では「信号場」を続けます。北陸本線は、羽越本線と並んで日本海縦貫線を形成し、列車ダイヤも輻輳し、信号場が各所に設けられました。北陸本線は東へ向けて電化工事が進捗し、撮影した昭和44(1969)年当時、糸魚川~直江津が最後の非電化、単線区間として残っていました。
北陸本線 百川(ももかわ)信号場
非電化区間の糸魚川~直江津にあり、能生~筒石6.4kmの間に、昭和37年9月に開設された。2線だけの標準的な信号場だった。昭和44年9月、浦本~有間川は、長大トンネルを含む複線電化となり、ほとんどの区間がルート変更になり新線に切り替えられ、能生、筒石、名立の3駅が移転した。糸魚川~直江津にあった木浦(信)、西名立(信)とともに、百川信号場も廃止された(昭和44年8月)。
▲平坦な場所に設けられた、ごく平凡な配線の百川信号場である。直江津~糸魚川間は、区間内の信号場はすべて廃止となった。信号場が設けられた能生~筒石といえば、昔から日本海が迫る海岸沿いのルートで有数の地滑り地帯として過去に多くの災害が発生していた。とくに記憶に残るのは、昭和38年3月の能生での大地滑りにより列車が巻き込まれ、牽引していたC57 90が日本海まで押し流された。機は現地解体されて廃車になったが、剥がれ落ちたナンバープレートを救助に向かった国鉄職員が抱きかかえている写真が、「鉄道ピクトリアル」に載っていたことが記憶に残っている。
「白鳥」交換 昭和36年10月改正で82系特急「白鳥」がデビュー、上下の「白鳥」が、隣駅の能生で運転停車して交換することになった。能生にも「白鳥」が停車するとカン違いした地元民が運転初日、花束を持って歓迎式をしたところ、「白鳥」はたしかに停車したものの、ドアは開かず、反対方向の「白鳥」と交換すると、さっさと出て行ったのは有名な逸話(これは金鉄局が、能生は運転停車なのに、客扱い停車と思い違いして、地域に配布する時刻表に「白鳥」停車を載せてしまったことに起因すると言われている)。この百川信号場が新設されたのは、「白鳥」騒ぎの翌年のことになる(写真は、AHさんから提供していただきました)。








北陸本線もこの辺りになると、あまり乗車したこともなく、そのうえ夜間に通過したので記憶は全くありません。それが旧線となると、存在さえ知りませんでした。鉄道趣味に目覚めたのが昭和45年ですので、すでに新鮮に切り替わった後だったのです。百川信号所は、乗車されていた列車の窓から撮影されたのでしょうか。国道には頚城鉄道のバスが見えますね。
地図を見ますと名立・筒石・能生の区間は海沿いに線路と国道が並走し、車窓に広がる日本海が手に取るように見えたことでしょう。線路跡は久比岐自転車歩行者道として整備され、かつての景観が楽しめるようです。ただ、関西からは遠いですね。
ワタクシ、この区間は鉄道よりもクルマの利用が多く、名立にはいつも立ち寄るサービスエリアがありました。北陸自動車道が全通してからは便利になったのですが、トンネルが多くて景色は今ひとつです。添付の画像は1982年1月の国道8号線、能生付近の様子です。旧線は画面右手のやや高い場所にありました。バスは残念ながら頚城鉄道と違って、丸岡バスです。
紫の1863様
直江津~糸魚川の思い出、ありがとうございます。私もこの区間へは何度も行った訳ではなく、電化直前に北海道へ行く途中に一日だけ寄ったに過ぎません。列車本数は多いものの、来る列車すべてD51牽引で、ええ加減うんざりと言った印象しか残りませんでした。それだけに、たまたま車窓から撮った、何でもない信号場の光景は今となっては、よくぞ撮っていたという思いです。
こんなところまで、クルマで出没されているとは ! 私の写真にも路線バスが写っていますが、いまも2台の路線バスが走っていて、驚きました。丸岡バスがこんなところを走っているのですか。前は頚城バスかな?
写真は見る時期や年齢によって、注目するところや感じ方に変化があります。以前の私なら国道を走るバスに興味はなかったでしょう。狙って撮れるものではありませんが、絶妙のタイミングですね。今回の投稿を拝見し、ストリートビューで今の様子を見ていて、この辺で撮ったのを思い出しました。撮影は43年前の正月で、信越本線沿線の妙高高原へスキーに行った帰りです。お昼前に現地を出発し、京都に帰り着いたのは日付が変わるころだったと思います。まだ北陸自動車道が全通する前で、国道8号線をのんびりと仲間のクルマ数台を連ねて走ったものです。能生にはお気に入りのレストランがあって、何度か立ち寄りました。添付した写真を撮った年は、珍しくお天気に恵まれました。バブルに向かう時期で、空前のスキー人気で関西からも多くのゲレンデ直行のバスが運転され、写っている2台のバスはスキー客を乗せていたのだと思います。前のバスは頚城鉄道バスかと思ったのですが、拡大すると「OKAW」の文字が読めました。これは大川自動車の大阪営業所所属車ではないでしょうか。参考にした「発掘カラー写真 昭和40年代バス浪漫時代」を見ますと、車体には5本のストライプが入っています。色は若干違うようにも見えますが。
余談ですが、この本の協力者に、総本家様と藤本様のお名前が載っていて、やっぱり!と驚くやら感心するやら。
総本家青信号特派員様
北陸本線のむかし道は乗車したことなく、百川信号場の存在も知りませんでした。廃線跡歩き的なことはしたいな、と思いながらも実行したことは、ごくわずかしかありません。
25年程前に、車で親不知の旧線跡を訪ねたことがあります。断崖上を通る国道の天険トンネルの東側にあるホテルの横から海岸まで下りていくと、階段の途中にはびこる草木に囲まれた旧線トンネルが突然にぽっかりと。こんな細い幅のところを走っていたのか、と驚いたものです。
百川のある地形図を見ていて、少し離れていますが親不知のことを思い出しました。
高田様
デジ青見ていただき、コメントまで頂戴し、ありがとうございます。この区間の廃線跡は、一部がサイクリングロードになっていますが、ほかの廃線跡はレールが撤去されただけで放置されているようです。たしかに、こんな狭いところを、よく蒸機が走っていたと感心しますね。旧の親不知は、この直江津~糸魚川より一足早く別線化していますから、私にとっては未訪問の駅となりました。何度か新線は通りましたが、日本海の荒波とは無縁の山手の高台にありました。
1枚目の写真で、機関車のすぐ後ろの客車は郵便車かとは思うのですが、殆ど窓が無いようなので、そんな郵便車があったかと不思議です。どなたか教えて下さい。
西村様
細かいところまで、見ていただき、ありがとうございます。この列車を直江津駅で写したものが出てきました。次位の郵便車ですが、オユ10のように見えます。オユ11との差は、採光窓の数が違うそうです。
総本家青信号特派員様、紫の1863様そして高田幸男様
1966年2月11日京都から新潟行きの普通列車に乗り筒石駅で下車して撮りました。皆様のご投稿から旧線と思いますが暗い日本海をバックに木が邪魔してこの程度の出来です。総本家さん仰られる通りD51ばかりでうんざりしました。写真はD51775[糸魚川]が牽引する236列車直江津発米原行きです。昼頃には切り上げましたがC57は1本だけ来ました。信号所のこと、バスのことは考えたこともありませんでした。C5790の転落事故は知っていましたが能生の特急停車は面白い話ですが初めて知りました。
準特急様
写真も見せていただき、ありがとうございます。筒石は私も降りて写したことがあります。真夏のカンカン照りの日で、準特急さんの印象とは正反対でした。今となってはよく撮っていた思いですが、当時はD51ばかりで、ええ加減、逃げ出したい思いでした。「白鳥」の交換騒ぎのあった能生で、その翌年にすぐ近くに百川信号場ができたのも、この騒ぎとは無縁でないように思います。写真は、筒石の隣駅、名立で写した「はくたか」です。
またまた痴呆の始まりです。写真の貼り付けを忘れました。
準特急様
2月、エライ寒い時期ですね。糸魚川電化後でC57の活躍の場が少なくなっていたのでしょうか。ワクワク、ガッカリ。乗車された新潟行は、普通列車とはいえ、深夜快速運転の普通列車だったと思います。夜行列車は、早朝から行動できるので、ありがたい存在でした。
この区間には私も行ったことがありました。確かにD51が多かったですが、中には珍しいD51も居りましたので、紹介しましょう。D51が最初はナメクジ(半流とも云う)と通称される、形態だったことは、御承知でしょう。100号までが、そうでした。だが中に例外があり、86~90号の浜松工場製の5輌は、普通の恰好をしていました。普通型なら珍しくないと云えば、それまででだが、二桁ナンバーのD51で普通型は、この5輌と考えれば、珍しいと云う訳。直江津区には、その1輌の88号機が在って、末広がりナンバーで、小生の好みでした。写真は、昭和43年8月17日に直江津で撮影の上り貨物列車です。
皆さまのように富山~直江津間の旧線で撮影したことはありませんでしたが、通過(但し夜間)したことはありました。また15年ほど前にローズとクリームに復刻された475系を撮っていますが、テーマとは異なるのでこれは割愛し、旧線にまつわる想いでをコメントします。
特急「白鳥」の能生停車騒ぎはお笑いでしたね。私は、停車情報を聞いた町長さんがてっきり営業停車だと勘違いしての騒ぎだと理解していましたが、金鉄局のミスだったとは本職のミスだけになんともお粗末な話ですね。当時は自働扉のDCやECはまだまだ少なく、開放可能な客車列車の時代でしたから所謂「運転停車」という概念が普及しておらず、事実DC急行でも本来停まらないはずの小駅での交換でも客扱いしていた例が殆どでした。そういう背景もあって白鳥のダイヤが本社から通達された際に金鉄局でミスが起きたのではと思います。
この区間の初乗車は昭和38年の春でした。当時関心を持ち始めていた信州のローカル線一筆書きの旅の途中でした。京都から山陰線~小浜線回りの敦賀行客レに乗り、敦賀22:16発の急行「日本海」に乗って深夜2時半頃に糸魚川までの乗車時でした。その後昭和42年頃に直江津19時頃発の大阪行き夜行で通過しています。さらにもう1回の乗車未遂アクシデントがありました。44年夏の北東北・北海道狂化合宿の帰りでした。均一周遊券通用25日の最終日に札幌から特急「北海」から白鳥に乗り継いで帰京する予定でしたが、小樽発車後に「親不知付近で土砂崩れがあり乗継の白鳥は運転未定です。詳細と案内は連絡船で」というアナウンスが流れ、連絡船乗船後に案内所に行くと「白鳥は運転されるが長岡止まりで以降の保証は無いが、東北線~東海道新幹線こだま号回りに変更するとそのまま乗車可能」とのこと。仕方がないので「はつかり」で上野~新幹線「こだま」に変更することにしたが、青森の窓口で聞くとはつかりの指定券はすべて売切れておりアウト。しかし同レで盛岡まで行くと10分後に始発の急行「いわて1号」があるので、盛岡まで2時間強をデッキに座って居眠っていました。京都に着いたのは本来の白鳥到着の凡そ1時間後で、新幹線の速さを身をもって体験しました。しかし昼間に今回のテーマ区間を乗れなかったのは今思うと口惜しかったですね。