寒中北海道見聞録 8号車

「大雪6号」が白滝越えして遠軽に到着したところから 8号車は始まります。

■ 名寄本線の峠歩き

4:09遠軽着。降りる人はわずかである。名寄本線上り1番列車622Dに乗り換える。車内は暗く冷え冷えとしている。

キハ+キハ(客扱いせず不明。中湧別まで)+キハ225+キハ22332+キハ07210(荷物車代用。座席撤去)

遠軽を出てしばらくうとうとしていたが、窓の外が明るくなってきたので眼がさめる。車内はかなり混んでいる。あたりの景色を見ていると 写真でしか見たことのないキハ03のことが頭に浮ぶ。5:59興部着。少しの停車時間を利用して うしろのキハ07を写しに行く。外気に当たったので本当に目がさめた。

昭和44年3月7日6:00の興部駅 荷物車代用で座席のないキハ07210旭ナロ

興部から名寄までの途中には一ノ橋をサミットとする山越えがある。今日の目的地はそこである。撮影地を探すために一度名寄まで行って 引き返せば丁度上下2本の貨物列車が狙えるという寸法である。名寄ではホームから出ずに再び今乗ってきたディーゼルカーに乗り込む。

キハ22332(旭川行き急行オホーツク)+キハ225(遠軽行き普通)

名寄で買った朝食の弁当を食べているうちに一ノ橋着。

名寄駅の弁当 100円

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

名寄駅で買った駅弁

角舘(かくだて)商会は明治43年創業、名寄駅構内で営業開始。我々がお弁当を買った時点は3代目社長の時代。稚内駅や車内でも販売していて 最北の駅弁屋として知られていた。4代目社長の時代 創業100年目にあたる平成21年に社長が社長夫人の看病に専念するためと、後継者がいないため廃業されている。角舘商会の建物は現存しているそうである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

一ノ橋・上興部間は11Kmあり サミットはほぼ中間。何はともあれ歩くことにする。幸い道路と鉄道はほぼ並行している。材木を積んだトラックがよく通る。途中に「天北峠」という標識が立っていた。峠道を約5Km歩いたところで線路に登ることにした。線路は道路よりかなり上の方を走っているので 登るのにひと苦労した。ラッセルしながら登ったのだが吹きだまりに足を突っ込んで 腰のあたりまで雪の中に入ってしまった。ようやくのことで抜け出して線路に登ってサミット地点を探す。

ダイヤでは上下とも補機付きとなっている。まず一ノ橋方向から下り貨物が来た。カマは遠軽区の96である。ところが貨物量が少ないためか 補機は付いていない。しかしすばらしい煙を上げて登ってきた。

上興部・一ノ橋間 名寄本線下り貨物49699

さて この下り貨物は次の上興部で上り貨物と交換してくることになっている。我々は場所を変えて上り貨物を待つ。やがて山かげから煙が見え ドラフトが聞こえてきた。補機は付いていない。カマは49600であった。最後部にはまにスユニを連結していた。北海道の閑散線区ではこういう光景をよく見かけた。

上り貨物の最後尾はスユニ

さて2本の貨物列車を写して 今来た道を一ノ橋へと戻る。ほぼ10Km歩いたことになる。道路は凍結していて何度かひっくり返りそうになり、残念ながら一度転倒してしまった。気温が低くカラリと晴れていたせいか 空気が乾燥していて大変ノドが乾いた。そこで一ノ橋駅前で コカコーラの看板を掲げた店を見つけて入ってみたが コーラなどはなく 仕方なく怪しげな牛乳を飲む。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

昭和44年頃 屋外で飲む飲み物と言えば水筒に入れたお茶や水であり、リュックに入れて持ち歩ける飲料というものは無いに等しい状況でした。牛乳は瓶かせいぜい出始めたテトラパック。コーラ、ジュースも瓶入りで店頭で飲む時代でした。今巷にあふれるペットボトルやアルミ缶の無い時代、夏なら山の清水を飲むこともできたでしょうが、凍てつく冬の山中では何も飲まずに10Kmも歩いていたのだと今頃になって気付きました。そう言えば クラブのボックス内で何かを飲んだ記憶もありません。「わびすけ」などの「茶店」に行ってコーヒーを飲んでいた時代でした。

もうひとつ、怪しげな牛乳を飲んだというお店が今もあるのかと気になり、Googleのストリートビューを見てみました。下川国道 R239沿いに昔は酒屋だったような店の跡はありましたが、そんなことより一ノ橋駅跡がすっかりモダンな街になっているのです。調べてみると 昭和35年には一ノ橋地区には2058人が農林業で暮らしていたが、現在では140人となり 高齢化率50%以上、商店も病院もなく 冬は除雪もできない典型的な超高齢、超過疎地区になっているそうです。そこで下川町は広い一ノ橋駅跡を「超高齢化に対応するエネルギ自給型集住エリア」として 林業の町らしく木質バイオエネルギーによる集中給湯、暖房システムを備え 渡り廊下でつながったモダンな22戸の個建て住宅を建てて集住化を進めているということです。加えて若者が運営する「駅カフェイチノハシ」「宿泊ハウス」まであって 我々が訪ねた半世紀前とは一変しているようです。もちろんこのエリアを出れば原野ではありますが、集住化というのがこれからのひとつの方向だろうと 意外な勉強をさせてもらいました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■ 更に北へ

さて12:21発の626Dで名寄に出て、321レで宗谷本線を北上する。321レの編成は

C5516+スハ32842(札オタ)+スハ32836(札オタ)+スハフ32407(札オタ)+スユニ61511(旭ワカ)+マニ602570(東スミ)+スハニ6211(旭アサ)

ということで小樽の客車が多い。この列車は小樽から更に函館寄りの仁木始発だからである。青函を渡ってきた隅田川のマニ60もつないでいる。我々が乗ったスハフ32にはワンボックスをカーテンで仕切って車内販売のおねえさんが乗っていた。14:38音威子府着。稚内までは後続の天北線経由急行「天北」の方が早く着くので 「天北」に乗り換える。ホームに降りたけれども しきりに雪が降っているのでC55を撮りにゆくのをためらっていると 丁度良い場所にオル31が止っていたのでオル31を写したりしていた。このときにC55を写しておかなかったのは一生の不覚で その後道内で1枚もC55を撮れなかったのである。

音威子府駅に停車中のオル31218(旭アサ)
駅で使用する鉛筆1本まで用品庫から配給車によって運ばれたという まさに国鉄一家の時代だった。

急行「天北」は

⑥キハ27215指定+⑤キハ2751指定+④キハ5631+③キハ27203(すべて札ナホ)

の4両編成で ①②号車は名寄で切り落としてきたと思われる。天北線唯一の急行は予想以上に混んでいた。空席を見つけて座ると 前にはどこへ行くのか外人が一人座っていた。彼は歌登町営軌道を見に来たのではないだろうが、小頓別で降りていった。浜頓別を過ぎて小石、曲淵を通過。小石・曲淵間は国鉄での駅間最長距離17.7Kmの区間であった。かつて小石からは藤田鉱業小石鉱業所専用線があって 2両の8100が働いていたそうだが、今はもう廃線になっている。レンガ造りの水タンクの残骸らしきものが 雪の中にポツンと建っていた。

■ 最北端からの電話

17:26 列車は稚内のホームにすべり込んだ。とうとう最北端まで来てしまったんだなあと思いながら駅前に立つ。プーンと魚のにおいが鼻をつく。地図を頼りにユースまで歩く。前方をリュックをかついだ人が歩いているので どうせユースへ行くのだろうとあとをつける。ところがだんだんと暗くなってきて いつの間にか見失ってしまった。通りがかりのおばさんに「喜登旅館はどこですか」と尋ねる。まさに漁師町のオバサンというような人だった。

喜登旅館はなかなか設備も良く、ほっとする。先ほど前を歩いていた人は尼崎の女子大生だった。ホステラーは我々と彼女だけだった。夕食は部屋に運んできて食べるのだが、彼女はひとりで食べるのは寂しいらしく あつかましくも我々の部屋に入り込んできた。我々はイヤな顔もせず、いろいろな話をしながら夕食を食べた。我々が明日ノシャップ岬や宗谷岬にも行かずに駅に直行し 稚内をあとにすることを聞いて少々驚いていたようであった。

ところで京都を出てから13日にもなり 家では心配しているだろうと京都に電話することにした。もちろん8時を過ぎてから申し込んだ。待時通話ではあったが すぐにつながり家族と話をした。「今稚内にいるんやけど、元気でいるから心配せんといて・・・」、稚内と聞いて大変驚いていたようだった。横で小林氏が「あと2分あるでえ」とか言っておられたが 特に話すこともなく 声さえ聞かせておけば良いので1分余りで切ってしまった。参考までに3分以内315円だった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

先のペットボトルの話もそうですが、当時の電話も隔世の感があります。若い読者のために

少し説明を加えますと、この喜登旅館から京都への通話の場合

  1.  20:00を過ぎると夜間割引になるので 20:00を過ぎてから帳場に行く。
  2.  「京都へ電話したい。番号は〇〇〇・・」と伝える。
  3.  旅館の人が市外通話の申し込み番号「10〇?」に電話して京都の番号を伝える。
  4.  一旦電話を切って つながるのを待つ(これが待時通話)。
  5.  電話が鳴って受話器をとると「つながりました。お話下さい」とオペレーター。
  6.  通話が終わると 一旦切る。するとすぐに電話が鳴って 旅館の人が料金を聞く。
  7.  旅館の人に電話代を払う。

確かこのような手順だったと思います。朝名寄で買った弁当が100円、稚内から京都にかけた1分の電話が割引で315円という時代だったんですね。それでも何人かの交換手さんの手を介して ほぼ瞬時に稚内から京都に電話がかけられるようにはなっていたとも言えます。それまでの通信手段が電報だったことを思えば 随分な進歩だったのでしょう。その後100円玉を入れられる黄色い公衆電話が登場したり、「市外直通」なる言い方も出てきて 通信革命が始まったのでしょう。

札幌駅前の公衆電話からユースに予約電話をする際には

  1.  まず10円を入れて 市外通話のオペレーターを呼び出す。
  2.  相手先番号を告げると距離に応じた基本料金を教えてくれて「あと〇円入れて下さい」と指示がある。
  3.  追加料金を入れると相手先につないでくれる。
  4.  通話終了後に基本料金をオーバーしていると追加料金の指示がある。

といった具合でした。私は覚えがないのですが 小林氏の思い出話では 札幌駅正面の電話BOXはよく混んでいたので 少し離れたBOXからかけようとしたら これが手回し式(電磁石式)だったとのこと。ハンドルを回して発電して電話交換手を呼ぶという知識はあったが、初めての経験で恐る恐るハンドルを回したために いつまでたってもつながらず 焦ったそうです。昭和44年札幌の駅前でもこんな電話機が現役で活躍していたのですね。

ところで我々が泊まった喜登旅館ですが 現在はホテル喜登という大きなホテルとなって盛業中です。場所は以前のままなのか、移転されたのかはわかりませんが稚内駅と南稚内駅の中間ぐらいの場所に今もあります。

平成25年6月 稚内駅前

稚内駅前風景

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 最北の専用線へ

翌朝洗面所で東京の大学生に話しかけられた(ホステラーではない)。適当に受け答えしていたら 「同志社ですか。同志社は大隈重信でしたね」などと口走る。どうやら寒さのせいらしい。朝食もそこそこにY.Hを出てバスで駅に向かう。7:55発322レに飛び乗る。南稚内を過ぎて市街地を後にすると 車窓の風景は一変し 起伏の多い荒れ地が続く。抜海付近では利尻島が見えるかと思ったが、あいにくの低くたれこめた雲のために全然見えなかった。時おり窓の外を流れてゆくC55の真っ白い煙が印象的だった。

ところで豊富から日曹炭鉱専用線があって 4両の9600がいるはずなので 是非訪れてみたかったのであるが、何しろ先の尺別鉄道と同様 現状は全然わからない。小林氏と相談してもわかることではないので、車掌の来るのを待って聞いてみることにした。車掌氏がやってきたので聞いてみると 「ちょっと待って下さい」と言って車掌室に戻っていった。これは何かわかりそうだと思って期待していると 何のことはない我々が持っているのと同じ交通公社の時刻表をめくり始めた。ここで口をはさむのは悪いと黙っていると 「何もわかりませんねえ。確かそういう線があったようですが さあ今は動いているのかどうか・・・」という返事。何だか肩すかしを食らったようだったが、礼を述べて引き下がってもらった。そうこうしているうちに列車は徳満を過ぎて次は豊富である。しかしまだ行くか行かないかが決まらない。列車が豊富に着いてからようやく降りることになって 慌てて降りた。さて駅前から豊富温泉、豊富砿業所行きのバスがあるので 多分これに乗れば行けるだろうとバスに乗り込む。沿岸バスはだんだんと山間に入って行く。線路は道路とほぼ並行している。途中除雪作業をしているのが見えたのでほっとする。約30分で砿業所到着。バスを降りて少し行くと向こうに煙が上がっているのが見える。自然に足が速くなり カマが9615であることがわかった。リュックを放り出してシャッターを切る。

3月8日 日曹炭鉱専用線一坑に休む9615

ゆっくりと写せばいいのだが 次のバスで帰らねば昼過ぎまで足止めを食う。撮影時間は30分ほどしかない。向こうに車庫があるので 一応許可をもらってからと車庫へ急ぐ。車庫に行くと白髪の老人が出てきて あれこれと説明して下さった。彼は旭川機関庫を定年で辞めた後ここでカマの世話をしているそうである。彼の話によると 19969は去年スクラップになり、49678は定検のために苗穂工場へ行っていて 今はいないとのこと。残る9643はまもなく山を登って来るのでもう少し待ちなさいと言われた。ところが時計を見るとバスの時間が迫っている。そこで事情を説明して帰り支度をしていると、「それなら次の貨物に乗ってゆけばいい」とドキリとするようなことを言われた。「ワシが機関士に頼んでやるから待っていなさい」と言って事務所に入ってゆかれた。そのうち9643が無蓋車を牽いて登ってきた。1両だけ荷物車代用の有蓋車がついていたが、それを牽いて更に先の配給所まで行って しばらくして戻ってきた。

9643   このカマに乗せてもらった

さて機関車に便乗させてもらうことに決まって 何か夢でも見ているような心地だった。発車は11:30で まだ1時間ほどあるのでオハ31197を写したり、車内をのぞいたりする。オハ31は通学用で日曜日は運休する。

ワム2+オハ31197

オハ31197車内   ダルマストーブが2基

車内に掲示の注意事項

車内に掲示の運賃表

その他車庫には木造ラッセル車キ74が置いてあったがこれは使用されておらず、外に留置してあるキ124が現役である。銘板によると鉄道省浜松工場昭和8年、昭和27年旭川工場改造となっていた。先ほどの白髪の老人の話によると 昔は7200 8113、11号、12号といったロコがいたそうだが 9600に代わって廃車されたとのことだった。

一坑構内風景

事務所の機関士の控室で待たせてもらっているうちに発車時刻が迫ってきた。給水、給炭を終わって9643は出発準備完了した。キャブにリュックを放り上げて乗り込む。この機関士さんもSLファンだそうで、関西線のロコのことなどを我々に聞いておられた。そんなわけで いやな顔もされずに便乗させてもらうことができた。構内の入換も終わり出発である。10両余りの石炭を積んだトムやセキを従えている。加減弁が引かれてグイツグイツと走り出す。機関助士は丹念に火床をならし、投炭を続ける。機関車に乗ったのは初めてであったが、その揺れようときたらものすごい。どこかにしっかりとつかまっていなければ振り落とされる。機関助士も親切な方で 助士席を空けて下さった。小林氏と交代で助士席に座る。小林氏が座っている間は 私はテンダーに乗っていた。助士席に座って写真を撮る。いい調子で写していたらフィルムが終わり、大変苦労してフィルムを詰め替える。

機関助士席で豊富に向かう

正面の長丸い窓が96に乗っているのだということを改めて印象付ける。蒸機のキャブと言えばいかにも暖かそうだが とんでもない。96は開放キャブなのでなおさら寒風が身にしみる。一坑・豊富間には25‰ほどの登竜峠というサミットがあり ただでさえ遅い列車は更にスピードを落とす。投炭が続き ドラフトは雪原に響き渡る。

助士席とテンダーを交代しながら96の揺れを楽しむ

峠を越えた列車は豊富へと勾配を下る。約50分で豊富に着く。すぐに入換作業に移ったので 入れ替え作業の間も乗っていた。構内掛の合図に汽笛で答えながらあちこち転線して入換えが終わる。

豊富駅構内の入換も体験できた。豊富駅には構内掛が常駐していたのだろうか。

最後に停まったところにはホームがないのでリュックをかついで飛び降りる。機関士、機関助士にお礼を言ってホームによじ登る。国鉄線の列車は当分ないのでホームには誰もおらず、改札口の開き戸も閉まっている。開き戸を開けて入るのも何だか気がひけるので 垣根のすき間から外に出る。ふり返ると我々が乗ってきた9643は空の無蓋車を牽いて再び一坑へと出て行くところだった。それにしても非常に貴重な体験だった。このことは今回の北海道旅行の一番印象深く思い出の出来事であった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日曹炭鉱専用線とのつながりはこれで終わりませんでした。何しろ初めて1時間近く96のキャブに乗った体験のインパクトは大きく、昭和46年にも再訪しました。

昭和46年3月17日 登竜峠にて
この日は急行利尻で早朝豊富に着き、バスで登竜峠へ。そこで豊富行きの一番列車を待った。快晴無風のため 白煙がいつまでも消えずに残ったのは初めて見る光景だった。最後尾にオハ31。

豊富から戻って来た一坑行き。初訪問時には定検のために苗穂工場へ行っていて会えなかった49678が元気な姿を見せてくれた。

時は流れて平成25年6月。利尻・礼文の旅をした際に豊富温泉で1泊して登竜峠を訪ねてみました。42年前には木がまばらなクマザサの斜面が多かったのですが、一面木が生い茂り 上のカラー写真を撮った地点がどこなのか 全くわかりませんでした。

平成25年6月14日  道路の先が少し登っているがどうもあのあたりが登竜峠のサミットだったらしい。余りの変わりように40年の歳月を感じた。

この旅のことを平成26年6月21日にデジ青に「35883 なつかしの日曹」と題して投稿しました。するとこの記事が縁となって札幌市在住のU氏との交流が始まりました。U氏はかつて日曹の関係者で 毎日2往復ワムに乗って荷物の取り扱いをされていた方だったのです。子供や孫に日曹でのつらい毎日のことを伝えようとしても 当時の写真 もなく たまたまネットで「日曹炭鉱」で検索していてデジ青に行き当たったということでした。そこで私が2度の訪問で写した写真をお送りし 大変喜んで頂きました。また当時の専用線の様子をいろいろと教えて頂きました。そのU氏からのお便りの一部をその まま転記させて頂きます。

西村様が撮影して下さった96の機関庫のある一坑駅から猿払側に3km?程行くと三坑がありました。ここから石炭の原炭を取ったものを、一坑駅のそばに選炭場があり、ここで石炭と石・岩などと選別して 洗って 粉炭・中かい・かい炭により分けて豊富から96で引っ張ってきた空の台車につぎ込みます。私はワムに乗る前に、丸通の作業員の手伝いで台車に積む作業、それを動いている台車の上で3番スコップで石炭のならしをして 終了してからワムに乗って荷物の受付をして、そのまま豊富まで行って往復していました。当時の仕事や生活の写真が何もなく、淋しく思っていましたが沢山の写真を頂き有難う御座いました。今後とも宜しくお願い致します。

ということで 北の果ての日曹炭鉱専用線は今も私の中で 特別な存在となっています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて苫小牧で別れた筈のKAWANAKA氏から メッセージが届きました。

・稚内の風景

この見聞録は昭和44年のことであるが、これより去ること2年ほど前にKAWANAKAセンセが夏の稚内を訪れているので、そのときの印象を拝借する。

札幌からのC55に牽かれた夜行「利尻」が着くと、ちょうど利尻/礼文へのフェリーの待合の間などを狙って、わっと降りてきた旅客に朝飯の振る舞いがあって、それなりに朝食食堂がならんでいた。この時間は店にとってかき入れ時であった。稚内駅からもそこそこ優等列車が多く発着しており、現在のように列車を乗り入れるのが嫌になったというJRの経営感覚ではなかったのであります。隔世の感があります。 

喜登旅館ユースはシーズン中は当時の北海道ブームもあって、そりゃ多くのホステラーの利用がありました。公営ユースではありえないですが、大部屋にジャガイモみたいに放り込まれて、雑魚寝状態でありました。これを良いことに、どうせ分からんやろうともぐりこみを決め込むやつがいて、なんや部屋の人数が多いやん、と数えると布団の数が足らん、どうやら無賃で泊まっているやつがいるらしい、てなことがありましたね。このころ、稚内では北の果て、氷雪の門なんていう観光地が人気であったので、そこを行くホステラーなんかがよく利用していました。銭がなくなってきたらこういう泊まり方があるのだなあと勉強になりましたが、小生はクローバー会のメンバーのいた寮以外、無賃では泊まったことはありません。ある銀行の寮でT氏の部屋に泊めてもらったときにベッドがなくその隙間で寝たときに、だれか知らん人が寝とったとか、言うとったとか、早朝出勤するT氏の代わりにゆっくり朝飯を頂いたくらいでしょうか。こういうのはいくつかあってステホを回避していましたが昔のことで時効ですね。 

・電話代の話

315円というのは、この見聞録では物価は4.5倍と言うているので現在の1500円くらいか。100円の弁当はすごく安いと思いますが ホットモットの弁当で比較するとやはり4倍くらいでしょう。情報連絡は只でもできる時代、今の人には想像もできないほど高価だったのです。なおこのころ、海外からの電話も似た手順を踏んでいました。違うのはコレクトコールでお願いしたいと、海外ではゼニがないからオペレーターに申し込んだくらいでしょうね。これも時代を感じます。勿論、稚内からの場合の10倍くらいしましたが。国内でもコレクトコール言うのがあったんかな?若い人はなんじゃこれと思うでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8号車は大変重くなってしまいました。9号車は軽量客車を配車するように致します。

3 thoughts on “寒中北海道見聞録 8号車

  1. このころのカマは、ロケに行っても乗せてもらえる機会が結構あったと記憶しますね。しかし、日曹のロコ添乗はすばらしい経験と思います。約束があって先に帰った小生は、非常に羨ましく思います。
    冬のロコは確かに寒い。五能線で86に乗せてもらったけど、やっぱり寒かった。自撮りなんてなかったから、投炭しておるくらいしか撮ってないけど、またその時代の旅に行きたい。

  2. いやあ今読み返して当時を思い出すと冷汗三斗ですね。西村さまが日曹を再訪され、更に関係の方と親交を温めておられていたとは知りませんでした。文中で吐露されたように日曹訪問はかなりのインパクトと不思議なご縁があったのですね。小生も行って良かったと感激しています。尺別での出来事に懲りて日曹訪問を随分迷い、優柔不断で随分ご迷惑をおかけしましたが、羹に懲りて膾を吹かずによかったと思っています。
    今回のリメイクではお世話になっていますが続く9号車もよろしくお願いします。

  3. 西村雅幸様
    これは内容のある奇行文ですね。早朝の興部のキハ07は当時キハ22オンパレードの道内では大変貴重なショットに思われます。この07とキューロクの貨物の写真からこの時期、この場所にしては好天に恵まれたと推察しますが文中にも気温が低くカラリと晴れたとあります。それにしても峠まで往復10Kmもよく歩いたと思います。それより雪の斜面を線路のある所まで登って行く勇気によく行けたなと感心します。吹き溜まりに足を突っ込むことは危険ですが、大したことが無くてよかったですね。私は炭鉱専用線には行ったことがありませんがキューロクに乗せてもらって羨ましいです。1900生さんですか、このような笑顔を拝見したのは始めてです。親切な人にめぐり会って大変楽しい時間を過ごされた様子がよくわかります。100円弁当、瓶コーラ、不法侵入による雑魚寝、取次電話等々不便であったが楽しかった時代の話有難うございます。また、最近になっての変わり果てた(?)現地訪問のレポートも興味深いです。U氏との交流もデジ青のなせる業でしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください