3月7日朝6時すぎ、阪急電鉄の十三駅神戸線側の駅前で火災が発生した。36店1500平方米が焼失し、NHK夜の全国ニュースでトップで放送された。添付の古地図の神戸行きプラットホームと夜店通りの間にある安西呉服のあたりが焼け落ちた。夜店通りはションベン横丁と言われたとこで、火事の一報もトイレから火が出てるとのことで皮肉なものだ。十三は阪急電車の扇の要をなす駅で、大騒ぎとなり朝のラッシュと重なるも駅西口は閉鎖となりごったがえした。煙が吹き付けるなか列車の運行は続けられたが、一時は神戸線の列車は通過となった。一角は大阪でも残り少ない戦後の香りが残る飲み屋街である。十三で飲んだ方も多いだろうが、十三のねぇちゃんや十三ミュージックを思い出す方もおられるはず。十三駅は1963年発行の同志社大学鉄道同会の機関誌「青信号」の13号の表紙を飾ろうとしたが、駅はあかんと京阪電車石坂線13号にとって代わったという思い出がある。通信員二回生のときで手を取り足を取りお金は取られなかったが、先輩方々に機関誌づくりを強要されたものである。
古地図は今里あんやきと記される十三焼餅の案内にあったもので、いつの頃の地図か解らないが1921年大正10年に北大阪電鉄として十三~千里山で開通した北大阪電鉄の終点だったことは解る。その後1959年昭和34年に線路は梅田まで延ばされ、楽しい三複線となっている。
焼けたらアカンで!!
十三は、阪急神戸線に半世紀近く棲息する小生にとって、普段は通過駅なのだが、かけがえのない乗り換え駅である。
DRFCの集まり、会合、神足会、やれなんやら会とDRFC大体の会合が京都方面であり、往はともかく、復には必ず利用し、神戸線ホームのトイレ手前が定例乗車位置である。ここのま裏が焼けたのである。最初火事と聞いた時は、東口を想像したが実際は西口だった。乙訓の老人とをはじめ、最近よく飲んだのは東口、災難は西口だったが、いずれにしても火事はアカン。
阪急沿線は火事が多い。塚口なんどはこの10年ほどで3回も。その都度神戸線、伊丹線の線路越しに放水する始末。神崎川駅近くの豊中市の市場も燃えた。この他、地元尼崎では、市場、市場が皆燃えてしまい更地になる。みんな灰になり、燃えカスになり、残っても水浸しになる。
火事は悲惨だ。地震災害より悲惨かもしれない。
我が家も気をつけねば。石油ストーブ、仏壇のローソク、線香。マンションだから自分だけではない。そうだ!フィルムスキャンデータ、CD/DVDのデータは、オンラインステージに保管だ!
それに、まだデジタル化していない物は(奥山さんの機関区めぐりも)急いでデジタル化と保管所移転だ!
燃えたションベン横丁へは、私も乙訓老人に連れて行ってもらった記憶があります。tsurukameさんも書かれていますが、阪急沿線は火事が多いようですね。十三でも、数年前でしたが、7日の火事現場より少し南側、神戸線の定期売り場の裏側の飲食店で火事があり、たまたま居合わせたことがありました。まだ、消防車が来る前で、ボーボーと火柱が上がっていましたが、7日と同じく電車は平然と通過していました。
7日の火事は、神戸線ホームでは、乗客がいて、電車が発着する、ごく日常の光景の数メートル先で大火事が起こっている摩訶不思議な光景がテレビで映し出されていました。同じように有楽町の新幹線横の火事では、まる一日新幹線が混乱したのとは、エライ違いでした。
そう言えば、これも数年前ですが、朝の通勤時、茨木市~南茨木の線路際の民家で火事があり、乗っていた電車は、ちょっと徐行しただけで、モウモウと煙が立ち込めるなかを、突っ走って行ったのには驚いたことがありました。
朝のニュースで火災を知りビックリ!されど、阪急は平常通り運転しているとのこと。
あー、あの「ションベン横丁」がなくなってしまうのかという思いで、今津線の準急に乗車、さすがに十三入駅に時間がかかり、やっと駅に着いたと思ったら、ホームは煙で大変、「この電車は回送にします、運転打ち切り、早く降りてください」煙の中を京都線に乗り換え、何とか出勤、淀川橋梁や中津手前には客扱いの列車が止まっていました。15分程度の遅れで出勤できたことは良かったのですが、9時頃神戸線は一時的に運休せざるを得ませんでした。煙のにおいと喉のいがらっぽさはしばらく続きました。
ラッシュ時に運転できたのは、風向きの加減もあったのでしょう、それに信号ケーブルが地下に埋設されていたので信号に影響されなかったことが、信号ケーブルが火災で損傷した新幹線有楽町火災との違いだということを耳にしましたので、お伝えします。