリと曲がって水中に没しているのは何ともいやな感じであった。

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さて北海道均一周遊券は道内は乗り放題ですが、北海道への往路・復路は制約があり 道内のように自由に乗り降りできません。我々は米沢から越後片貝まで行き、玉川口まで戻り、再度玉川口から越後片貝を過ぎて坂町に向かったわけですから、越後片貝・玉川口間2駅分、1往復分は別途切符を買わねばなりません。手元には越後片貝→玉川口の乗車券は残っていませんが、玉川口→越後金丸間のひと駅分の乗車券が残っていました。本来越後片貝まで買うべきところ ひと駅分キセル乗車したことになります。もう時効でしょうが「国鉄さんゴメンナサイ」。

玉川口駅に到着した125レ

我々が乗り降りした玉川口駅ですが、晩年は利用客も激減し、日に2往復しか停車せず、ついに1995年(平成6年)12月1日に廃止されていたことをこの復刻版を書いていて知りました。ということで この玉川口駅発売の乗車券や雪に埋もれた駅のカットは貴重な記録となっていたことが判りました。米坂線が廃止されれば別ですが、まだ現役の路線です。その中で将来廃止されるであろう駅を選んで降り、切符を買い、写真に収めたのは小林氏の先見の明があったと言わざるを得ません。この切符が「なんでも鑑定団」で高い評価を受けた際には、交野の方へ足を向けて寝られなくなりました。

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坂町で羽越本線834レに乗り換え、新発田で白新線930Dに乗り換える。930Dはキハ35ばかりの編成であった。途中無人駅がいくつかあって 車掌が走り回っていた。16:09 雪の降りしきる新潟に到着。私は根室標津で買っていた急行「きたぐに」の寝台券があるので、「きたぐに」で京都に向かうことにしていた。一方小林氏は東京の親戚の家にどうしても行かねばならないので 上越線経由で東京へ出られることになった。ところがこの日は東京地方に近年にない大雪が降ったそうで 関東・上信越方面のダイヤは大混乱に陥り、運休列車が続出。駅は非常にごったがえしていて、掲示板には運休列車名が続々と張り出されたが、小林氏の乗られる「とき5号」だけは運転されるらしい。しかし東京までは行かず、大宮あたりで打ち切りで 何時ごろに着くかもわからないとのことであった。どちらにしてもまだ時間があるので夕食を食べに行く。新潟の雪は北海道と違って水分が多く 傘が無いとビショビショになる。夕食を食べながら18日間の旅をふり返っていろいろな話が飛び出す。

駅に戻って18:00発の「とき5号」の小林氏を見送る。雪はしんしんと降り続いている。「とき5号」は定刻に発車。一路上野 いや大宮を目指して走り去った。私は21:20の「きたぐに」に乗るまで街をぶらついたり、待合室でボサーっとして時間をつぶす。21:00過ぎに「きたぐに」の寝台にもぐりこんで、京都へ向かった。思えば長いようで短く 楽しく 有意義な旅であった。3月13日8:44京都駅のホームに降り立つ。京都は何と暖かいのだろうと思いながら。

今は亡き根室標津駅発行の「きたぐに」寝台券

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    <特別付録・旅の知識>     北海道 冬の旅の心得

 初めて冬の北海道を訪れる人が函館に着いてまず驚くのは 厳しい寒さであろう。私など函館の駅前で好きな市電を目の前にして カメラを向ける気にもならなかった。しかし2~3日もすれば その寒さにも慣れてくるものである。そこで

1.服装について

冬の北海道だからといってやたらに多く着込むこともない。普通に考える冬の服装で大丈夫である。キルティングのジャンパーにスキーズボンでいいだろう。特に寒さの厳しい倶知安付近や北浜あたりでは パッチを2枚はいていても立っていられないだろう。また後で述べるように思うように洗濯ができず、できてもなかなか乾かないので下着などは多い目に持って行ったほうが良い。そしてどうしても欠かせないのが手袋と帽子である。手袋はどんなものが良いかをはっきりとは言えないが 毛糸のものも皮のものも一長一短だと思う。とにかくカメラの操作がしやすいものが良い。帽子は耳の隠れるようなものが良い。マフラーも絶対に必要である。

2.足元は

何を履いて行けば良いかと言うことだが、キャラバンシューズで差し支えない。札幌あたりの運動具店や靴屋でスプレー式の防水液を買って 2~3日に1回 まんべんに吹き付けておけば大丈夫である。小沢・上目名あたりでハッスルしようという向きにはカンジキは無くてはならないものである。関西でも運動具店に行けば買えるが 現地で買った方が安く(700円前後)、その方が出発の際の荷物が少なくて済む。私は倶知安の荒物屋で買い求めた。

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今では普段履いているスニーカーでもそこそこの防水性はありますが当時我々が履いていたキャラバンシューズは 本格的な登山家が履くような皮製の登山靴ではなく 生地も薄く、防水性にも乏しい安物でした。水分の多い雪の場合にはしみ込んでくるので、防水液を使っていました。2年後の昭和46年に渡道した際のメモによると 札幌で防水液を買っていて350円とありました。カンジキですが運動具店で売っているのは登山家向けの小判型のリング状のものが多かったと思いますが、私が倶知安で買ったのは 小判型ではありますが 竹で編んだ平たいザルのようなものだったと思います。買ってはみたものの 1日中雪中行軍するならともかく付け外しも意外と面倒で、両手が空いておれば良いのですが カメラや三脚を持っていればカメラなどをまず雪の上に置いて手を空けて しゃがみこんで靴に縛り付けるのは時間もかかったと思います。結局殆ど使う場面もなく、リュックにも入れにくく リュックの外にぶら下げて京都まで帰ったように思います。

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3.写真撮影について

カメラの取り扱いは非常に気を使う。戸外から暖房のきいた暖かい所に入るとサッとレンズが曇り、そのままで再び外に出るとそれが凍ってコーティングを傷めるので注意を要する。水銀電池は気温が低下すると起電力が低くなることを頭に入れておかねばならない。三脚も雪の上では雪輪(スキーストックの先に付いているもの)がないと何の役にも立たない。そのほかに注意しなければならないのは列車が近づいて来る音が雪の壁に吸収され、また耳を覆う帽子をかぶっているので余計に聞き取りにくいことである。だから十分にダイヤを調べて行動しなければならない。また除雪された線路の両側が壁のようになっているところも多く、すぐに退避できないこともあるので くれぐれも注意が肝心である。

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水銀電池について触れていますのは、当時私が使っていたカメラは 露出計付きのPENTAX SPでした。水銀電池で動く露出計内蔵機の出始めの頃だったように思います。そんなこともあってこれを書いたように思います。三脚ですが 深い雪の中で雪輪なしで使っていた時、しっかりと固定しようと三脚を雪の中に押し込んだために 股裂き状態となり3本足の1本が付け根のピンの部分で本体(アルミダイキャスト?)ごと割れてしまって壊れ、以後三脚の用をなさず、重い荷物として持ち歩いた苦い経験がありました。

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4.ユースホステルでは

ユースホステルにもいろいろあって、大体公営のユースは設備も良いのであるが 民営となるとひどい所も多い。冬の旅で一番ありがたいのは風呂であるが、ユースによっては風呂の無いところもある。というのは水道が完備しておらず、水を自由に使えないからである。水に関して少し述べれば、留辺蘂のユースでは飲料水は雪や氷を溶かして使っていたし、便所にはバケツに雪のかたまりが入れて置いてあった。余談になるが客車の洗面所も「お気の毒ですが水はつかえません」などと書いて貼ってあって 水の出ないものが多かった。そんなわけで洗濯もなかなかできない。たとえできたとしても 今度はなかなか乾いてくれず、下手をするとバリバリに凍ってしまうことさえある。これは暖房設備とも関係があるのであって、札幌のような都会のユースを除いて たいてい薪を燃やすストーブが置いてある。薪の他にオガクズをタールのようなもので固めたもの(確かオガタンといってチクワのお化けのようなもの)を燃料にしているところもある。これは火力もなくすぐに燃え尽きてしまうので良くない(塩狩のユースではこれを3本ほど一晩分ですとくれたが 1時間も経たないうちに燃え尽きてしまい、おまけにすき間だらけの部屋で冬はあそこには泊まらない方がいい)。どちらにしても困るのは朝起きる時で、薪ストーブには不慣れなので 朝一番に起きてストーブを点ける役を仰せつかると大変つらい目に逢う。また暖房装置が壊れていた美幌ユースでは毛布3枚で寒さに震えながら朝を待たねばならなかった。スリーピングシーツであるが 顔を出して寝ると寒くてしようがないので 顔にもかぶさるような 即ち上側の布が枕の入る部分と同じ長さのものが良い。

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ここで若い読者のために解説を加えますと、ユースには布団や毛布は用意されていてもシーツはなく、スリーピングシーツという布製の封筒の大きなものを各自が持ち歩いて使うルールでした。私は母にシーツ2枚を袋状に縫ってもらったものを持ち歩いていました。頭の部分には枕を入れられるようになっていて枕カバーも兼ねていました。

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5.その他

その他 目を守るためにサングラスは必要である。またモノ好きな人には温度計(但しマイナス30℃ぐらいまで測れるもの)を持ってゆけば北浜あたりでは面白いことになろう。この3人旅で川中氏はサングラスを持参されていましたが、我々は持っていませんでした。旅の大半が吹雪や曇りであり 雪がまぶしい日が少なかったのは幸いでした。

以上

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48年前には私鉄を含めて道内に張り巡らされていた鉄道網は見る影もなく、鉄道で道内を旅する楽しみが奪われたのは残念でなりません。今にして思えば この旅の発案者である川中氏に感謝しなければなりません。私にとってこの北海道旅行のインパクトは大きく、学生時代に更に二度冬の北海道を訪ねています。その反動で九州方面が疎かになったのも事実です。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」を聞くたびに、青函連絡船の窓から眺めた吹雪の海峡の風景を思い出してはなつかしんでいます。

3 thoughts on “寒中北海道見聞録 10号車(最後尾)

  1. 川中さま 西村さま
    長期間、長文のリメイク版を再構成・UPして頂き有難うございました。
    本編の米坂線では不確かな情報と優柔不断な性格から、西村さんには多大なご迷惑をおかけしましたことを、半世紀近く経ってからですが深くお詫び申し上げます。もしお宝鑑定団で高値が付きましたらお知らせ下さい。祝賀会を催しましょう。
    さて初めて米坂線を訪れたのはこの半年前の夏だったと思います。当時米手作市さまが東京で研修中で、何かの折に遊びに寄った帰りでした。新幹線で直ぐ帰るのも面白くないので、上野発の夜行急行「いいで」で米沢へ、一番列車で坂町~新津、新津からキハ82系「白鳥」初乗車で帰京したときでした。今思うとキハ58系いいででは熟睡できず、米坂線はうつらうつらしながらで通過したこと、夏と雪の冬季では車窓風景が全く違っていたこと、列車交換ダイヤもうろ覚えだったこと、等々から適切なご案内が出来なかったようです。
    ついでに新潟で西村さんとお別れしてからの東京大雪アクシデントの顛末を一席。
    本編にもありましたが、当日は18時発の特急「とき5号」だけが運転されていて、大宮行としての運転だったかどうかは今やもう記憶にありません。電車は特急「こだま」として登場した151系を上越線転用に際してパワーアップした181系でした。しかしこれがクセもので、当時もうすでにだいぶガタが来ていて、結構高速で飛ばすので横揺れが激しく、加えて指定席が直前購入のため最前列の通路側だったため、他の客が出入りする度に寒風は吹き込むは、手動の重い貫通扉のガシャ-ンという音がうるさいは、等々散々な乗り心地でした。
    それでも21:40頃の大宮まではほぼ数分の遅れでした。これなら雪の影響は殆どないと思ったのは大きな間違いで、大宮から先は徐行と不時停車を繰り返し上野には1時間遅れの23:05に何とか滑り込みました。
    ところが後で知ったところでは、当日の都内は電車運休や未除雪で車が走れない等、夜間に外出など出来る状態ではなかったそうでした。そのため上野駅に来てくれるはずの迎えが見当らず、遅れて来るとか場所を間違えている等も考え、ホームやコンコース、改札口などをうろうろ探す羽目に。
    そのときまで上野駅で路頭に迷うなどとはツユ思ってもみなかったので、一瞬頭が真っ白になったものの、半時間もうろつけば頭では次の手立てを考えるようになっていました。ひょっとして東京駅から大垣夜行に乗れまいかと駅員に山手線の運転状況を確認すると、次は11時半過ぎにあるというのでとにかく東京駅まで移動することにする。大垣夜行143Mは23:30の発車なので本来なら間に合う筈はないが、東海道線も遅れているかもしれないと一縷の望みをつないでのことでした。
    東京駅へ23:45頃に着くと案の定遅れているとのことで、幸いにも143Mは運転するらしいが発車は何時になるかわからないという。結局発車したのは0:30頃だったと記憶する。誰も居ない153系大垣夜行は遅れを取り戻そうと飛ばしに飛ばし、おかげで座席下の飾り板(ヒーターの温風を通す穴の空いた金属板)がガチャガチャと大きな音を立ててとても寝られたものではなかったが、長旅と大雪によるアクシデントで時々は熟睡したようだ。
    11時頃にやっと自宅に帰り着いたが、もちろん北海道ほど寒くはなかったものの以外に寒かったとの記憶が残っている。
    これも後で知ったことだが当日都内の積雪は何と!15cmだったという。北海道の雪を見慣れてきた者にとってはたった15cmか、と言いたいところでしたが、この時に大都会は意外に自然災害に弱いものだということを知りました。
    まあしかし北海道で凍死もせず、東京でステホもしなくて済んだのは幸いでした。そんな無茶旅を一緒にしてくれた同志!と半世紀後もこうしてクローバー会で活動出来ることを感謝して、長らくお読み頂いた皆様へのお礼に代えさせて頂きたいと思います。

  2. なにか、車掌室に乗せてもらうものを届けようと思っているうちに発車してしまい乗り遅れました。いずれ落ちこぼれ分を書こうかな、それとも小林センセにHCDで寒い中の話をしてもらおうかな、なんてふと思います。
    思えば、珍道中で手探りゆえのスカタンが多い旅でありました。小林、西村氏もその後渡道をくりかえしており、小生も個人的には勿論、会社の仕事を利用して渡道しました。そのついでに会社の仕事をしたわけであります。帯広で士幌線の最終を見取ったあと、DCのキャブの乗せてもらい、何ものこっていない尺別の駅を通過したり、まあ色々ありました。
    当時は今ほど便利ではありませんでしたが、鉄道の便利さ利用のしやすさは比べようもありません。そこには人の出会いもあり、何にしても利用者の多いことが鉄道が元気であった源でありましょう。最近の北海道の鉄道の衰退は目を覆うばかりであります。再生を願わずには居られません。交通網の整備は国家の基本です。それと客が減った、面倒くさい手間の掛かる運行はしたくない、安易に金が入ることをまず考える腐った儲け第一の姿勢を改め、皆に喜んで利用してもらえるような鉄道に戻ってほしいと思います。(半年で東京ー大阪のバス乗客が30万人あったそうです。これだけ鉄道よりコストなどでバスが魅力的だったということです。創意工夫でこれを取り返せる施策をできるようになれば、半世紀前の元気のあった鉄道に戻れると思います。)歳をとってきたので愚痴もでますなあ。
    それにしても、最後の小林センセの旅は、寒い中の最後を飾るにふさわしい物ではないですか。読み応えがあります。まさに、クローバー会万歳!!

    • KAWANAKAさま
      コメントを戴き有難うございます。そんなにいいもんではなく、あれだけ雪の中を旅して来ながら、まだ性懲りものう雪でマヒした死の街東京へ行こうとした破天荒な顛末記をご紹介したかっただけなのですが。
      但し、KAWANAKAさま西村さまに限らず、クローバー会の皆様とご一緒できる喜びと幸せに関する部分は本心です。
      まだ積み残しがありましたか。臨時列車を仕立てなければいけませんね。

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