北の“ナメクジ”① 岩見沢区
こちらも連載が開きましたが、北海道の蒸機めぐり、再開します。前回では、いちばん数の多かったD51のなかで、倶知安、長万部のD51を紹介しました。渡道して感じたことのひとつは、D51のなかで、“ナメクジ”の遭遇率が高いように思えたことでした。D51は1115両が製造された製造両数がいちばん多い蒸機ですが、大きく分けて3種類に分別され、一次形の1~85、91~100の95両は、煙突、給水加熱器、砂箱、蒸気ダメをカバーで収めた独特の形で、“ナメクジ”と通称されています。1115両のうち、“ナメクジ”は95両なので、その割合は約9%になります。ためしに昭和44年の車両配置表で調べると、当時の北海道のD51在籍229両のうち、“ナメクジ”は34両あって、その割合は約15%になり、たしかに北海道に“ナメクジが多かったことが分かりました。なかでも岩見沢区(のち岩見沢第一区)には、D51の34両のうち12両と、“ナメクジ”率が飛び抜けて高い区でした。
▲室蘭本線で長大なセキ編成を単機で牽く“ナメクジ”、このカーブを終えると、あとは延々と日本一の直線区間が続くことになる。D51 11 白老~社台(昭和43年9月)
▲上掲の直線区間が終わるあたりで、再び、D51 11をとらえることができた。地平線のあたりに苫小牧の製紙工場が見える。いまは市街地化している苫小牧付近も直線で建設されたことは、いかに敷設当時人家が無かったことが分かる。(昭和47年3月)▲未電化、地上時代の札幌駅に出入りした客車列車も“ナメクジ”が牽いていた。小樽発岩見沢行き43レを牽くD51 13 ネットのデータベースを見ると、昭和47年7月に札幌~岩見沢で夏の臨時急行を、このD5113がで牽いた記録が残っていると言う。にわかに信じられないが、電化後4年が経過していても、まだ電機が足りなかったようだ。(昭和43年9月)
▲小樽発岩見沢行き821レ D51 48 当時の時刻表を見返すと、朝の8時台には、札幌に発着する函館本線の上下の客車列車は10本あって、すべて蒸機牽引でホームを行ったり来たりで大忙しだった。▲白老~社台で一般の貨物列車を牽く。岩見沢区のD51には、“ナメクジ”にも皿型の火の粉止めが付けられていた。D51 15 (昭和43年9月)▲勇払原野を行く石炭列車 D51 59 同機は岩見沢とは縁も無い、長野県辰野の公園に保存されていると言う。(昭和47年3月)
総本家青信号特派員様
ご無沙汰しております。
色々な切り口があるものですねえ。確かに北海道のD51はなめくじが多かった印象があります。私が唯一渡道した昭和49年では道内のD51は109両に減少してましたが、なめくじは12両が生き残ってました。中でも室蘭本線はなめくじの比率が高かったように思います。
撮影を終えて駅に戻ると、なめくじD51の重連がやってきました。カメラを構える同業者が画面に大きく写り込んでしまい、失敗作だと思ってましたが、今になって見直すと当時の雰囲気が思い出されます。
画像が送信できず失礼しました。
紫の1863様
こちらこそご無沙汰しています。これからは、距離が近くなりましたので、お会いする機会もあると思います。同業者が入り込んだ写真は、クルマに邪魔された市電の写真より、はるかに悔しい思いが残りますが、時間が経つと、これも良い記録に見えてきます。私も同業が入った写真を貼りました。以前、デジ青にも発表しましたが、C62重連の発車時の連写の最後のコマにありました。人が入ってなかったら、何でもない写真ですが、人が入ることで、いいアクセントになりました。