あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~8~

関西本線沿いの私鉄 近鉄内部・八王子線

関西本線絡みで、四日市を走っていたナローの軽便電車、近鉄内部・八王子線(現・四日市あすなろう鉄道)を初めて訪ねた時の記録です。この時は、近鉄ファンのTさんに連れられて行ったと思います。現在の車両とは全く異なる、近鉄電車と同じマルーン色に塗られた、好ましいスタイルの小型電車がMT編成で走っていました。四日市市の西部、日永・室山地区の生糸、酒を運ぶため、明治45年、三重軌道によって762mmで開通した。最初は蒸気運転で、のちに電化した。社名は三重鉄道、三重交通、三重電鉄と変わり、昭和40年、近鉄の傘下となった。路線は内部線(近鉄四日市~日永~内部5.8km)、八王子線(日永~伊勢八王子2.9km)、当時は内部行き、八王子行きが各20分ヘッドの頻発運転だった。写真は、八王子線の室山~伊勢八王子、天白川に沿って走る、214+162+132のMTT編成、訪問の3ヵ月後の昭和49年7月、集中豪雨で川が氾濫し、路線は寸断され、八王子線全体が不通となった。昭和51年に日永~西日野のひと駅が開通するが、残る西日野~伊勢八王子は復旧することなく廃止となり、四日市あすなろう鉄道になっても、八王子線はひと駅だけの電車が走っている(以下、昭和48年4月)。

いっぽうの内部線の終点、内部で発車を待つ、四日市行き。M車は200番台、T車は100番台の車両番号を持つ。M車は戦前に造られた車長11m余り、車幅2.1mの好ましいスタイル、T車は運転台も無い、文字どおりのT車で、そのため、終端に着くと、いちいち機回し作業を行っていた。左のように増結のT車が留置されていた。

 

内部には車庫があり、日中は多くの電車が留め置かれていた。新緑を渡る風もさわやかな日だった。231+211前記のように、内部に到着した電車は、M車のみ切り離されて機回しを行う。軽便鉄道では、蒸機運転時代の名残りとして、機回しを行うことが多いが、電車での機回しは珍しいことだった。機回しを終えて、ホームに据え付けられた、241+132の編成。5月5日も近く、青空にこいのぼりが。

日永~赤堀の小さな鉄橋を行く、241ほかの編成。▲▲同区間で229ほかの編成、229の称号は「モニ」であり、荷物扉も有している。酒造工場の前を行く、八王子線の214+162+132のMTT編成、ラッシュ時には、MTTT編成もあったと言う。この区間が3ヵ月後に豪雨被害に見舞われるとは予想もしなかったこと。

今は無き伊勢八王子に到着した228ほかの編成、M車だけ切り離されて、終端部へ、機回しを行う。

内部線、八王子線を分岐する日永駅。構内の情景は50年後の今も変わっていない。▲▲小さな車体に大きなパンタ、しかも四日市行きは前パンで、いっそう内部・八王子線の魅力が増していた。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~8~」への5件のフィードバック

  1. 内部、八王子線を最初に訪れたのは1971年2月の飯山線鹿渡合宿に参加する前でした。この合宿の珍騒動はデジ青投稿の「珍説飯山雪合戦騒動 上境合戦の段」に書いてあります。内部、八王子線は1973年11月の桑名で合宿をしています。このときに八王子線の終点「伊勢八王子」の駅を撮っています。その写真を載せておきます。終点にある亀山製糸の室山工場は立派な建物です。今はどうなっているかとグーグルマップで見てみると建物は残っていました。HPを見ると、会社も存続していて最先端のナノファイバーなどを製造している企業に成長しているようです。2012年12月に再び訪れています。その時のことはデジ青投稿「終い撮り鉄 近鉄内部八王子線の巻」に書きました。見忘れたところがあるので、また、行ってみたいと思っています。

    • どですかでん様
      改めて「終い撮り鉄 近鉄内部八王子線の巻」を読ませてもらいました。記念の一日フリー切符で、どですかでんさんらしい街巡りをされたとのこと、内部・八王子線の沿線は、一見すると四日市市内の殺伐とした街並みのような印象ですが、旧東海道に沿って、古くからの街や産業が、今も見られる地域ですね。私もその後に洋風建築を訪ねて行ったものです。八王子の駅舎は、こんな感じでしたね。私は写してなくて、この写真を見て、初めて訪れた頃を思い出しました。

  2. 総本家青信号特派員様
    2013.5.11の10年前の近鉄最終期の日永駅です。この時から40年前の昭和48年4月と比較しても、変化のあったのは架線柱とベンチだけでホーム上屋はそのまま利用されています。

    • 快速つくばね様
      日永駅の写真、ありがとうございます。その後、私も何度か撮影に行っていますが、いちばん印象的だったのが、クローバー会メンバーと一緒に出掛けた時でした。小雨のなか、登園する園児一団が電車の前を横切りました。INUBUSEさんが実にいいタイミングで撮られて、クローバー会の写真展に出展されています。私はタイミングが合わず、地団駄を踏んだものでした。

  3. 平成元年に訪問しています。今から34年昔。
    今回記事中、張り上げ屋根、おでこつるつるのトレーラのみ中間車で生き残っていました。
    モニ220が”機回し”していた時代って、戦前の電化以前の運転スタイルの遵守で、他の近鉄に合流した私鉄線のような「右にならえ」に成らずに済んだのは軽便規格ゆえの特殊線で、本社上部組織もそこの制度設計をゼロベースで変えてしまう余裕がなかったのでしょう。
    1978年の連結器変更、82年の片運モ、クの登場でやっと普通の電車スタイルになったのだと思います。

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