給水塔のある風景

総本家青信号特派員氏の投稿に触発され、そう言えば自分も各地で給水塔やその残骸を写しているような気がしてきました。そこで、探してみると意外と集まりましたので北から順にご紹介したいと思います。

1.尺別鉄道 新尺別駅

昭和44年2月28日 尺別鉄道新尺別駅

ここは1900生氏、KAWANAKA氏と共に訪れた思い出の地です。駅と機関庫がこじんまりと集まった、模型で再現したくなるような風景です。給炭場と給水塔が並んでいます。駅周辺には郵便局などもありましたが、今グーグルのストリートビューで見てみると鉄道施設はおろか民家も何もない原野(牧場?)になっていて、場所も特定できません。この訪問時は、国鉄尺別駅まで戻る手段探しに時間をとられ、肝心の尺別鉄道探訪が疎かになったのが悔やまれます。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (6)

「いろいろやります」も最後となりました。いま写真展を行っている滋賀銀行志賀町支店の西にある、大津市和邇支所の和邇コミュニティセンターでトークショーと廃線跡ウォークを行います。突然ですが、明日8日(日)の開催です。

 「思い出の江若鉄道トークショーと廃線跡ウォーク」

  9月8日(日)13時30分開始  16:00ごろ終了

  大津市和邇文化センター 和邇コミュニティセンター 第2会議室

トークショーは、先般、近江今津での江若鉄道写真展をベースに、写真解説を行います。あと、和邇らしい話題として、かつて江若鉄道が計画していた和邇~途中~大原~京都二条の江若鉄道京都支線についても資料・地図とともに話をさせてもらいます。廃線跡ウォークは、和邇駅跡の現況や踏切跡を、当時の写真とともに対比したり、和邇~真野の喜撰川に残る橋台跡を歩きます。いつもお世話になっている、びわ湖鉄道歴史研究会の主催として開かれます。同会の皆さまのご協力に感謝申し上げます。会場の和邇文化センター、湖西線和邇駅下車、徒歩5分。

江若鉄道時代、踏切付近と現況を対比しました。周囲の街並みは変わりましたが、道路の形状は変わっていません。遺物はほとんど残っていない和邇付近ですが、廃線跡を歩きながら、江若鉄道時代をイメージしていただけるようご案内いたします(江若時代は、大津市歴史博物館提供)。

 

広島から新聞ネタ3題

まずは広電のイベントから。

荒手車庫での撮影会(令和6年9月6日 中国新聞朝刊)

10月14日の鉄道の日にちなんで、13日に宮島線の荒手車庫で撮影会が開催されます。参加費が7000円というのは法外なような気もしますが、参加費を高く設定することで申込者を絞ろうということかもしれません。少し前までは、車庫の事務所にひと声かければ、「入出庫車に充分注意して下さいネ」程度で構内に入れてもらえましたが、今ではそんなわけにはゆかず、このような公開イベントに申し込むか、正式に見学願いを出すなどの手続きでもしないと車庫には入れない時代になりました。今回の荒手車庫は横を走る一般道から、少し構内の車両を撮影できますが、かと言って7000円を払うのはためらわれます。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈7〉

給水塔  

登録有形文化財に指定された名松線伊勢奥津駅の給水塔。名松線松阪~伊勢奥津が開通した昭和10年に設置された。高さ10mで、四本の鉄筋コンクリート柱の上に、汲み上げた水を入れる直径3mの鉄製タンクがあり、蒸機の活躍していた時代、炭水庫に注水していた。近くに給水槽や、雲出川からの取水口も残っているそうだ。

昨日は、非鉄グループで、青春18きっぷを使った乗り鉄、呑み食べ鉄として、“名松線乗車と松阪牛を食す旅”に行きました。ホントささやかですが、この夏初めての遠出でした。名松線は、台風豪雨のため、前日までの数日間、運転抑止、この日から運転再開でしたが、18きっぷシーズンにも関わらず、18族があと2人、一般の乗客はゼロのまま、終点の伊勢奥津に到着しました。名松線は、クローバー会のツアーでも2021年12月に行ったことがありますが、終点の様相には変化もなく、何気に給水塔の近くへ行ってみると、写真のような“ニュース号外”が貼られていました。知らなかったことですが、給水塔が、ことし7月に登録有形文化財に指定された速報でした。鉄製の給水塔としては、若桜鉄道若桜駅に次いで登録有形文化財の二例目だとのこと。

蒸機時代の給水塔の写真も入れられた、名松線を守る会の「ニュース号外」

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈10〉

江若交通 ⑤ 堅田葛川線(下)

堅田葛川線の続きです。堅田駅前~途中~細川のうち、「途中」から、花折トンネルを抜け、比良山系の西側に沿って若狭街道(367号)を北上、細川までの区間です(以下、昭和55、56年撮影)。「途中」を出発した細川行き。街道らしい街並みが続く。実際は狭い道にクルマがあふれる渋滞の名所だったが、いまは高架バイパスができて、静かな街並みに戻っている。

花折トンネルに入る江若交通のボンネットバス。標高591mの峠で、かつては若狭街道の難所だったが、昭和50年に花折トンネルが完成し、交通の便は改善された。峠の名は葛川の明王院への参詣者が、この峠で仏に供える樒を折ったことに由来する。

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ただ今整理中 こんなんが出てきました(その2)

引っ越し後の整理が遅々として進まぬ米手です。
先日の暑気払いの会で大阪通信員さんから「音沙汰なしやないか!なにしてんねん!」とやんわり怒られましたので、台風接近の中一丁で一丁で格闘し始めたところ、おもしろいモノが見つかりましたのでご紹介します。

昭和54(1974)年8月1日に発行されたフジイ大丸の広報誌「むくちじょうほう」で、”あれから10ヶ月京都市電のその後物語”と題する特集です。
これがなかなか専門的にも詳しい編集をしていて、百貨店の顧客サービス品とは思えない出来栄えです。もしかしてあの人が一枚噛んでいたのでは・・・?

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈9〉

江若交通 ④ 堅田葛川線(上)

江若交通のボンネットバスへのコメントありがとうございます。つぎは、1900生さんやtakaginotamagoさんの思い出深い堅田葛川線へ参ります。堅田駅前~途中~細川を結び、終点まで乗ると片道1時間以上の本格的なボンネットバス路線でした。夏季(3~11月)は3往復、冬季(12~3月)は2往復、うち一往復は、終点の細川での泊まり運用でした。「途中」を越えると、花折トンネルを抜け、比良山系の西側に沿って若狭街道(367号)を北上します。その昔、鯖街道とも呼ばれた、懐かしい風景が続きました。今回は堅田~途中の紹介です。始発の堅田駅前を出て25分、「途中」に着く。ここまで来ると、冬は雪模様だった。京都・大原方面からの道路と合流し、三叉路を形成、街道沿いの面影を残していた。(以下、昭和53年2月4月)。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (5)

まだ「いろいろやります」続きます。湖西線和邇駅前にある銀行で、またまたの江若鉄道写真展を行うこととなりました。

 滋賀銀行志賀町支店写真展「和邇を走った江若鉄道」(+α)

 9月2日(月)~10月31日(木) 9:00~15:00 (湖西線和邇駅下車、西側すぐ)

和邇を発車したキハ5121ほかの下り総括編成、列車は、上り「ひら」の回送列車だったと記憶している。和邇から蓬莱山のカーレーターがはっきり望めた。和邇で印象的だったのは、写真のように構内が真っ白な土砂に覆われていた。永遠の謎だったが、設営を手伝ってもらった、元江若の方に聞くと、山手の方で、手抜きの造成工事が行われ、花崗岩の土砂が駅構内まで流れ出したものだったと言う。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈8〉

江若交通 ③  帰って来たボンネット

江若交通のボンネットバスは、昭和57年に姿を消しますが、それから40年後、同じ本堅田の狭い街路をボンネットバスが走りました。バス一台がやっと通れる本堅田の街に、ボンネットバスが帰って来た(2019年)。 続きを読む

 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈7〉

江若交通②  堅田町内循環線

では、江若交通のボンネットバスの昭和50年代の活躍を、路線別に見て行きます。まずは、堅田町内循環線です。こんな狭い街路をボンネットが走っていた。通行人も屋根の下に避難、車掌は路上駐輪された自転車を排除し、やっと発車して行った。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈6〉

堅田に本社を置く江若交通のボンネットバス、3台あり、2台使用、1台予備で、毎日朝から晩までフル活動していた(堅田営業所)。

江若交通 ①

では、ここらでボンネットバスの話題へ。昭和50年前後、近畿地方にはまだ何社かでボンネットバスが残っていましたが、なかでも活発に走っていたのが、江若鉄道の後継となる、江若交通のボンネットバスでした。江若鉄道は昭和44年に鉄道事業を廃止、江若交通と社名を改めて、湖西線ができるまでの鉄道代替バスも含めて、バス専業となります。湖西線が開業後の昭和50年頃には、3台のボンネットバスが、湖西線堅田駅の裏にある堅田営業所に配属され、堅田の町内輸送を始め、堅田から比良山の登山口などへ向かい、ボンネットバスならではの力を発揮していました。私は「ポスト江若鉄道」ととらえ、よくボンネットを撮りに行ったものです。

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7年半のトレインビューを振り返って 8 終

⑨ 今でも撮れる EF65牽引貨物

引っ越しの日程が決まって、慌ててEF65の貨物列車の撮影を始めた。この貨物列車は北旭川を0:30分に発車する82レで青森信号所には12:35分到着。列車番号を3082レと変更し青森信号所を12:48分に発車、翌日の0:19分に新鶴見に到着。さらに5087レに変更の上、新鶴見を3:05に発車し、一路百済貨物ターミナルを目指す。終点には15:07分に着く約40時間の長距離貨物列車である。撮影:2024年4月19日

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈6〉

タブレットの授受 ②

毎日、怒涛のように(?)、車両が見当たらない写真やバスばかりを載せて、誌面汚しではと危惧していましたが、紫の1863さん、勘秀峰さんから、タブレット授受の写真で応援していただき大いに励まされました。調子に乗って、あと一回、タブレット載せます。

現在、タブレットを使った非自動信号の運転は、地方私鉄、専用線で辛うじて残っていますが、JRでは、より簡易なスタフ閉塞を行う路線が残っていて、輪っかのキャリアを使っているため見かけはタブレットと変わりません。

タブレットを受け取り、加太越えに出発(柘植)

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈5〉

タブレットの授受 ①

駅には、列車の運転に関わる設備が多くありましたが、シンボルは、タブレットによる閉塞システムでしょう。単線区間で、これから進む区間には、ほかの列車が無く、進行を許可する“手形”の役割をしていて、駅の助役などが、運転士とタブレットの受け渡しを行なう光景を目にしたものです。列車が駅に停車する場合、運転室へ行って、タブレットの受け渡しができますが、通過の場合は、装置を使った受け渡しとなります。直接素手で受け渡すシーンもありましたが、駅に設置されているタブレットの授受器、車両側にもタブレット受け器を使用していました。初めてタブレットの授受を撮ったのは昭和43年8月、DRFCの狂化合宿で、花輪線龍ヶ森へ2泊3日のキャンプに行った時だった。午前中は峠の前後で撮影をするが、昼頃になると、みんな駅へ集まって、その日の食材の買い出しや昼食で、大更などへ向かって行った。駅の周囲は、商店どころか、家すら何もない原野で、食料調達や食事は列車移動が必須だった。私は駅でブラブラしていると、8620の牽く下りの貨物列車が停車するなか、ちょうど通過するのが、急行「第2みちのく」「陸中」で、タブレットの受け渡しを行った。今から思うと、花輪線に急行列車とは信じられないが、「第2みちのく」は、途中で併結して多層階列車となり、なんと上野まで向かっていた。上の写真は初日、左は2日目で、同じ列車を写している。一日しか違わないのに。初日は夏服。2日目は冬服、それほど東北の高原は涼しかった。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈4〉

改札口 ~江若鉄道写真展から

先日、湖西線近江今津駅近くのコミセンで、江若鉄道の写真展を行いました。期間中、湖西線50周年式典や夏祭りが現地で行われたこともあり、多くの皆さんにご来場いただきました。展示の写真を改めて見直すと、「改札口」テーマの写真が何点かありました。人が集まり、散って行く、改札口は写真テーマとして恰好なものがありました。本欄で発表済みもありますが、江若鉄道で見られた改札口のある光景です。和邇駅の改札口、太い木組みの改札口、右の方は、江若の嘱託社員のOさんで、推定年齢80歳前後で、江若の社員では最高齢だった。江若は、前日に営業を終えて、この日は招待客だけの「さよなら運転」の日だった。改札口に立つ必要もないのだが、Oさん、江若一筋の人生を思い起こすように、いつものように改札口に立っておられた。駅へ行くと、ずいぶん親切にしていただき、御礼も込めて、廃止後、Oさんの自宅まで、DRFCで作った江若のアルバムをお届けした。左のお年寄りも、いまは絶対見ないような和服姿、服装を見ると、改めて時代を感じる(昭和44年11月) 続きを読む

2024年夏、タイからラオスへ(その7最終回)

快速133列車は、クルンテープに30分ほど遅れて到着しました。タイでは長距離列車の遅延は織り込み済です。むしろこの程度で済んだのはまだまし、と言えます。ここからは沿線撮影です。▲普通261列車スアンソン行き サムセン

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈3〉

改札口

列車に乗るとき、必ず通るのが改札口でした。入鋏を受けて、ホームに出る。ここからは“有料地域”になりますから、いわば駅の結界のようなもので、ちょっと居住まいを正したものでした。いまは、都市部は自動改札、地方は無人駅化が進み、有人の改札口を見かけることもなくなりました。改札口を通して、見えてくる光景にも、心ときめかせた(昭和45年、加茂)。 ▲▲太い角材を組み上げた木製の改札口も多かった。長年の使い込みで飴色に輝いていた(昭和62年、大社)。

 

 

 

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2024年夏、タイからラオスへ(その6)

カムサワート駅に戻ると、心なしかラオス中国鉄道の駅に居るよりもホッとしました。
出国手続きの後、ホームで進入してきた列車を撮ります。ラオス中国鉄道と違ってこちらでは気兼ねなく撮影が出来ました。タイのノーンカーイの一つバンコク寄りのウドンターニーからの快速147列車が5両で入線してきました。▲ウドンターニーからの快速147列車は、ヴィエンチャンカムサワートに着くとすぐ機回しを行います。 続きを読む

 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈2〉

駅の売店

かつては、地方の駅にも待合室の一角に売店があったものです。新聞・週刊誌、タバコは代表商品で、菓子・パン、飲料水や酒類、土産まで、数百アイテムはある商品が所狭しと並べられていました。販売員の素早い対応もよくネタになり、阪神タイガースが勝った翌日の朝、スポーツ新聞を買い求める客のさばき方は、まさに名人芸でした。それが、“駅ナカ”の様相がすっかり変わり、売店もコンビニが進出、地方の駅では売店が全滅。駅へ降りても、活字情報も食べ物も何も得られない時代になりました。山陰本線がまだ地上を走っていた時代の二条駅、列車の到着まで余裕があると、売店の商品を見ながら時間をつぶしたものだ。鉄道弘済会の売店は、昭和初期に、上野駅東京駅で始まったそうで、事故で亡くなったりした国鉄職員の遺族に働き口を確保する目的があった。昭和48年に、売店の愛称が、Kiosk(キヨスク、一部ではキオスク)になった。

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2024年夏、タイからラオスへ(その5)

28日朝、起きると緑濃い平原の中を走っています。ほどなく乗務員が、寝台を解体
しにきました。上段にも客は居たようですが、途中で下車したようです。顔を見ることはありませんでした。定刻の6時25分、ノーンカーイに到着。約530キロを10時間掛かっているので早くはありませんが、997バーツ(約5千円)の値段を遥かに上回る快適な夜行特急でした。▲こちらはディーゼル急行76列車 キハ47のステンレスカーのような車両ですが、これでバンコクまで約9時間の乗り通すのはきついように思われます。いや、それを楽しみ、と捉えるか。

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