今回は、留萌線、羽幌線だけで使用された、わずか6両の希少な蒸機、D61について記します。もともと留萌線のような「丙線」の貨物輸送は戦後、9600が一手に引き受けていましたが、車齢が高く、代替機が求められていました。そこで、電化の進展によって、余剰が見込まれるD50、D51の従輪を二軸化し、下級線区にも入線できるD60、D61が誕生しました。D60は78両が改造されて、広範囲に使用されますが、D61は種車となるD51の需要が依然として高く、改造はわずか6両に留まりました。最初、稲沢一区に配置され、中央西線、関西本線で試験が行われたあと、配置先に選ばれたのが深川機関区留萌支区で、昭和35年から使われます。築別炭鉱で採掘された石炭を、積出港の留萌まで運ぶことがメインで、D61の運用も、留萌~築別の羽幌線が中心となりました。石炭輸送も増大したため、昭和40年にD51の入線テストが行われ、深川区のD51とともに仕業に就きました。留萌線の深川~留萌では、昭和43年10月の貨物本数は、下り9本、上り10本となり、D61、D51、それに9600も混じって働いていました。▲写真 D61のメインの働き場所、羽幌線でD51と重連で貨物を牽く。
▲留萌でD51とともに出区の準備をするD61 4 (以下、昭和43年9月)▲トップナンバーD61 1 深川機関区留萌支区の所属のため区名札は[深]▲D61 4+D51 62の重連で留萌を出発する羽幌線の貨物。▲▲D61の特徴である従輪付近を見る。▲昭和46年10月、突然、D61 2が梅小路に現れて、C62 2とともに顔を並べた。以前の“デジ青”にも記したが、鉄道百年の記録映画の撮影のためで、留萌から千キロ以上離れた京都で再会を果たした。▲その翌年、昭和47年3月の渡道でも留萌線に乗り、当時は石狩沼田で接続していた札沼線に乗り、札幌へ向かった。途中、秩父別で、D61 5が補機を務める貨物と交換する。▲▲まだ9600も貨物牽引に活躍。結局、留萌線の蒸機は昭和50年まで、3形式とも使用された。
総本家青信号特派員様
一ノ関のD62、留萌のD61は押さえておきたい機関車でした。特に6両しかなかったD61をよく各所で走行写真を撮られましたね。私は1両でも撮れればいいと思い、列車乗り継ぎの時間を利用して機関支区を訪問しました。D611はどこかに行っていていませんでした。1969.3.17訪問時の写真です。ところではるばる梅小路に出張してきたことは初めて知りました。
準特急様
何度も貼り付けしていただき、ありがとうございます。私はD62は撮れなかった世代だけに、D61はぜひ押さえておきたい願いがあって、一回目の渡道の時も、C62重連の次の目的地として行きました。
梅小路出張の件ですが、つぎのデジ青にも書いています。準特急さんにとっては、東京で忙しくされていた時期だと思います。
https://drfc-ob.com/wp/archives/129178
昭和44年9月6日、築別、Ⅾ514とⅮ613です。
北海道では、私鉄と簡易軌道を最優先で撮影しており、この写真も、羽幌炭鉱鉄道のついで撮影と思います。
藤本さま
異形式の3号と4号の並びとは、たいへん貴重ですね。築別にも、こんな庫があったことも初めて知りました。
総本家青信号特派員様
留萌鉄道の写真を見て、コロナワクチンの後遺症による「カスミ頭」にもピピッと来る物が有り、「一筆」です。
何時ごろか忘れた古い昔に、ピク誌でこの車両の写真を見てインパクトを受けたのを思い出しました。
そうです。正面のど真ん中に直径50(30)cmも有ろうかと思う大型のライトが・・・。
その時は「何の為のライトだろう?飾り?」で、そのままスルーしてしまった様な。
今またイニシエの記憶を呼び起こされているところです。
「台車の動きと連動」などと、これは又こんな時期に高度な技術が?…と感心する事シキリです。