ふつう写真展の記事と言えば、始まる前の投稿が通例ですが、終わってしまってからの報告になってしまいました。4月7日から12日まで、高槻市内のカフェギャラリーで、故・中島忠夫さんの写真展「旅路の記憶」を開催しました。中島忠夫さん、と言えば以前のピク誌などで蒸機の写真をよく載せられていたことで知られています
4年前に80歳で召天されましたが、クローバー会のKH生さんとともに、氏の功績を広く知ってもらうため、ご遺族の理解・協力のもと、ネガのデータ化を推進してきました。昨年には、フォトブックの制作発行、継続して鉄道出版社への写材提供を行い、今回は、永らくお住まいだった高槻市内での写真展を開催することになりました。
▲中島忠夫さんを偲ぶ写真展。中島さんの人生と、撮影旅行の思い出を重ね合わせてタイトルを「旅路の記憶」とした。▲▲蒸機の写真だけでなく、地元大阪の古い写真も展示、合わせて故人愛用のカメラ・模型も展示した。
膨大な記録の中から、氏の全貌を展覧するのは、正直難しいことですが、われわれなりに選んだ30点程度を展示しました。事前に鉄道雑誌での紹介記事掲載、また大手新聞の大阪版にも写真入りで紹介されて、少しの期待感はあったものの、正直、入りが心配でした。ところがフタを開けるや、つぎつぎと来場者が訪問、永くギャラリーをやっておられる女性店主も、“こんな熱心な人がたくさん来るのは初めて”と驚くほど、日曜日の午後に行ってみると。狭い店内には入れず、外で待機する始末でした。ご案内を差し上げた方のなかには、遠く東京、静岡、広島から、新幹線で駆け付けていただいたファンもおられ、わがクローバー会からも、多くの皆さんに来ていただき、楽しく歓談することができました。加えて、ご遺族のお知り合いを中心とした、女性パワーには今回も圧倒されました。そして、宮原機関区や向日町運転所など、国鉄時代の現業機関を退職をされた方が、新聞で知って多く来場されたのも特徴的でした。
展示した写真は、1960年代のものばかりで、今から60年前の写真です。古い1枚の写真をネタに、初対面の人たちとも熱く語り合える…、まさに鉄道写真の持つ魅力を垣間見たひと時でした。少し前の準特急さんのコメントに「鉄道趣味を通じて社会に貢献」と、DRFCのスローガンが示されていますが、全く同感です。人知れず消え去ってしまう貴重な鉄道趣味遺産を発掘し、広く皆さんに見ていただくのも、齢を重ねた私自身に課せられた社会貢献活動のひとつと考えています。▲鉄道ピクトリアル137号「D52・D62特集」のセンター頁見開きを飾った、中島さん撮影のセノハチを行く貨物列車、アウトカーブのやや低い位置から、補機も入れてD52のパワーを余すところなく表現した写真。「威風堂々」のタイトルとともに、中学生だった私の胸に深く刻まれた。今回、スキャンを進めている時に、このネガに巡り合い、感激して真っ先に展示写真に加えた。
「列車が全部入った瞬間にシャッターに力を入れる。熱風と鉄の雑音が過ぎて機関士を見上げると、シンダが夕立のようにバラバラと降りかかる。長い列車が終わってまた新しいブラストが追いかけて来る。再びシンダの洗礼とともに、振り向くと補機がトンネルに吸い込まれて行った」と記された臨場感あふれるキャプションとともに、飽かずに眺めていた55年前の中学校1年生の私だった(瀬野~八本松 昭和33年9月)。▲走行中の蒸機だけでなく、形式写真もこの1点だけ展示した。自分としては“完璧のC51”とタイトルを付けたほどの申し分のないC51の形式写真だ。これもネガスキャンで出会った時は、ドキドキするほどの興奮を覚えた。一般の人には無縁と思える形式写真だが、“これはキレイな写真や”と褒めていただいた。機関車の審美眼というのは、人間共通のものだと改めて思った。
撮影された昭和35年の配置表を見るとC51は159両が残っていた。製造数が289両だったから、半分以上が残っていたことになるが、うち“完璧な”C51はどの程度いたのだろうか。今回、ネガスキャンを進めて、パイプ煙突化されたC51がなんと多いのか思い知った。光線、バック、そしてロッドの位置など、原型であること以外の条件も考慮すると、当時でも、このような撮影に、なかなか巡り合えなかっただろうと想像できる(早岐区 昭和35年8月)。
総本家青信号特派員様
中島忠夫さんは当会の鉄道人間国宝や西尾克三郎さん等と同様に関西の蒸機撮影の重鎮として活躍されました。私も趣味誌等で数々の作品に接し大変な刺激を受けてまいりました。会場に行けなくて申し訳ありませんでしたが、関係者の方々が多数来られて盛況であったようでよかったと思います。社会貢献されている状況がわかるようでうれしく思います。