あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~17~

近畿地方では梅雨も明けて、暑い毎日が続いていますね。もう夏バテなのか、“デジ青”では眼に見えて投稿が少なくなりました。私も、北九州ツアー、上映会テーマと、会行事関連の投稿もやっと終わりました。本来の自分勝手なテーマに戻って、デジ青を盛り上げたいと思いますが、高齢者は新規テーマにはなかなか出会いません。こうなったら、例によって、ストック写真の蔵出しでもと、2006年から一眼デジを使い始め、2010年ごろまでの4年間、ちょっと昔の懐かしシーンを載せていきます。今から十数年前、待望の万年日曜日を謳歌していた時代、今よりウンと行動的だったことが改めて分かりました。

 2009年6月23日 長野電鉄へ

昨日、ネットニュースを見ていますと、長野電鉄1000系「ゆけむり」を使ったビアトレイン運転がありました。これはエエですね。ロマンスシートを四人掛けにして、前には長テーブルもあって、ビール、弁当を置いて、長野~小布施を往復したとありました。来週の当会ビア電も楽しみになって来ました。その1000系が、小田急電鉄から長野電鉄に入った頃、引き換えにまもなく消える特急2000系を求めて、梅雨の晴れ間を縫って長野電鉄へ行きました。

丸一日たっぷり写すため、夜行バスに乗って長野入り。まず、道路・鉄道共用の村山橋へ。架け替えのため、道路部は仮橋に移設され、まもなく鉄道部も移設される直前だった。

途中の無人駅から乗った普通に、早くも特急用の2000系が入っていた。車内は転換クロス、白いビニールシートが眼にまぶしい。撮影地として知られている「夜間瀬」に到着、すぐのカーブを、折り返しの2000系D編成、通称「りんご電車」が行く。夜間瀬~信濃竹原の夜間瀬川橋梁を行く、1000系「ゆけむり」。連接構造の小田急10000形HSEを短縮して4車体5台車にして、2編成が長野電鉄に来た。同鉄橋を渡る。次第に晴れてきて高社山も見えてくる。特急用の2000系は、2扉クロスシート3両編成が4編成造られ、A~D編成と呼ばれた。撮影時には、A、D編成のみ残り、このA編成は、製造当時のマルーンに白帯の塗装に復刻されていた。鉄橋で撮影してから、対岸の「信濃竹原」へ行く。“マッコウクジラ”こと3500系、もと営団日比谷線3000系に乗って、つぎの撮影地へ。

「朝陽」で下車、少し歩くと、ポプラ並木バックの地点に着く。東急から来たばかりの8500系。▲▲有人駅の朝陽駅。昔ながらの雰囲気を残す。 田植えが終わって、水鏡のなか、1000系「ゆけむり」が行く。特急は「ゆけむり」のA特急、2000系のB特急にランク分けされていたが、当日は、ラッキーなことに、「ゆけむり」一編成が検査中で、昼間のA特急を2000系が代走していた。そのため、しばしば2000系に出会うこととなった。全部で37両も導入され、一時期の長野電鉄の主力となった3500系。2002年の木島線の廃止で余剰が生じ、ことし最後の編成が引退した。地方私鉄のロマンスカーとして、出色のスタイル、塗装だった2000系のA編成も、翌々年の2011年に廃車された。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~17~」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    2009年11月29日に湯田中10:10発の「ゆけむり号」の最後尾から見た新村山橋の写真です。左側の旧村山橋から2009年11月9日に切り替わりました。

  2. 総本家青信号特派員様
    錦町駅(地下化により緑町駅を統合して市役所前駅に改称)を通過する2000系B編成です。1965.8.19

    • 快速つくばね様
      新村山橋ともども、写真を見せていただき、ありがとうございます。地上時代の長野市内線の2000系の原色も、たいへん貴重です。2000系は、やっぱりこのカラーです。チラリと見える車内の白いカバーも、よく似合っています。丸いヘッドマークも湘南スタイルに映えています。

  3. 青信号特派員様
    長野電鉄2000系は名鉄最初の高性能車5000系と似た丸みを帯びた車両で最も好きなタイプの電車でした。世の中ギスギスし過ぎています。ステンレスやアルミの4扉車ばかりで省エネ、高性能になったでしょうがもっと柔らかい顔が欲しいです。昭和47(1972)年9月11日金山橋駅の特急蒲郡行き5003・5053・5054・5004です。

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