探偵団の皆さん!教えて下さい

給水塔の話はおもしろかったですね。
久しぶりに全員参加でワイワイやれて良かったです。

それならばと、大阪通信員さんからご下命がありましたので成り代わりまして探偵さんに調査を依頼致します。

と言いますのは、先日通信員さんのご自宅へ訪問致しましたところ、奥座敷に9㎜ゲージの複線を引いて、DF50の引く旧型客車を走らせておられました。その時「ぶどう色の旧客3等車でアルミサッシというのはあるだろうか?あれば作って走らせたいが、もしなければ偽物(最近の用語ではフェイク)だ!と罵倒されるのは貯金・勉強・親孝行を座右の銘にしてきた老身には堪えられない」と仰ってました。

そこで探偵の皆様にお願いです。
通信員さんの安らかな老後を保障するためにも「アルミサッシを付けたぶどう色の旧客3等車」の写真があるならば見せてあげてください。
私のアルバムには旧2等車はあります。3等車もありますがモノクロのため青か茶色か判然としません。

なお、旧客の青色化は昭和39年から始まっていますので、それ以前に撮影されたなら茶色(ぶどう色)です。

宜しくお願い致します。

 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈14〉

江若交通⑨ ボンネットバスの最終日(2)

昭和57年2月15日、江若交通ボンネットバス最後の一台の最終日てす。もうイヤッと言うほど撮って来ましたが、最後をどうしても見届けたく、平日でしたが、仕事を放り投げて、堅田入りとなりました。しつこく続けて来た本稿の最後として見ていただきます。最終日の若狭街道を行く、最終日のボンネットバス、この日も湖西地方は早朝に雪に見舞われた。雪をかぶった樹林のなか、ヘッドマークを掲げて特別運転中の姿を。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈13〉

江若交通⑧ ボンネットバスの最終日(1)

昭和57年2月16日をもって、江若交通に残っていた最後のボンネットバス「滋2い10-81」が営業を終えました。昭和56年2月に、2台のボンネットバスが廃車のあとは、1台だけとなり、おもに月~金の平日のみ、堅田~細川の一往復を走り続けてきましたが、昭和57年5月の車検切れ前に営業から退くことになりました。江若交通の最後のボンネットバス「滋2い10-81」、昭和42年の製造以来、15年間、ずっと活躍を続けてきたが、昭和57年2月16日、最終日のこの日は、通常の営業の合い間、通学に利用した沿線の葛川小学校の全校児童を乗せた特別運行があり、学校前では、乗務員に感謝の花輪が贈られた。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈12〉

江若交通⑦ 和邇途中線(2)

江若交通のボンネット路線のひとつ、和邇途中線をもう一回、載せます。

県道311号(途中志賀線)を走って来た途中行きのバスは、「出口」付近から旧道に入って、集落のある「下龍華」へ向かう。まさに“ボンネットバスの里”と呼ぶにふさわしい風景が続いていた(昭和55、56年撮影)。

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リハビリを兼ねた 関東からの日帰り旅行 1

<プロローグと富山ライトレール 2006.9.11>

私は東京の会社に勤めていた2004年11月、脳出血を発症し右手右足のマヒと失語症の後遺症が残りました。懸命にリハビリに励み、2005年8月には日常生活が過ごせて、復職できるところまで回復しました。一時は鉄道趣味を諦めかけましたが、左手一本で操作できる小型のデジカメを購入し、練習するうちに小旅行の意欲が湧いてきました。

<初めてのデジカメ撮影はTX守谷駅 2005年8月28日>

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈11〉

江若交通⑥ 和邇途中線(1)

「いろいろやります」の最後のステージとして、昨日、江若鉄道写真展トークショーと廃線跡ウォークを和邇コミセンで行いました。いま「デジ青」では江若交通ボンネットバスを掲載して、堅田町内循環線、堅田葛川線を紹介しました。たまたまですが、昨日の開催地、和邇から山間部へ向かう、もう一つのボンネット路線「和邇途中線」を紹介することします。昨日、同行していただいた紫の1863さんのクルマで、その昔、ボンネットバスが走った脇道を懐かしい思いで走ることもできました。和邇途中線は、湖西線和邇駅を起点として、志賀途中線(県道311号)を西進、「途中」まで向かう路線、分岐して「栗原」へ向かう路線、入庫回送を兼ねた客扱いとして本堅田へ向かう路線と、3つの路線がありました(以下、昭和55、56年)。湖西線和邇駅前で発車を待つ江若交通のボンネットバス。和邇~途中は2往復、左の和邇~栗原は3往復、和邇~堅田も2往復(回送含む)あった。 続きを読む

給水塔のある風景

総本家青信号特派員氏の投稿に触発され、そう言えば自分も各地で給水塔やその残骸を写しているような気がしてきました。そこで、探してみると意外と集まりましたので北から順にご紹介したいと思います。

1.尺別鉄道 新尺別駅

昭和44年2月28日 尺別鉄道新尺別駅

ここは1900生氏、KAWANAKA氏と共に訪れた思い出の地です。駅と機関庫がこじんまりと集まった、模型で再現したくなるような風景です。給炭場と給水塔が並んでいます。駅周辺には郵便局などもありましたが、今グーグルのストリートビューで見てみると鉄道施設はおろか民家も何もない原野(牧場?)になっていて、場所も特定できません。この訪問時は、国鉄尺別駅まで戻る手段探しに時間をとられ、肝心の尺別鉄道探訪が疎かになったのが悔やまれます。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (6)

「いろいろやります」も最後となりました。いま写真展を行っている滋賀銀行志賀町支店の西にある、大津市和邇支所の和邇コミュニティセンターでトークショーと廃線跡ウォークを行います。突然ですが、明日8日(日)の開催です。

 「思い出の江若鉄道トークショーと廃線跡ウォーク」

  9月8日(日)13時30分開始  16:00ごろ終了

  大津市和邇文化センター 和邇コミュニティセンター 第2会議室

トークショーは、先般、近江今津での江若鉄道写真展をベースに、写真解説を行います。あと、和邇らしい話題として、かつて江若鉄道が計画していた和邇~途中~大原~京都二条の江若鉄道京都支線についても資料・地図とともに話をさせてもらいます。廃線跡ウォークは、和邇駅跡の現況や踏切跡を、当時の写真とともに対比したり、和邇~真野の喜撰川に残る橋台跡を歩きます。いつもお世話になっている、びわ湖鉄道歴史研究会の主催として開かれます。同会の皆さまのご協力に感謝申し上げます。会場の和邇文化センター、湖西線和邇駅下車、徒歩5分。

江若鉄道時代、踏切付近と現況を対比しました。周囲の街並みは変わりましたが、道路の形状は変わっていません。遺物はほとんど残っていない和邇付近ですが、廃線跡を歩きながら、江若鉄道時代をイメージしていただけるようご案内いたします(江若時代は、大津市歴史博物館提供)。

 

広島から新聞ネタ3題

まずは広電のイベントから。

荒手車庫での撮影会(令和6年9月6日 中国新聞朝刊)

10月14日の鉄道の日にちなんで、13日に宮島線の荒手車庫で撮影会が開催されます。参加費が7000円というのは法外なような気もしますが、参加費を高く設定することで申込者を絞ろうということかもしれません。少し前までは、車庫の事務所にひと声かければ、「入出庫車に充分注意して下さいネ」程度で構内に入れてもらえましたが、今ではそんなわけにはゆかず、このような公開イベントに申し込むか、正式に見学願いを出すなどの手続きでもしないと車庫には入れない時代になりました。今回の荒手車庫は横を走る一般道から、少し構内の車両を撮影できますが、かと言って7000円を払うのはためらわれます。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈7〉

給水塔  

登録有形文化財に指定された名松線伊勢奥津駅の給水塔。名松線松阪~伊勢奥津が開通した昭和10年に設置された。高さ10mで、四本の鉄筋コンクリート柱の上に、汲み上げた水を入れる直径3mの鉄製タンクがあり、蒸機の活躍していた時代、炭水庫に注水していた。近くに給水槽や、雲出川からの取水口も残っているそうだ。

昨日は、非鉄グループで、青春18きっぷを使った乗り鉄、呑み食べ鉄として、“名松線乗車と松阪牛を食す旅”に行きました。ホントささやかですが、この夏初めての遠出でした。名松線は、台風豪雨のため、前日までの数日間、運転抑止、この日から運転再開でしたが、18きっぷシーズンにも関わらず、18族があと2人、一般の乗客はゼロのまま、終点の伊勢奥津に到着しました。名松線は、クローバー会のツアーでも2021年12月に行ったことがありますが、終点の様相には変化もなく、何気に給水塔の近くへ行ってみると、写真のような“ニュース号外”が貼られていました。知らなかったことですが、給水塔が、ことし7月に登録有形文化財に指定された速報でした。鉄製の給水塔としては、若桜鉄道若桜駅に次いで登録有形文化財の二例目だとのこと。

蒸機時代の給水塔の写真も入れられた、名松線を守る会の「ニュース号外」

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈10〉

江若交通 ⑤ 堅田葛川線(下)

堅田葛川線の続きです。堅田駅前~途中~細川のうち、「途中」から、花折トンネルを抜け、比良山系の西側に沿って若狭街道(367号)を北上、細川までの区間です(以下、昭和55、56年撮影)。「途中」を出発した細川行き。街道らしい街並みが続く。実際は狭い道にクルマがあふれる渋滞の名所だったが、いまは高架バイパスができて、静かな街並みに戻っている。

花折トンネルに入る江若交通のボンネットバス。標高591mの峠で、かつては若狭街道の難所だったが、昭和50年に花折トンネルが完成し、交通の便は改善された。峠の名は葛川の明王院への参詣者が、この峠で仏に供える樒を折ったことに由来する。

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ただ今整理中 こんなんが出てきました(その2)

引っ越し後の整理が遅々として進まぬ米手です。
先日の暑気払いの会で大阪通信員さんから「音沙汰なしやないか!なにしてんねん!」とやんわり怒られましたので、台風接近の中一丁で一丁で格闘し始めたところ、おもしろいモノが見つかりましたのでご紹介します。

昭和54(1974)年8月1日に発行されたフジイ大丸の広報誌「むくちじょうほう」で、”あれから10ヶ月京都市電のその後物語”と題する特集です。
これがなかなか専門的にも詳しい編集をしていて、百貨店の顧客サービス品とは思えない出来栄えです。もしかしてあの人が一枚噛んでいたのでは・・・?

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈9〉

江若交通 ④ 堅田葛川線(上)

江若交通のボンネットバスへのコメントありがとうございます。つぎは、1900生さんやtakaginotamagoさんの思い出深い堅田葛川線へ参ります。堅田駅前~途中~細川を結び、終点まで乗ると片道1時間以上の本格的なボンネットバス路線でした。夏季(3~11月)は3往復、冬季(12~3月)は2往復、うち一往復は、終点の細川での泊まり運用でした。「途中」を越えると、花折トンネルを抜け、比良山系の西側に沿って若狭街道(367号)を北上します。その昔、鯖街道とも呼ばれた、懐かしい風景が続きました。今回は堅田~途中の紹介です。始発の堅田駅前を出て25分、「途中」に着く。ここまで来ると、冬は雪模様だった。京都・大原方面からの道路と合流し、三叉路を形成、街道沿いの面影を残していた。(以下、昭和53年2月4月)。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (5)

まだ「いろいろやります」続きます。湖西線和邇駅前にある銀行で、またまたの江若鉄道写真展を行うこととなりました。

 滋賀銀行志賀町支店写真展「和邇を走った江若鉄道」(+α)

 9月2日(月)~10月31日(木) 9:00~15:00 (湖西線和邇駅下車、西側すぐ)

和邇を発車したキハ5121ほかの下り総括編成、列車は、上り「ひら」の回送列車だったと記憶している。和邇から蓬莱山のカーレーターがはっきり望めた。和邇で印象的だったのは、写真のように構内が真っ白な土砂に覆われていた。永遠の謎だったが、設営を手伝ってもらった、元江若の方に聞くと、山手の方で、手抜きの造成工事が行われ、花崗岩の土砂が駅構内まで流れ出したものだったと言う。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈8〉

江若交通 ③  帰って来たボンネット

江若交通のボンネットバスは、昭和57年に姿を消しますが、それから40年後、同じ本堅田の狭い街路をボンネットバスが走りました。バス一台がやっと通れる本堅田の街に、ボンネットバスが帰って来た(2019年)。 続きを読む

 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈7〉

江若交通②  堅田町内循環線

では、江若交通のボンネットバスの昭和50年代の活躍を、路線別に見て行きます。まずは、堅田町内循環線です。こんな狭い街路をボンネットが走っていた。通行人も屋根の下に避難、車掌は路上駐輪された自転車を排除し、やっと発車して行った。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈6〉

堅田に本社を置く江若交通のボンネットバス、3台あり、2台使用、1台予備で、毎日朝から晩までフル活動していた(堅田営業所)。

江若交通 ①

では、ここらでボンネットバスの話題へ。昭和50年前後、近畿地方にはまだ何社かでボンネットバスが残っていましたが、なかでも活発に走っていたのが、江若鉄道の後継となる、江若交通のボンネットバスでした。江若鉄道は昭和44年に鉄道事業を廃止、江若交通と社名を改めて、湖西線ができるまでの鉄道代替バスも含めて、バス専業となります。湖西線が開業後の昭和50年頃には、3台のボンネットバスが、湖西線堅田駅の裏にある堅田営業所に配属され、堅田の町内輸送を始め、堅田から比良山の登山口などへ向かい、ボンネットバスならではの力を発揮していました。私は「ポスト江若鉄道」ととらえ、よくボンネットを撮りに行ったものです。

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7年半のトレインビューを振り返って 8 終

⑨ 今でも撮れる EF65牽引貨物

引っ越しの日程が決まって、慌ててEF65の貨物列車の撮影を始めた。この貨物列車は北旭川を0:30分に発車する82レで青森信号所には12:35分到着。列車番号を3082レと変更し青森信号所を12:48分に発車、翌日の0:19分に新鶴見に到着。さらに5087レに変更の上、新鶴見を3:05に発車し、一路百済貨物ターミナルを目指す。終点には15:07分に着く約40時間の長距離貨物列車である。撮影:2024年4月19日

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈6〉

タブレットの授受 ②

毎日、怒涛のように(?)、車両が見当たらない写真やバスばかりを載せて、誌面汚しではと危惧していましたが、紫の1863さん、勘秀峰さんから、タブレット授受の写真で応援していただき大いに励まされました。調子に乗って、あと一回、タブレット載せます。

現在、タブレットを使った非自動信号の運転は、地方私鉄、専用線で辛うじて残っていますが、JRでは、より簡易なスタフ閉塞を行う路線が残っていて、輪っかのキャリアを使っているため見かけはタブレットと変わりません。

タブレットを受け取り、加太越えに出発(柘植)

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈5〉

タブレットの授受 ①

駅には、列車の運転に関わる設備が多くありましたが、シンボルは、タブレットによる閉塞システムでしょう。単線区間で、これから進む区間には、ほかの列車が無く、進行を許可する“手形”の役割をしていて、駅の助役などが、運転士とタブレットの受け渡しを行なう光景を目にしたものです。列車が駅に停車する場合、運転室へ行って、タブレットの受け渡しができますが、通過の場合は、装置を使った受け渡しとなります。直接素手で受け渡すシーンもありましたが、駅に設置されているタブレットの授受器、車両側にもタブレット受け器を使用していました。初めてタブレットの授受を撮ったのは昭和43年8月、DRFCの狂化合宿で、花輪線龍ヶ森へ2泊3日のキャンプに行った時だった。午前中は峠の前後で撮影をするが、昼頃になると、みんな駅へ集まって、その日の食材の買い出しや昼食で、大更などへ向かって行った。駅の周囲は、商店どころか、家すら何もない原野で、食料調達や食事は列車移動が必須だった。私は駅でブラブラしていると、8620の牽く下りの貨物列車が停車するなか、ちょうど通過するのが、急行「第2みちのく」「陸中」で、タブレットの受け渡しを行った。今から思うと、花輪線に急行列車とは信じられないが、「第2みちのく」は、途中で併結して多層階列車となり、なんと上野まで向かっていた。上の写真は初日、左は2日目で、同じ列車を写している。一日しか違わないのに。初日は夏服。2日目は冬服、それほど東北の高原は涼しかった。

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