寒中北海道見聞録 半世紀前の旅ー5号車

■尺別鉄道へ(迷い込む)行きはよいよい、帰りは・・・

心地良い眠りの中、列車はひたすら釧路に向かって走り続けます。池田を過ぎると3人とも目を覚まし寝台もたたまれた所で早速今日どうするかの予定の相談です。あと30分もすれば尺別に着くのですが、まあ「出たとこ勝負で行こか」と始めた旅であるにしても至極ええ加減なことをしています。相談内容は次の2つからどちらを選択するか、その意思決定をしようというのです。

  • ・ このまま乗って釧路へ行くか
  • ・ 折角なので尺別鉄道へ行くか

尺別鉄道はれっきとした地方鉄道であるが時刻表にも載らず地方鉄道の権威藤本大先生でも訪れたことがないような全く状況が分からない点が問題でした。釧路へ行くとしたら議論が纏まらないうちに降りるチャンスを逃した、というか成行に従った結果ということになるでしょう。議論の結果は折角ここまで来たのだからこの際行っておこうということになって尺別に降り立ちました。とんでもないことになってしまいそうであったとは露知らず・・。

 

尺別に到着
駅員もこの時代には居ります。まだ、尺別が元気な頃。

改札口まで来ると駅員が「汽車ですか?」と言うではありませんか。驚いた小林氏が「そうです」と返事をすると、その駅員「そこに止まっているバスにお乗りなさい」と言うではありませんか。その言葉に従って我々3人は少し不安を感じつつもバスに乗り込んだのです。バスには新聞や荷物が積まれていて車掌などという気の利いた乗務員がいないボロボロのバスは走り出しました。

尺別鉄道を左に見ながら約20分で車庫のある新尺別に着きました。新何々とかというと、何か最近出来たモダンな駅か何かのようであるが、尺別があるので新尺別位かなあの感じである。さて運転手に料金を聞くと「さあ・・・、いらんでしょう」という返事。想定外のことに驚きながらバスを後にしました。※今にして(編集時点)思えば、何でこのバスをもう少しちゃんと記録し、写真を撮っておかなかったんか、と後悔しきりです。得てしてこんなもんなのでしょうが・・。

※ 終点の尺別炭山は谷あいで広いスペースがないため、新尺別に機関区や炭住、公共施設が作られた。丁度我々が訪ねた1年後の1970年(昭和45年)2月に閉山するが、その時点で4070人の住人がいたらしい。木造機関庫の後方にお寺と思われる甍が見える。現在 この地は4000人もの人たちが住んでいたとは思えないような原野に戻っていて、お寺どころか建物は全くなく、朽ち果てたガソリンスタンドと集会場が残るのみである。

※ ところで閉山から30年後の2000年(平成12年)に 尺別炭山30周年の集いが開かれ、約300人が現地に集まった。そのとき全国から集まった人たちの名前が書かれたプレートが、新尺別にひっそりと立つ復興記念碑に取り付けられている。なぜ「復興」なのかであるが、戦争末期 尺別炭鉱の採炭夫たちは九州の炭鉱へ動員され 尺別は休鉱状態となった。終戦後 鉱夫たちが尺別に戻ると坑道は水没していて採炭できない状態だった。それをふるさとの炭鉱を守れと鉱夫たちが立ち上がり、水をくみ出し復活させたそうである。そういう意味での「復興」記念碑だったそうである。(以上、西村氏の調査)

さてバスを降りて新尺別駅に入ってリュックを置き、帰りの時間を確認する。これは旅の心得であるはず。ところが時間を確認すると驚いたことに尺別行きの列車は8:31の12レの次は12:54の14レになっているではおませんか!微かな期待を持ってバスを見ると、これまた7:50のあとは15:25まで無いことが分かりました。そういえば先ほどのバスから混合列車が走っていくのが見えていました。それが12レだったという訳です。時計を見ると9:00。KAWANAKA氏は「さあ、どないしてくれるねん、おっさん(ガラ悪いのお)」と小林センセに詰めよるのですが、流石の先生も「さあ。どうしよう」と困り果てた様子。駅員にタクシーのことを聞いてみたのですが、タクシーは隣の音別から呼ぶしかないけど「来るかどうかは分かりまへん」と仰(おっしゃ)る。こうなりゃー、帰りのことは落ち着いて考えるとして折角来たんだから写真だけでも撮っておこうと決心し車庫へ行き、クラの中にいたC12 56とC1296 を写し、外に置いてある客車などを撮ったのです。

ところで尺別にはもう1輌C12001というのがいて駅員の話では10:00頃に戻ってくるという。これはチャンスではないか、待つことにするが、やはり頭の中は帰りのことでいっぱい。なにせこのままでは1日がパーになってしまうのであります。(似たような経験は海外であり、フェリーで港に着くとすぐ鉄道に連絡していると勝手に解釈し、その結果列車に間に合わなくなった。タクシーで駅まで急ぐが非常に遠く帰りの金を使い果たし、列車には乗れず異国の地で、このままでは腕時計でも売らなあかんと途方に暮れたことがあった。これよりマシとは思ったが。このときは「どないしてくれるねん」という相手が居なかったから、今の方がマシ・・個人の愚痴ですんません。古臭い話しを始めると関連していっぱい出てきよる)

兎に角この事態は尺別10:50の443レに乗らないと、その日のうちに雄別鉄道に行けないことを意味します。これは超大変なのであります。じっとしておられず郵便局へ飛び込みましたが親切な局員のお陰で10数軒商店に電話をしていただきやっとこさで尺別まで行く用事があるという人が見つかり、その人の世話になって車に乗せてもらって列車の間に合うことができたのです。窮すればなんとかで助かったわけです。しかし、郵便局で長々と話しをしているうちに数量のセキを従えたC12001は 客車1輌を残して尺別炭山の方に上って行き、結局動いているカマを見ることは出来ませんでした。

※教訓=チームで取材しているときは分担が大切。誰か残ればC12001は撮れたはず。なお、車を提供してくれたお礼に500円札を手渡したが当然のように受け取られた。これは暫く話題になり、貰うのが当然なのか、こんな経験した奴が他にもいるのかなど。なお、車種はコロナバン1500であった。贅沢は言えない。(この500円は駅弁が150円、マシなので200円。現在の1/4~1/5倍の物価とすると、2000~2500円支払ったいうことでしょうか。)

※ なお、西村氏は客車2両を写すべく この2両の裏側に回ったが 雪の上に真っ赤な血の跡が点々とあって驚いて しっかりと写真を撮っていないという。多分ウサギか何かをキタキツネが襲った跡だと思われるが、いまであればクマが出てくるかもしれない。訪問するには万全の準備が必要でありましょう。

散々な目にあったけれど兎に角、無事に443レ車中の人となりました。443レは、

←釧路DD51503 +オハ6232+オハ6272+オハフ6214+オハフ6212(すべて釧クシ)         と割と綺麗な編成かも。

■ 雄別炭山鉄道とツララの歓迎

11:55釧路に到着。早速ユースに電話してOKを取る。丁度正午であるので昼食を採ることに。駅2階のポン食(失礼、このころKAWANAKA が日本食堂をこんな風に呼んでいた。当時は礼儀をそんなに知らなんだ?今でもやだと。そうかも知れん)で食事の後、本日の目玉である雄別鉄道に行くのです。

※気が付いたんですが本日はどこで朝食を採っていたのでしょうか。車中でもなさそうだし、尺別駅では直ぐにバスに乗せられています。あとはテンテコマイしています。KAWANAKAが居るというのに考えてみれば不思議です。彼の旅では殆ど欠食はないはずなのですが・・。

(西村氏の印象)終点の雄別炭山までは220円と少々高めであるが十分行く価値はある。切符を買いに行くと釧路駅の出札口は中々考えてあって出札口の中と外に各々マイクロフォンとスピーカーがあって互いに聞き取り易くしてあった。これは大変良い考えであると感心した、とある。※流石に西村氏、わが校の機械科だけのことはあります。このシステムは今はどうということはありませんが、感心する所は将来のエンジニアの予感を感じさせると思った次第(今ではそう思う)であります。やはり結果はそうで(仮称)帝國重工でその素質を遺憾なく発揮するのであります。少しゴマを摩りましたが、まあ、そういうことです。(注)切符の写真は170円となっておるではないか、という御仁もいると思うので、ひとこと言うと、これは西村氏の切符で、KAWANAKA のを見ると運賃変更の判子が押してあるのが確認できます。要するに50円値上げしよったと言うことであります。

12;48発の列車は既にホームに入っていた。ディーゼルカー2輌+客車1輌という編成の最後部のナハ14に乗り込んだ。ナハ14!?何か新型軽量客車のようで聞こえは良いが実は明治36年大宮工製のシロモノである。

さぞかし酷い乗心地と思っていたのでありますが、走り出してみるとな、何とあ~ら不思議、素晴しい乗り心地。乗り心地に関して何時もうるさい小林センセもいたく感心しておられました。列

雄別炭山駅に着いた

車はあるまじきスピードで見渡す限りの雪原野(造語)の中を突っ走り、丁度1時間ほどで雄別炭山に到着しました。

今度は時間もあり、帰りの時刻も決まっているのでゆっくり見学が出来る。先ず機関区に行って許可を戴きクラの中に入る。色々居るので纏めてみた。

・ クラの中に8721号機、8722号機が眠っていた。もう動かないであろう。またクラにはC113 がいた(この他に1,8,65,127号機がいるが炭山にはいなかった。

外にはC56 1001(私鉄オンリーワンのC56で1941年(昭和16年)三菱神戸造船所製。)がおりました。小林氏は赤ナンバーのC56 を見て「やっぱりC56 はええなあ」とヨダレ垂れるくらいニヤニヤしておられました。

雄別炭にはもう1輌元気なカマがいて走り回っている。それはコッペル製のCタンク205号である。入替にうろちょろ走り回っていて、ここを訪れた人は皆、流し撮りを撮りたいそうであります。

(それはないで・・・KAWANAKA)こんなカマを撮ろうと歩きかけて、石炭を運ぶベルトコンベヤの下まで差し掛かった時であります。何の前触れもなく、頭上から60~70cm(青信号による。感触ではもう少し小さいかなと思った)のツララが川中氏を目掛けて落ちてきたというのです。幸い??そのツララは脳天直撃ではなく、背中を掠めて地面に落ちて粉々になったのですが。驚きようといえば只者ではなかったようです。もう1歩でも歩くのが遅かったらどんなことになっていたか考えただけでもぞっとします。※では、ぞっとする内容を考えましょう。ヘルメットもなく、素頭であったので、頭なら骨折脳挫傷とかになって、205号機に乗って退散、病院直行。肩にならキルティングがあるので打撲傷で、同じく205号機。両方とも転倒して悶絶?でしょうかね。夏は熊よけの鈴、冬はヘルメットとかの防護用具が要りますね。ご安全に。

色んなことがありましたが、15:55雄別炭発のこれもディーゼルカー2輌+客車1輌のDDT編成で釧路へ戻ることになりました。夜行の疲れもあったのでしょうか、先頭車のキハに陣取ったものの釧路まではころんと寝てしまいました。また来てやろうと決心して釧路駅を出てバス乗り場へ向かったのです。

■ 22時消灯のユース(鉄とは少し異質な見聞録)

ユースホステルは、鉄には単なる一宿の寝床くらいにしか考えない人もいるが、そうではなく特に客の少ないシーズンは知り合いになる良い機会を提供してくれる場所になることが多いようです。釧路駅でバスを待っておりますと「お宅らどこから来はったん」という声がしました。声の主は同じ京都の人間で話が弾みます。バスは夕方のラッシュでたいそう混んでいたので大きなリュックで通路を占領していた我々は注目の的でありました。因みに彼は京阪で大阪工大に通っているのだとかいうことでした。

部屋に戻ってあれこれ雑用しているうちに消灯の22時になり、いきなり全館消灯になりました。これまでの経験ではこんな厳密なことはなかったので余り気にしていなかったがベッドライトまで消すことはないよな。時々こんな石頭の管理人が特に公営におるので注意が必要ですね。※こういえば小生の会社のある保養所で、貸し出したポットをフロントにお返し下さいの規則(お願い?)があった。時々これを忘れる客がいるが、出発まじかに「規則やから持って来い」と言い館内放送まですることもあった。規則に縛られ頭が硬くなるとこんなことが起こる。・・・と書くと我クローバー会では考えられないことがあるのだなあと思います。このユースの食堂から眼下に凍結した春採湖、そして春採湖の対岸に釧路臨港鉄道を臨むことができるのに、陣取っていると規則やさかいにチェックアウトやでえ、と言われそうです。なお、青信号22号にはKAWANAKA氏は西村氏の懐中電灯を借りて何やら読み耽っておったとありますが、何だったんでしょう。汽車の絵本かも知れませんが。

■ チョット摩周湖に寄り道(また異質な見聞録)

大阪工大のお兄さんと別れ(後ほどばったり再開することになるが)、9:10の「大雪3号」に乗るために駅に急いだ。編成は、

←網走③キハ5632(ハザ)+②キハ5620+①キハ2756+キハ22236+キハ22269   ③~①は大雪3号小樽行で札ナホ、後の2輌は根室標津行しれとこ1号、釧クシでありました。

最近JR北海道どうなるねん、の報道が話題になる昨今から考えると行先も経由も想像できないではないですか。釧路から網走経由で小樽まで行くと考えられますか。編集者もこれをみて感激(感傷かな)に耽ってしまいます。

列車は見渡す限りの雪原野をひた走ります。②号車にはユースで一緒であった女子学生2人と男子大学生がいました。女子学生は四国、東京。男子学生は東京理科大生です。話し合いの結果、取り合えず弟子屈(今は摩周と言うらしい、弟子屈の方がええと思うのですが。レークマシューゲートステーションとするよりマシか)で下車し、摩周湖に行くことに。たまには観光もエエだろう、という気の緩みと余りの天気の良さに彼らのペースに巻き込まれてしまったという訳です。逆はないです。彼らが雄別に行くとは考えられません。ところが冬の北海道の泣き所、バスがないのです。仕方なくタクシーの手配と相成りました。2台に分乗して20分でかなりのスピードでぶっ飛ばして摩周第一展望台に着きました。

霧の摩周湖とか言われますが、この日は我う々が遥々訪れることを知ってか遠く遠く知床連山をも望む素晴しい天気。折から摩周湖では樹氷祭とかいうものをしていましたが、樹氷などそれらしきものはなく、雪のクマの像などが並んでいて観光客は我々6人しかいませんでした。待たせてあった(そうでもしないと本当に帰れなくなる)タクシーで弟子屈に戻りましたが、途中メーターの音は京阪の各駅停車より早くはらはらさせられました。料金は1620円でした。※ 因みに、Navitimeで検索してみると11kmあり、タクシーは片道大体3600円くらいである。往復で7200円。支払ったのは1620円であるから、4.5倍。この指数が適正かどうかは分からないか昨日の尺別のコロナバン白タクの場合は500円なので、2250円となり、想定した金額と合う。この現時点7200円、1人当り2400円は年金生活であれば今でもチョット考えるかも知れない。

■ 混合列車で北浜へ

混合列車で北浜へ向かいます。弟子屈発は12:13である。混合列車の628レもそうでありますが、釧網線の客車列車は全て混合列車で、弟子屈~緑はDE10の前補機が付きます。

←釧路DE1035+C58331+ワム15008+タサ15519+トラ18426+トラ50450+オハ6271旭アサ+オハ6234旭アハスハニ6225旭アサ+ワム5045

我々が乗ったスハニ6225にはダルマストーブが付いていて車掌が時折廻ってきては炭をくべていく。このような光景はもう長くないと思うけど、残しておきたい冬の風情かもしれない(なんて外野はかってなことを言っておりますが雪の中を走り続けます。ボーッ、ボッ、ボッ。ピーッ、ピッ、ピッ。サミットが近づき絶気らしい)。ところで、あの学生3人はどうなったんでしょう。さっぱり記憶がありません。写真も放ったらかしだし、申し訳ない。また、我々3人は弟子屈で弁当を買っています。弁当をダルマストーブの暖房で頂くのは風情があります。北海道の長距離列車には普通列車といえども必ずと言って良いほど車内販売があり、お姉さん(か、元お姉さんのおばはん)が乗務しています。このスハニ62にも2人のお姉さんが乗務していて、終止ストーブで暖を取っておりました。

列車は斜里を過ぎ、右手にオホーツクの海が見え始めると目指す北浜は近い。14:16にオホーツク海に一番近い北浜の小さな駅に降り立ちました。

6号車に続きます。

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