関さんのシリーズもかなりマニアックになってきて、浅学非才の私にはついて行けなくなりました。
お恥ずかしい限りですが、そもそも淡路島に電車が走っていたことを知ったのは大学を卒業してからはるか後のことでした。
京都へ淡路交通という観光バスが走っていたのをよく見かけましたが、あれが私鉄のバスだったとは気がつかなかったのです。
今回の記事はぜひとも「その筋」の方に詳しく説明をお願いしなければなりません。当該車両だけではなく、鉄道の生い立ちまで教えて下さい。
お願いします!地元“須磨の大人”、脳内の血管を複線電化したい“乙訓の長老”、永遠の電車小僧・藤本先生!
お受けいたします。まず須磨の爺やに非電化時代について語っていただきましょう。次いで電化後で乙訓が出番となるのですが、2人一緒に訪れた事あります。
その日は1960年11月2日であったと記録されています。なお、うまくアップできませんので、正月明けにコロナ写真展に写真を持ち込みますのでよろしくお願いします。正月明けは複線化工事以外に「新春賀詞交歓会」の準備に没頭いたしますので、乙訓の乙女を前補機に転用できません。その点、ご協力お願いします。
「永遠の電車小僧」には恐れ入りました。すっかり「電車おじさん」になっております。
淡路交通は、昭和40年6月20日、京阪沿線の高校時代に1度だけ訪れました。その時の塗装は、関さんシリーズの「マルーンとクリームのツートン」から「薄いブルーとクリームのツートン」に変わっていました。淡路島へは神戸の中突堤から洲本まで旅客船で往復しましたが片道2時間位かかったように思います。途中の駅で一旦下車して撮影後、福良まで往復し、宇山の車庫で職員の方とかなりの時間話し込んでいました。廃止の話が出た時もうちょっと真面目に沿線で撮影しておけばよかったと思いました。表題の元南海の木製車は3扉のモハ1003が健在でした。廃止後殆どの車両は解体されましたが、2両だけ海を渡り、水間鉄道に引取られました。
鉄道廃止後はバス専業になりましたが、使用年数が他社に比べると短いのが特徴です。廃車になったバスは他社に売却されることが多く、関東でも東野交通、越後湯沢のホテル等で見かけました。東野交通で聞いた話では「見てくれが良いので買ったが、塩害で車体はボロボロ」と言うことでした。(淡路交通のバスは窓がブロンズガラスのため直ぐにわかります)
須磨の大老に引続き、乙訓の長老からのご報告を楽しみにしております。