ナメクジと言っても、少し前にネットニュースを賑わした餃子チェーン店のナメクジ騒ぎではありませんよ。ご存じのとおり、D51蒸気機関車の一次形、愛称“ナメクジ”のことです。
▲蒸気機関車の代名詞ともいうべきD51は、1936年から9年間で1115両が製造され、単一形式としては最多数となる蒸機だが、初期グループ(1~85、91~100)の95両は、給水温メ器を煙突の後方の缶胴の上に置き、煙突から、砂箱、蒸気溜までを一体のカバーで覆う半流線型で、“ナメクジ”の愛称が古くから定着している(筑豊本線中間付近、昭和44年3月)。
またまた古典ネタで失礼しますが、最近「蒸機」で写真検索を掛けても、上がって来るのは99%が復活蒸機です。C62重連が走っていた線区でさえ、廃止対象になるほどで、現役時代を過ごした高齢者は、いくら声高に叫んでも、多勢に無勢の時代になりました。こんななか、ことし創刊1000号を迎えた「鉄道ピクトリアル」は記念にD51特集が組まれました。もちろんD51498などの動態機も対象にして、若い読者層を取り込む姿勢も伺われますが、私は、過去のピクの蒸機特集号には、一方ならぬ思い出もあり、1000号を迎えての「令和の蒸機特集」を興味深く見ました。
現役時代のD51は凡庸で、イヤほど見られて、とくに熱心に撮影、記録整理にも取り組んだことはありませんでしたが、記念号に写真協力した際に、改めてD51と言う機関車を見直す契機となりました。実にバランスの取れた、完成形をしています。なかでも、この“ナメクジ”、D51のオリジナルタイプであり、ほかにはない唯一無二のスタイルは、標準型とはまた違った、実に穏やかな、いいスタイルではありませんか。D51全1115両のうち、95両と言う希少性ながら、全国に分布し、ナメクジに限っては好んで撮影しました。今回の古典ネタは、この“ナメクジ”にスポットを当ててみました。
(1) 1115両ののトップ機
▲1115両のトップナンバー、1号機との出会いは、昭和43年8月、DRFCの竜ケ森合宿に向かう途中、東北本線の三重連を求めて、夜行列車で上野から沼宮内に着いた時だった。列車が出て行ったあと、補機が待機する側線を見ると、なんと1号機がいるではないか。喜び勇んで、ホームから勝手に飛び降りて、近づいて行ったことを覚えている。前にもう一両がいて、決めの形式写真は撮れなかったが、まずまずの成果が得られて、幸先の良い東北旅行となった。
▲東北本線の電化後、1号機は盛岡区から青森区へ転属、未電化だった奥羽本線青森~秋田で活路を見出す。この時は、弘前区でメンバーとともに、ロッドの下りた、公式側の写真を撮ることができた。この時も、阿仁合線の合宿のあとだった。1号機は、1936年に製造後、敦賀、稲沢、上諏訪、金沢、盛岡、青森と渡り歩いてきた。上諏訪の時代が長く、長野工場でデフのバイパス弁の点検窓が開けられている。前灯予備灯、キャブの旋回窓は東北時代の改造(弘前区、昭和46年8月)。▲架線の張られた奥羽本線の大釈迦付近で貨物を牽く。キャブに人が群がっているのは、テレビの撮影隊が添乗しているため。奥羽本線の電化後は、遠く浜田区へ転属し、1年ほど動いたあと、梅小路蒸気機関車館で動態保存された。当初は、関西本線でイベント列車を牽くことも多かったが、いまは静態保存に。1号機は、実は製造第一号ではないことは、よく言われていることで、これは製造会社別に番号を割り当てて製造したため、川崎車両のD511より、一番早かったのは汽車会社のD5114で、落成順でみれば1号機は8号機当たりになると言う(奥羽本線大釈迦付近、昭和46年9月)。
※横断的なテーマのため、掲載写真は過去投稿と重複するものもあります。
特派員氏の多彩な切り口には本当に感心させられます。
リストを調べると私は3両しかナメクジを撮ってはいませんでした。
見て頂けますか?
D5166 梅小路
米手さま
デジ青の“切り口”ですが、よく準特急さんと話しています。私は、縦で切ったら、横で切る手もある。斜めにでも切れる。写真は限りがありますが、テーマは無限にあると思っています。その分、使いまわしの写真も多くなりますが、それを感じさせないのも、腕の見せどころと思っています。
当時のD51に対する私たちの態度からすればこんなものかも知れません。
「D51や!やめとこ」。C58やEF58にも通じる所でしょう。
D5177 梅小路
「やめとこ」のD51ですが、ナメクジだと分かると、がぜん色めき立ったものです。前記のD5166、今回のD5177、何の改造もなく、美しいですね。この77号など、このあと、デフをもぎ取られて、見るも無残な姿になりました。
これは列車内から撮ったもので、場所は不明です。
D5178
このD5178も吹田一区の所属ですね。もっぱら吹田操車場で貨車を押し上げて、ハンプを上下していました。
総本家青信号特派員様
またお前か!引っ込め!と言われそうですが、総本家さんがD511を最初に見た「ぬまくない」はいい響きを持つ駅名です。アイヌ語だそうです。当時は一戸機関区の支区で十三本木峠越えに備えて補機の連結、解結を行い優等列車が停車する重要な駅でした。勿論駅弁ありでした。私自身は蒸機時代は夜行列車で通過しており全く知らない駅ですが、新幹線ができていわて沼宮内になってからは岩手富士や姫神山の撮影、それに雑誌「レイル」の関連で3重連で有名な御堂-奥中山を歩き通すためこの駅を利用しました。いわて沼宮内は降りてみるとよくわかりますが、人の気配がなく新幹線の駅では最も乗降客が少ないことで有名でした。北海道新幹線ができてからは汚名返上したそうです。添付写真は今年(2022年)4月18日のいわて沼宮内駅です。後追いですがいわて銀河鉄道4529M八戸行き7000-103です。
いえいえ、いつも即コメ、ありがとうございます。「駅弁は“うまくない”」などと茶化していた沼宮内ですが、いかにも「東北」と言う響きを持った駅名です。盛岡を出て、厨川、滝沢、渋民、好摩、沼宮内と、旅情を感じる駅名が続きました。いまの「いわて沼宮内」、新幹線のなかで最小の乗降数と聞いたことがあります。当時から蒸機の出入りでは賑わっていましたが、沿線人口は極めて少なかったと思います。
総本家青信号特派員様
本題のナメクジに移ります。
ナメクジから一般のD51に設計変更された経緯はよくわかりませんが、外観だけ見ますと別形式にしてもよかったかなと思います。以前デジ青で述べたことですが、このナメクジは給水温め器が正面には見えないこと、ボイラ端面が角張っておらず旅客用蒸機に近い顔をしていることから東北本線や奥羽本線で正面がちに撮影しているとC61がきたと間違えたものです。ナメクジはこの後に皆さんからいくらでも出てくる(?)でしょうから1965.9.3一ノ関区で撮ったファーストナンバーD511の運転室付近を出してみます。
準特急さま
昭和40年にすでに1号機を撮られていましたか。さすがです。ナメクジから標準型への設計変更ですが、くだんのピク1001号を見ても書いていません。ただ、ナメクジは第一動輪の軸重が軽く空転しやすいと書いてありました。少しでもバランスを良くするため、給水温メ器を前方の煙突後部に移設したのかも知れません。
多勢に無勢かもしれませんが、私も及ばずながら加勢いたします。
D51 1に出会えたのは、梅小路入りを目前に控えた昭和47年の8月も終わりの頃でした。鉄道100周年の年で、たくさんのイベント列車が運転されましたが、山陰本線の「SL四重連」はSLブームに沸いた最大のイベントでした。沿線には3万人とも5万人ともいわれる人出を集め、それはもう大変な騒ぎでした。D51 1が先頭に立ち、たくさんのファンがカメラを構える中、安来駅を発車してゆきました。
あの日からもうすぐ50年、SL少年は年金生活者になりました。
紫の1863さま
はい、どんどん加勢お願いします。
いゃ、山陰本線の四重連を撮っておられましたか。どんな形式でしたかね。三重連の上を行く四重連として話題になりましたね。そのあと、関西線でもD511のイベント列車が運転されましたが、ついに一度も写さずでした。
浜田―米子間を往復しましたが、浜田―出雲市間は三重連でした。D51 1+C56 108+C57 101の異形式三重連です。出雲市―米子間はD51 620が4両めに連結され、四重連となりました。
紫の1863様、総本家青信号特派員様
1972.8.27出雲市-直江間の4重連です。当時九州に赴任されていた鉄鈍人さんと合流して撮りました。
鉄鈍人さんは鉄鈍爺さんの間違いです。訂正してお詫び申し上げます。