北の大地への旅 2024年秋 Part6 紅葉絶景の十勝岳温泉

『 まさに絶景!』 日本で最初に見ることができる十勝岳温泉凌雲閣の露天風呂からの紅葉の絶景に大感激です。
天候に恵まれない今回の旅でしたが最後の最後で雲一つない快晴の中、紅葉の絶景を見せてくれました。 続きを読む

北の大地への旅 2024年秋 Part5 道東の撮影地へ向かう④

第4日目 9月29日

今日で3日間ご一緒した準特急先輩、車を運転して各撮影地へと案内していただいたクモハ73106東ウラさん、NETさんとのツアーは完了です。クモハ73106さんとNETさんは夕刻のJAL便で東京に戻られますが、準特急さんは席が取れなかったそうで帯広泊まりで明日の飛行機で戻られます。一方の私は一昨年12月に宿泊予約しておりました上富良野の十勝岳温泉凌雲閣行きが東鹿越行きの代行バスの運休、切り替えて函館本線旭川経由で行こうとしたところこのルートは、豊沼駅構内で除雪車と特急電車との衝突事故があって函館本線が運休となり行けなくなりました。一度は日本で最初に紅葉が見える十勝岳温泉には行ってみたいと今回は前回のリベンジを兼ねて今宵は準特急さんと同じく帯広泊まり、明日向かうことにしました。

2日間は天候に恵まれずでしたが最終日は朝から快晴です。町内にある「留辺蘂町仲よし公園」に保存展示してあるD51311号機を視察に向かいました。
① 北見ビアゾンホテル 6:00(約4㌔)⇒6:14 留辺蘂町仲よし公園
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クローバー祭のお知らせ

ご無沙汰いたしております。現役生代表です。

来月2日 (土)と3日 (日)に京田辺校地にて、クローバー祭が開催され、当会も出店いたします。教室は知真館1号館の121教室 (TC1-121)です。2日が12:30~17:30、3日が9:00~15:30です。

今年は、昨年も展示した京田辺レイアウトに加え、写真展示も行います。また、体験運転や塗り絵、クイズ、そして『青信号』78号 (下に表紙写真を載せております)の販売もする予定です。ぜひお越しください。

広島通信(その4)

9月18日 西高屋、向洋と途中下車しながら広島に到着です。この日の目的は広電の新線工事の様子や1900型の活躍を確かめることでした。実は、残念なことに広電の広島新駅ビルへの乗り入れは当初予定より遅れることが発表されました。

令和6年9月30日 中国新聞朝刊

同上

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北の大地への旅 2024年秋 Part4 道東の撮影地へ向かう③

第3日目 9月28日 後編

厚岸駅で昼食の名物駅弁「かきめし弁当を受け取り次の撮影地、別寒辺牛湿原を見渡せる高台を目指しました。

⑤ 厚岸駅 13:00(約 7㌔)⇒13:23 別寒辺牛湿原▲ 14:08 長い間開発の手が入らなかったため日本で有数の自然が残されたラムサール条約の登録湿地「別寒辺牛湿原」の中を横切るように走ってきます「ひとめぐり号」です。根室で折り返してきました。あいにくと天候が優れず小雨が降ってくる中でしたが隊長さんの案内で高台への山道を上りました。
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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈10〉

ホームにて① 入線列車を撮る

改札口を入ってホームで列車を待つ。やがて乗車する列車が向こうから姿を現わす。ホーム入線の瞬間を、乗客の好奇の眼も気にせず撮る。鉄道ファンと言う人種の生まれながらの習性でしょうか。65年前に初めて撮った鉄道写真も、ホームに入線する列車でした。今でも機会があると撮ります。ただホームですから、列車だけ撮ることができず、乗客にジャマされます。なら、ジャマする人間も一緒に入れて撮ってしまえが、私の撮影スタイルでした。その方が、人の服装などで、時代だけでなく、地域性、季節感を表現できるのではないかと思っています。近頃は、肖像権とやらで、なかなか大手を振って撮影ができないだけに、大らかな昭和の時代がなおさら懐かしくなります。「水のきれいな日本海へ」に誘われて、夏休みともなれば、綾部駅ホームは大賑わい。京都方面から乗って来た子供たちは、D51の牽く西舞鶴行きに乗り換える。これからの水遊びを楽しみに嬉々として列車に乗り込んだ。遠い日の夏休みの思い出だ(綾部、昭和45年)。

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北の大地への旅 2024年秋 Part3 道東の撮影地へ向かう②

第3日目 9月28日 前編

昨夜宿泊したのは東横INN釧路十字街、朝食は提供されますので6時には起きて朝食会場へ向かいます。
メニューはご覧の通り、普段の東横インに比べると品数は多い方でした。
食後はすぐに近くの公園に保存されていますC58106を見に行きます。

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広島通信(その3)

(その1)(その2)を投稿してから2週間が経ってしまいましたが、以下の取材日も同じ9月18日です。西高屋駅でレンガ積みホームを確認後、向洋(むかいなだ)へ移動しました。向洋駅をはさんで海田市・天神川間は大規模な高架工事中で、特に向洋駅はすでに上り線側は仮線路と仮駅ホームが完成していて稼働しています。これから下り線側の移設工事が始まるのですが、広島貨物ターミナル駅につながる上下貨物線もあり、大工事です。そんな中、向洋駅で長く使われてきた跨線橋が解体中です。今回はこの跨線橋の構造部材となっている古レールを観察するのが目的で途中下車しました。まずは平成24年10月8日 まだEF67が活躍していた時の跨線橋です。

平成24年10月8日 下り貨物線を行くEF67102 単回

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北の大地への旅 2024年秋 Part2 道東の撮影地へ向かう①

第2日目 9月27日

6:00 朝風呂はモール温泉に再度入浴して目を覚まします。加えてこれも好評の朝食が待っています。
レベルとしてはドーミーインとスーパーホテルの中間ぐらいです。
このホテルでは、当日に和食・洋食・中華粥・コンチネンタルの4種類から選ぶことができテーブルまで提供されます。私は和食を選びましたのでご覧のとおりです。
高齢者には丁度良い十二分な量です。美味しくいただきました。
1,600円を支払えば当日の申込みも可能です。

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北の大地への旅 2024年秋  Part1 旅立ち

今年の京都の夏は今迄でも最も暑い毎日が続きました。76歳を迎える高齢者にとっては日増しにこたえてきますのでクーラーの効いた自宅から出るのはスーパーへのビール買い出し程度で珍しく青春18きっぷも購入せずで終わりました。
秋になれば旅に出たいと思っていましたらいつも台湾へご一緒させていただくクモハ73106東ウラさんが先輩の準特急さんを同行されて北海道に行くとの情報が入りましたので是非に同行させていただきたいとお願いしました。同伴者はもう一人、昨年に準会員になられたNETさんを含めての4人での同行旅です。NETさんとは2017年夏のサハリン訪問以来の旅になります。

第1日目 9月26日

① 長岡天神 8:24⇒8:56 十三 9:01⇒9:19 蛍池 9:26⇒9:29 大阪空港
② 伊丹空港 11:35(JAL2005)⇒13:30 新千歳空港
③ 新千歳空港14:30(とかちミルキーライナー)⇒17:10 帯広駅前

【 北海道へは無料のJALマイレージポイント利用 】
東京からお越しの3人方とは帯広での合流です。伊丹から直接に参りたいのですが直行便はありません。羽田で乗換もありますが当日は早朝便で皆さんは来られますのでこれもなく、乗って行きたい鉄道で行くなら約13時間余りの所要時間が必要です。時間は暇ですので問題ありませんが、運賃は 41,570円と飛行機の正規運賃よりは安いものの格安航空券と比較しますと高いものになってしまいます。
貯めていましたJALマイレージポイントがありますので伊丹⇒新千歳までの必要マイルを検索しますと、セールス中で普段はエコノミークラスよりも高いJクラスで9,500ポイントの空席が見つかりました。空港使用税は710円のみで、ほぼ無料で利用できます。即決で決めました。   続きを読む

 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈9〉

駅名標②  終着駅

駅名標の写真を投稿したのが、一日余り前のこと、この間に、速攻の紫の1863さんはじめ、多くの方から、駅名標にまつわる思い出の写真を寄せていただき、改めて、駅名標への関心の高さを思いました。なかでも、西村さん、奈良の駅研さんから、終着駅の駅名標を載せていただきました。今回紹介しようとするのも、「終着駅」てす。当時の駅名標の場合、下部には、両端の駅名が書かれていますが、終着駅の場合は、どちらか一方が白地のままで、“これ以上は行けない!”感を無言で表現しています。ここが白いだけで、なんとも感慨深さを覚えたのではないでしょうか。さらに終着駅は、その後の変転があります。延長されて、もう一方に駅名が記入されることもあるでしょうが、大部分は、廃止の運命をたどり、終着駅としての歴史を閉じたものです。

 

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈8〉

駅名標 ①

駅の施設・表示類のなかで、必須アイテムは、やはり駅名標だと思います。考えたら、駅名標は、鉄道が創業した時から、乗客に駅名を伝える、重要な役目を負って来ました。家であれば、表札のようなもので、旅先の駅で、駅名標を見て、感慨深い思いを持って、下車したものです。いまは、JR各社、私鉄各社がさまざまなデザインで独自の駅名標を開発していますが、われわれの時代は、ホームにある駅名標は、鳥居型と呼ばれる駅名標一本でした。この鳥居型は、屋根の無い、ホーム端に置かれることが多く、つまり、列車編成の端部にも当たり、駅名標と蒸機が一体になった光景をよく見かけたものです。加太越えの補機の仕業を終えたD51が、ゆっくり側線に入って来た。機関士は決められた点検を終えると、手すりをつかまって下りて来た。次の戻りの補機運用まで、蒸機、機関士とも、しばしの休みに入る(昭和47年4月)。

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リハビリを兼ねた 関東からの日帰り旅行 2

<富山ライトレール2 2006.9.9(前回の日付表記が間違っていました)>
富山ライトレール(現:富山地方鉄道富山ライトレール線)は、大部分が富山港線の線路を使っていますが、将来富山地方鉄道市内線に乗り入れる計画で(2020年3月接続)、富山駅周辺では路面に線路を新設し、富山駅前の歩道の延長線上に乗場がありました。当時の私のブログでも「ホームと床の段差は限りなく0に近い。普通の人から見ると僅かの段差でも高齢者や障がい者には結構厳しいものだが、こういう設計から『真剣にバリアフリーを考えたユニバーサルデザイン』の意図が伝わってくる」と記しています。

歩道の延長線上が停留所。電車との段差も僅かの嬉しい設計

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 都電も定点対比してみる 5 ~路面電車あれこれ噺 (26)

都電「新宿駅前」 今昔

つぎは「新宿駅前」へ、とは言うものの、新宿駅前に都電の姿はなく、少し歩いた靖国通り、歌舞伎町の歓迎アーチの真ん前に電停がありました。ここは2面3線の終端式で、広い道路の中央にゆったりとあり、前記の通過式の渋谷駅前とは対照的でした。ここには12系統(新宿駅前~両国駅前)、13系統(新宿駅前~水天宮前)が発着して前年までは11系統(新宿駅前~月島)も発着、さらに、西側の国鉄ガードをくぐると、青梅街道の「新宿駅前」から14系統の荻窪駅前行きも発着していて、新宿には、11、12、13、14と並びの系統番号が揃っていましたが、撮影時点で残っていた12・13系統は昭和45年3月に廃止されます。世界の歓楽街「歌舞伎町」の真ん前に位置した都電「新宿駅前」、国鉄新宿駅からは少し歩くが、昭和27年に開業した西武鉄道新宿駅は真ん前となった。開業当時は、新宿駅に隣接した新宿通りにあり、昭和24年の靖国通りの拡幅に合わせて、新ルートに変更された。昭和28年には角筈で発着していた路線改良中の13系統も、新宿駅前に移転し、11、12、13の3系統が発着する「新宿駅前」が完成した(以下、昭和44年9月)。▲▲「歌舞伎町」の交通標識が見える、都電「新宿駅前」の現在。

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想い出の阪急京都線・・・②

想い出の阪急京都線・・・①より続く

⑩ エレガントな高性能車(1300・1350形)

1957(昭和32)年に京都線に投入された1300形は、920形に代表される

阪急スタイルを一新し脱阪急とさえ思わせた。

車体が全体的に丸みを帯びたデザインで、屋根の両側に沿って長い通気用のル―バ―が設置されていたのがアクセントとなっていて大変エレガントな印象を与えた。

1956(昭和31)年に高性能車と銘打った1000形が神戸線に現れたが、その姿はそれまでの阪急車とは全く趣を異にした洗練されたスタイルであった。屋根はそれまでの阪急には無かった柔らかさを感じる張り上げ仕様となっていた。更に、この高性能車は性能的にも斬新さがあって、全電動車方式の軽量化車体に加えて台車に取り付けられた小型高速度電動機の効果が期待された。その後1000形は1010形に発展し、その京都線版が1300形であったが、製造総数は16両に止まり量産には至らず、2300シリーズの量産車が次に続く事となった。
写真:1302他 京都行通勤特急(1962.8.15.総持寺)

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播磨の国鉄型をめぐる

播磨にご縁ができて、最近は年に数回ほど訪れるようになりました。
これまではついつい通り過ぎがちだったエリアの鉄道を楽しむ機会が増えています。

特に、日常では目にすることがなくなった国鉄型車両を再認識するようになりました。

相生駅に入線する115系。電化と同時に登場した湘南色は今も健在です。

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広島通信(その2)スカイレールその後

スカイレールは令和6年4月末に営業を終了してから4ケ月余りが経過しました。電車で瀬野駅を通過する度に、急勾配を登るレールがまだ撤去されずに残っているのを確認していましたが、今回は瀬野駅に降りて、様子を見てみました。

瀬野駅ホームからスカイレール跡を望む

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広島通信(その1)山陽本線西高屋駅について

異常な暑さが続き 外出を控えていましたが、少し暑さが和らいできたので近場の取材に出かけました。まずは、橋上駅化工事が進む西高屋駅の様子から。この駅は山陽鉄道開通時の明治27(1894)年からあったかというと そうではなく、大正6(1917)年7月13日に当時の鉄道院によって信号場として開設されています。輸送量の増大に伴い、白市・西条間(9Km)のほぼ中間に交換設備として開設されたようです。正式に西高屋駅に昇格し、客貨扱いが始まったのは大正15(1926)年10月1日でした。この駅に以前から注目していたのは、上り下りのプラットホームにレンガ積みの開業時のホームの痕跡がしっかりと残っているからです。スケッチ図は現在の様子を示します。

山陽本線西高屋駅の略図

中央に待避線のある2線2面の配線です。赤線で示した部分にレンガ積みのホーム跡が残っています。

通過してゆく上り貨物列車。プラットホーム最下段はレンガ積み。

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 都電も定点対比してみる 4 ~路面電車あれこれ噺 (25)

「渋谷駅前」の今昔

延々のバスシリーズをいったん離れて、とれたての都電対比としました。毎年、趣味者の会合で渋谷へ行く用事があり、昨日も、会合の前に、56年前の都電時代との対比を試みました。その昔、都電の「渋谷駅前」は、現在のハチ公口にあって、スリバチ地形の底の狭隘な終端式のため、つねに渋滞していたと言います。そこで、昭和32年に渋谷駅東口に新しい都電ターミナルを造ることになりました。渋谷に下りて来る二つの坂、金王坂と宮益坂を活用して、下りと上りに分けた、ループ式の一方運転としました。電車は金王坂を下って「渋谷駅前」に着き、折り返すことなく、スルー運転で宮益坂を上って、青山方面に向かいました。渋谷のスリバチ状の地形をうまく活用したループ線の新設となりました(都電時代はすべて昭和43年8月)。

宮益坂を上がって行く都電、9系統の新佃島行き。9系統は浜町中ノ橋が終点だが、段落ちするため、途中の新佃島行きなどがあった。56年前の宮益坂にはコンクリートがむき出しの無機質なビルが続いていた。▲▲現在の宮益坂、56年前の右手に山手線のウグイス色の101系、「TOKYU」の看板が見える東急百貨店の位置から判断して、宮益坂の中間に今もある、渋谷郵便局前の横断歩道に定点を定めた。いまはケヤキ並木が続いて、旧景より道幅が狭くなった印象がある。

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想い出の阪急京都線・・・①

この記事は河 昭一郎氏が以前に鉄道ピクトリアル誌に掲載されたものをデジタル青信号用に改めてご寄稿下さいました。
米手作市が代理で投稿致します。

阪急京都線が元々は阪急ではなかったのは有名な話で、そのルーツは京阪電気鉄道の子会社であった新京阪鉄道が1925(大正14)年10月15日に天神橋~淡路間を開業したのが始まりである。
後の1928(昭和3)年11月には京都(西院)まで延伸され、大阪(天神橋)~京都(西院)の直通運転が実現した。

その後、北大阪電気鉄道との合併によって十三~千里山間が編入され、その内の淡路~十三間が後の梅田乗り入れの足がかりとなった。
しかし、その後の社会情勢の変化により1930(昭和5)年9月15日には親会社の京阪電気鉄道に合併され同社の新京阪線となった。

この新京阪鉄道は名古屋までの延伸が念頭に有ったため、軌道法を超えた鉄道法に沿って建設されたため、軌道法の阪急とは規格が違いレールは50キロ級、架線方式についても高速対応のコンパウンドカテナリー式(但し、補助吊架線とトロリー線との間隔が広い変形)を採用していた。

写真:爆走する1519他4連の京都行急行・3両目に1550形が混結されている。(1963.7.18.富田)

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