乙訓の長老・沖中忠順さまが、昨日8日に84歳で逝去されました。1957年度生で曙期の鉄道同好会で活躍されDRFCの基礎を築かれたお一人です。祇園石段下での同志社チアーをはじめ色々な会合で一緒にチアーを叫ばれた方は沢山おられるでしょう。画像は1969年1月26日大阪駅4番ホーム急行丹波3号豊岡行きキロ28の前でチアーを送られる在りし日の沖中さんのお姿です。DRFCには心から愛着を持たれ、幾多の後輩を育てていただきました。
ご冥福をお祈りいたします。
画像は掲示板2017.1.26の記事を再掲したものです。
突然の訃報に驚きました。
時代こそ違えどDRFCの発展に尽くした者として、後に我々の居場所となるDRFCの基礎を創っていただいた沖中さまの、DRFCへの尽力、貢献に心から感謝と尊敬をしています。
長い間本当にありがとうございました。
今はまずゆっくりとお休みになってください。
心より沖中さまのご冥福をお祈り申し上げます。
突然の訃報、驚きました。
入学間もない頃から優しくご指導いただいたこと、昨日のように覚えております。
DRFCの礎を築かれ、それをずっと後世に伝えておられ、私自身も、冲中さんから語られるその浅からぬ歴史と武勇伝に胸を踊らせ、同好会で楽しく活動させていただきました。
王将がお好きで、ご一緒させていただいた時も楽しそうに色んなことをお話してくださいました。
もう一度お会いしたかったです。
先輩、ありがとうございました。
御冥福をお祈りいたします。
突然の訃報、驚きました。
先輩は我々が現役生の時は趣味誌上で度々名前がでてくる凄い方だという印象でしかありませんでしたが、後年OB会などでその伝説な人とお目にかかって親しく昔の色々なお話をうかがう機会をもち、「これ君に託すは」と貴重な資料もお預けいただく場面もいただき、私の今の鉄道趣味生活へと続くこととなったことにはお礼の言葉しかありません。
ご冥福をお祈りするとともに、先輩の電車への想いをささやかでも引き継いで次世代へ繋いでいきたいと思っております。ありがとうございます。
当初は近寄りがたいOB会でしたが、そのイメージを払拭できたのは、沖中さんのお陰です。現役生の我々に気さくに話しかけてくださり、また、DRFCの未来を思い、温かいご支援を頂戴いたしました。京都の王将や本町の喫茶店ではご馳走になったのも良い思い出です。上のコメントの「nyororoizayoiさん」、「MASABAYASHIさん」、「ぴおちゃんさん」、皆、当時の現役生であり、沖中さんのお人柄が現役生から親しまれていたことを再認識しました。
DRFCという居心地の良い場所を創ってくださり、誠にありがとうございました。DRFCが無い人生は今では考えられません。
DRFCは来年、創立65周年を迎えます。OB会役員の一人として、何か記念行事を開催できればと考えております。沖中さん、ぜひ参加してくださいよ。お待ちしております。
ご冥福をお祈り申し上げます。
沖中大先輩の訃報にびっくりしています。まさかこんなに早く亡くなられるとは・・・嗚呼
いつも優しい笑顔と独特の語り口で接して頂くお姿が目に浮かびます。
「乙訓の老人」名でのご投稿も懐かしい限りです。
まさにクローバー会の巨星墜つですね。
心よりご冥福をお祈りいたします。
「乙訓の老人の甥」こと沖中重明でございます。
葬儀は10日、三条大宮の妙泉寺にて執り行われました。
皆さんご承知の通り、まさに電車とともにある人生でした。またその電車趣味の礎がDRFCであることは言うまでもありません。
きっと大好きな京阪電車に乗って旅立ったのでしょう。
DRFCのみなさんより頂いた生前のご厚情には、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
ご報告致します。
昨日のご葬儀に参加いたしました。
家族葬とのことでしたが、ご無理をお願いしてお許し頂き、会員を代表してお送りさせて頂きました。
沖中さんのお話によく出てきた明泉寺で、ご住職はじめ庫裏の皆様と家族のようなお付き合いをされてきたのが分かる明るいお葬式でした。楽しいことが大好きな沖中さんにふさわしく、ご住職が「大好きなビールを飲ませてあげましょう」と缶ビールの栓を開けてお孫さんが口に含ませてあげていました。背広を着て、ネクタイを締めた身体の上には「京阪電車」の本が抱かれていました。
出棺の際に、ご長男が「子供の時の工作に父と一緒に電車を造った」思い出と、「今日(6月10日)が路面電車の日なのも父らしい」と話されたのには胸が詰まりました。
この欄にコメントを下さっている「乙訓の老人の甥」様にも初めてお目に掛かり、積年のお礼を申し上げ、今後のご協力をお願いできたのも沖中さんのご縁と感謝しております。出棺の折に家族の皆様と共に棺を霊柩車まで担がせて頂いたのはありがたいことと感謝致しております。
最後に会員の皆様へご子息からのご伝言です。
「父にとって一番大切なお付き合いはDRFCの皆様との交流でした。永らくありがとうございました。しばらくは自宅に祭壇を設けますのでお参り下さる方はお越し下さい」
沖中先輩、永らくありがとうございました。まもなくそちらへ行きますので座席指定券を取って待っててください。
心残りは、お預かりしている写真の整理がまだ済んでいないことです。整理ができたらデジ青に載せて、みんなで大騒ぎをしますので見ていて下さい。
それでは出発進行!
路面電車同好会等でおつきあいさせて頂きました。丁度30年前の92年に初めてお目にかかり、丁度台風が接近していることもあり九州に帰るのをどうしようか悩んでいた、学生の私に「行けるとこまで行って、あとは駅で寝たらええやん!」と有難いアドバイスを頂きました。その翌年から大阪在勤となり、よく一献を傾けるようになり、そのことを蒸し返すと、「そんなこと言うたかいな、えらいすんまへん、ははは」と至極楽しそうにおっしゃっていたのを覚えております。
3年半の大阪勤務からドイツに勤務になった時も、送別会を開いていただいたり、銀河で出発する私を、大阪駅まで会員数人で見送りに来ていただき、万歳三唱で送り出して頂いたり、思い出は尽きぬものがあります。帰国してからは東京勤務となり、沖中さんが東京に来られた時にお声がけいただき一献傾けたものでした。
こちらの掲示板でも、「海外の路面電車の解説頼まれてるけど、よう知らんから代わりに解説しといて」とメールをいただき、何回かコメント欄に投稿させていただきました。
30年にわたり、30歳の歳の差も気にしない付き合いをさせていただき、非常に感謝しております。本来はお別れさせていただきたい気持ちですが、このご時世ゆえ、東の国から手を合わさせていただきます。
ありがとうございました。
自宅が近いこともあってよくお邪魔させていただきました。お体の調子が悪いとお伺いしましたので顔を見に行こうかと思っておりましたらこちらの具合が悪くなって行けずになってしまいました。
沖中さんとは2011年5月に訪問した新緑の四国へがご同行させていただいたのが最後の旅になってしまいました。ぶんしゅう7号での車中泊が続きましたが、魚梁瀬森林鉄道跡や別子鉱山鉄道跡を辿ったり琴電の旧型電車を追いかけたりしましたね。善通寺ではお姉さんのご自宅にも宿泊させていただきました。その後お姉さんは急に逝去され、よくあの時に連れて行ってくれたと感謝されたのもよく覚えています。
「神足会」が結成されてよく飲み会を開催しましたね。喧嘩しながら飲んだのもよく覚えています。もう一緒に飲めなくなったのが残念です。
私も体調悪し日が多くなったのでそちらで一緒に飲める日が近いと思いますので待っていてください。美味しい地酒を持って参らせていただきます。
ご逝去の報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。
現役時代のEVEの打ち上げや30周年記念列車乗車の際にお会いいたしてはおりましたが、畏れ多くてお話させていただく機会はありませんでした。従って私のことなどご存じないと思っておりましたが、30年ほど前でしょうか、レイルロード社「国鉄DF50」出版にあたり同社のT氏より連絡があり、聞けば沖中先輩からのご紹介とのことでした。「青信号」の記事を気に留めていただいていたようで、本当にありがたいお話でした。同誌は、沖中先輩が当会の他の先輩諸氏の写真も手配されたこともあり、数多くの写真が集まり4分冊となりました。私も、写真や記事を掲載していただき、よき思い出となっております。ディテールの細分化された鉄道模型の販売や、月刊誌の特集記事では参考文献として引用されるなど、同誌の影響力は甚大で、同社のT氏はもとより、沖中先輩のネットワーク力の賜物と思っております。この場をお借りして、お礼申し上げます。