ちょっと変わったD51
北海道で229両(昭和44年)が配置されていたD51ですが、“ナメクジ”のように製造当初からの変形機以外にも、北海道ならではの改造を受けた独自のスタイルや、個体差のあるD51がいました。いままで紹介した、“ナメクジ”なのに標準型になった54号機や、デフの端部が全くRのない、突き刺さりそうな942号機なども紹介しました。それ以外にも北海道ならではの改造を施した機です。
▲北海道と東北の一部に見られた長円形の煙突を持ったD51、「ギースル・エジェクタ」と呼ばれる煙突で、横から見ると逆台形に見える。単機で1200トンの石炭列車を牽く追分区に21両が配置され、旭川、岩見沢にもいて、北海道には最盛期27両が配置されていた。D51 167〔旭〕 旭川 (昭和43年9月)
▲オーストリアの大学教授、アドルフ・ギースルが開発し、その名を採って「ギースル・エジェクタ」と呼ばれる。オーストリアでは多く採用され、イギリス、ドイツ、中国にも実績がある。蒸気の吐き出し面積が大きくなって効率がよく、燃焼効率を高めることができるため、石炭使用量を減らして、牽引力を上げ、火の粉を減らす効果もある。実験でも効果が確認されたと言う。D51 117〔追〕 苫小牧 (昭和47年3月)▲国鉄ではギースル・エジェクタをオーストリアから輸入し、昭和38年3月に長野工場で上諏訪区のD51 349に取り付け、中央本線でテストした。はじめて『鉄道ファン』に紹介されたのは、1963年5月号で、タイトルには「ワルツの国からやって来た煙突」という粋なタイトルと、小淵沢で真横をとらえたD51の写真の背後にあった冠雪した南アルプスとが、見事にマッチしていた。D51 413〔追〕 白老~社台 (昭和43年9月)
▲ D51 349〔追〕 初めてギースル・エジェクタを付けたD51 349、357の2両には、煙突の側面にオリジナル銘板があると言うが、写真からは見ることができない。その後はギースル・エジェクタの製造権を取得した日本のメーカーが製造し、D51形のうち34両に取り付けられた。輸入品も含めて36両が装備し、ナメクジ形以外のD51の標準型、戦時型に取り付けられたが、それ以上は広がらず、また他機には波及しなかった。▲D51にも私鉄買収機が存在した。廃止された国鉄胆振線の大部分は、戦前まで胆振縦貫鉄道という私鉄だった。石炭の搬出が主目的の鉄道で、強力機が求められ、国鉄で量産されていたD51を、昭和16、17年にD51 01~D51 05として導入した。戦時中に国鉄に買収され、国鉄胆振線となり、D51は国鉄に編入されてD51 950~D51 954となった。955以降は欠番となり、つぎのD51の製造番号は1001からはじまっている。なお、北海道の各機に見られる密閉式のキャブも、寒冷地の北海道らしい改造である。D51 954〔旭〕 旭川 (昭和43年9月)
▲今まで何度か紹介した“三ツ目”は、D51だけでなく、本線を走るC57、C62にも装備されていて、初めて訪れた昭和43年には多く見られた。前照灯の左に見えるのは、「予備前灯」で、本来の前照灯のタマが切れた際に、高所での電球取り替えの手間を省くために取り付けた。シールドビームのLP405が多かった。ただ、実際は予備前灯が使われた例はなく、組合に対する安全対策のアピールだったと言われる。ナンバープレートの上の三ツ目は、後部標識灯と同じタイプのもので、とくにヤマ線を走る、長万部、倶知安、小樽築港のD51に多く取り付けられていた印象があるが、目的はよく分かっていない。「予備の予備」という理由だったのだろうか。その後、昭和44年には、“三ツ目”は皆無となっていて、ごく短期間だけ見られた。D51 204〔築〕 上目名 (昭和43年9月)▲これは別に変形機ではない。D51 337〔名〕の牽く貨物列車を見る白い作業衣の人たち、ここは、旭川四条~新旭川の雪印乳業の工場の横、別に貨物列車を見送っているのではない。実はこの30分後に、旭川発上川行きのお召列車が通過するため、奉迎のため整列しているところ。なんせ、旭川以北にお召列車が走るのは久しぶりのことで、北海道百周年、昭和43年9月3日、今から53年前の思い出だった。
ギースルエジェクター
築港で撮ったD51357(追)です。最初はギーゼルエジェクターと覚えましたが今はギースルが正しいのですか?
拡大
米手様
まだデフの切り詰めがされていない時代の写真は貴重です。この煙突の読みですが、大学教授名の「Giesl」から来ています。本欄にも触れた、最初の「鉄道ファン」では「ギーズル」と書かれていました。最新の資料(RML国鉄蒸機の装備とその表情〈上〉など)を確かめると「ギースル」になっていました。
ありがとうございます。
今後「ギースルエジェクター」と呼びます。
ギースルエジェクターを装備したD51は何両か撮っておりますが、米手様の357号機のような貴重なモンはありません。煙突に四角いプレートが見えますが、オリジナルの銘板でしょうか。
元胆振縦貫鉄道の953号機を、宗谷本線和寒で撮ってました。撮影した昭和49年8月には旭川の所属でしたが、岩見沢一区に移動して最後のメンバーに名を連ねたようです。
私も今になって煙突の銘板が気になっています。
たしかに紫さんからご指摘のように、357号機の煙突の横に銘板らしきものがありますね。953号機も、いい角度から撮られています。ギースルの煙突を感じるのは真横がいいのですが、正面から撮っても、丸くなく、角張った煙突であることがよく分かります。
昭和39年3月に中央東線のどこかの駅でD51349を撮っていました。ハーフカメラで、車窓から追い抜きざまの撮影でボケボケですが、鉄道ファンの記事で「ギースル」なる変な煙突のD51が中央線にいることを知っていたので、とっさに写したのでしょう。
西村様
貴重な写真を見せていただきました。ギースルエジェクタに換装直後の写真で、韮崎~富士見で、試験中のものではないでしょうか。記事には、重連で、集煙装置の付いたD51と比較した記されていました。
D51349も撮っていました。最初のギースル実験機を二両とも撮っていたとは今まで知りませんでした。
特派員さん、ありがとうございます。
小樽で入替作業中です。
349号は、前掲のように西村さんが中央東線でも撮られています。そのあとに、北海道へ転属しています。米手さんは、ギースルエジェクタの輸入ものを付けた2両のD51を両方とも撮られていた訳です。西村さんの同機の写真と言い、デジ青が取り持つ縁ですね。
前からの写真ですが、カビが生えているのをお許しください。
ギースルエゼクターは、複数のエゼクターを使い燃焼ガスの量に応じて効率よく燃焼ガスを排出することが出来るので、機関車出力に応じた最適燃焼をさせることが出来るので、ボイラー効率はガルだろうなとは、判りました。よく見かけた黒煙モクモクは、未燃ガスの排出で、もろに低燃焼効率であることを示しています。
只、それだけでは巷間言われていた石炭消費が10%減ったなど、一寸大きすぎると感じていました。
それが最近、「小煙管を塞ぎ、排煙は大煙管だけを通し、大煙管の中には過熱器を置き(増設になります)蒸汽過熱度を上げた」との話を聞きました。過熱温度をあげれば熱効率が上がりますから、そんな所だろうな、と腑に落ちました。
停車中や絶汽運転中の注水など、シリンダーに給汽しないときの過熱器の過熱防止など、工夫の必要なことはあったでしょうが、この石炭消費量低下は、それまで延々前例に習い行われてきた機関車の設計手法とは、一線を画す設計思想だったと思います。
余談ですが、30年以上前にライブスチームの本を書いた方と、「良い燃焼=蒸発を実現するには、煙管は太いほど良い。究極は1本だ。」と意見が一致したことを思い出しました。ライブですから過熱器は付けませんが。
村樫さま
コメントを頂戴していながら、お返事もせずに失礼しました。詳細な解説、ありがとうございます。モクモクの黒煙は、効率の悪い証拠だとは思っていましたが、その周囲の理由も理解できました。