駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈5〉

タブレットの授受 ①

駅には、列車の運転に関わる設備が多くありましたが、シンボルは、タブレットによる閉塞システムでしょう。単線区間で、これから進む区間には、ほかの列車が無く、進行を許可する“手形”の役割をしていて、駅の助役などが、運転士とタブレットの受け渡しを行なう光景を目にしたものです。列車が駅に停車する場合、運転室へ行って、タブレットの受け渡しができますが、通過の場合は、装置を使った受け渡しとなります。直接素手で受け渡すシーンもありましたが、駅に設置されているタブレットの授受器、車両側にもタブレット受け器を使用していました。初めてタブレットの授受を撮ったのは昭和43年8月、DRFCの狂化合宿で、花輪線龍ヶ森へ2泊3日のキャンプに行った時だった。午前中は峠の前後で撮影をするが、昼頃になると、みんな駅へ集まって、その日の食材の買い出しや昼食で、大更などへ向かって行った。駅の周囲は、商店どころか、家すら何もない原野で、食料調達や食事は列車移動が必須だった。私は駅でブラブラしていると、8620の牽く下りの貨物列車が停車するなか、ちょうど通過するのが、急行「第2みちのく」「陸中」で、タブレットの受け渡しを行った。今から思うと、花輪線に急行列車とは信じられないが、「第2みちのく」は、途中で併結して多層階列車となり、なんと上野まで向かっていた。上の写真は初日、左は2日目で、同じ列車を写している。一日しか違わないのに。初日は夏服。2日目は冬服、それほど東北の高原は涼しかった。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈4〉

改札口 ~江若鉄道写真展から

先日、湖西線近江今津駅近くのコミセンで、江若鉄道の写真展を行いました。期間中、湖西線50周年式典や夏祭りが現地で行われたこともあり、多くの皆さんにご来場いただきました。展示の写真を改めて見直すと、「改札口」テーマの写真が何点かありました。人が集まり、散って行く、改札口は写真テーマとして恰好なものがありました。本欄で発表済みもありますが、江若鉄道で見られた改札口のある光景です。和邇駅の改札口、太い木組みの改札口、右の方は、江若の嘱託社員のOさんで、推定年齢80歳前後で、江若の社員では最高齢だった。江若は、前日に営業を終えて、この日は招待客だけの「さよなら運転」の日だった。改札口に立つ必要もないのだが、Oさん、江若一筋の人生を思い起こすように、いつものように改札口に立っておられた。駅へ行くと、ずいぶん親切にしていただき、御礼も込めて、廃止後、Oさんの自宅まで、DRFCで作った江若のアルバムをお届けした。左のお年寄りも、いまは絶対見ないような和服姿、服装を見ると、改めて時代を感じる(昭和44年11月) 続きを読む

2024年夏、タイからラオスへ(その7最終回)

快速133列車は、クルンテープに30分ほど遅れて到着しました。タイでは長距離列車の遅延は織り込み済です。むしろこの程度で済んだのはまだまし、と言えます。ここからは沿線撮影です。▲普通261列車スアンソン行き サムセン

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈3〉

改札口

列車に乗るとき、必ず通るのが改札口でした。入鋏を受けて、ホームに出る。ここからは“有料地域”になりますから、いわば駅の結界のようなもので、ちょっと居住まいを正したものでした。いまは、都市部は自動改札、地方は無人駅化が進み、有人の改札口を見かけることもなくなりました。改札口を通して、見えてくる光景にも、心ときめかせた(昭和45年、加茂)。 ▲▲太い角材を組み上げた木製の改札口も多かった。長年の使い込みで飴色に輝いていた(昭和62年、大社)。

 

 

 

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2024年夏、タイからラオスへ(その6)

カムサワート駅に戻ると、心なしかラオス中国鉄道の駅に居るよりもホッとしました。
出国手続きの後、ホームで進入してきた列車を撮ります。ラオス中国鉄道と違ってこちらでは気兼ねなく撮影が出来ました。タイのノーンカーイの一つバンコク寄りのウドンターニーからの快速147列車が5両で入線してきました。▲ウドンターニーからの快速147列車は、ヴィエンチャンカムサワートに着くとすぐ機回しを行います。 続きを読む

 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈2〉

駅の売店

かつては、地方の駅にも待合室の一角に売店があったものです。新聞・週刊誌、タバコは代表商品で、菓子・パン、飲料水や酒類、土産まで、数百アイテムはある商品が所狭しと並べられていました。販売員の素早い対応もよくネタになり、阪神タイガースが勝った翌日の朝、スポーツ新聞を買い求める客のさばき方は、まさに名人芸でした。それが、“駅ナカ”の様相がすっかり変わり、売店もコンビニが進出、地方の駅では売店が全滅。駅へ降りても、活字情報も食べ物も何も得られない時代になりました。山陰本線がまだ地上を走っていた時代の二条駅、列車の到着まで余裕があると、売店の商品を見ながら時間をつぶしたものだ。鉄道弘済会の売店は、昭和初期に、上野駅東京駅で始まったそうで、事故で亡くなったりした国鉄職員の遺族に働き口を確保する目的があった。昭和48年に、売店の愛称が、Kiosk(キヨスク、一部ではキオスク)になった。

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2024年夏、タイからラオスへ(その5)

28日朝、起きると緑濃い平原の中を走っています。ほどなく乗務員が、寝台を解体
しにきました。上段にも客は居たようですが、途中で下車したようです。顔を見ることはありませんでした。定刻の6時25分、ノーンカーイに到着。約530キロを10時間掛かっているので早くはありませんが、997バーツ(約5千円)の値段を遥かに上回る快適な夜行特急でした。▲こちらはディーゼル急行76列車 キハ47のステンレスカーのような車両ですが、これでバンコクまで約9時間の乗り通すのはきついように思われます。いや、それを楽しみ、と捉えるか。

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 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈1〉

ホントたくさんの写真を撮ってきました。しかも数が減ったとは言え、今も増殖中です。試しに今までの撮影分を一日一枚ずつデジ青に載せていくと、完了までに480年間かかるという試算が出ました。その意味もあって、大海の一滴に過ぎませんが、一日一投、セッセと続けています。

むかし、故・沖中忠順さんが、OB会が写真提供した単行本の座談会に登場されて「37枚目の写真」の効用について語っておられました。「37枚目」、フィルム世代なら分かります。36枚撮りフィルムは少し余裕があって、もう一枚は余分に撮れました。ただ次の撮影もあって、何でもない光景を撮ってから、フィルム交換したものです。帳尻合わせで撮った適当な写真ゆえ、今まで顧みることもありませんでした。ところが、37枚目も100枚集まると、いくつかのテーマ性が出て来るのです。これも、たくさん撮ってきたからこそです。

その37枚目は、駅で撮ることがありました。撮影を終えて駅に戻り、ひと息ついて、つぎの列車に乗るまでの時間を利用して、フィルム交換したのでしょう。適当に撮った写真ですが、「駅」こそ、その時代を映す現場だったと思います。「駅」×「37枚目」の物語です。

「世保」と読める行き先案内、6番ホーム、側線には「あかつき」電源車のマヤ20、向こうにはED76も見える。そう、ここは深夜の鳥栖駅ホーム。前後の写真から判断して、鹿児島本線夜行鈍行の1122レに乗って鳥栖に4:25着、4:53発の佐世保行き425Dを待っているところと判明した。左の25・55系DCが、その425Dかも知れない。なお6:10と読める行き先案内は急行「西海1号」のもの。網がかけられた手小荷物も一緒に載せられるのだろうか。起き抜けで、まだ朦朧とした自分の姿も想像できるような「37枚目」だった(昭和45年9月)。

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 都電も定点対比してみる 3 ~路面電車あれこれ噺 (24)

上野駅前から須田町へ

上野駅前を出た須田町方面行きの都電は、山手線などのガードをくぐると、左に折れて、中央通りを南下します。西側には上野公園や京成上野駅があり、曲がるとすぐに「上野公園前」の電停がありました。

「上野公園前」を発車して行く都電、背後の建物は、上野名物の「聚楽」、和洋中華なんでもありのファミレスの元祖だったが、2008年に廃業した(以下、昭和44年9月)。

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2024年夏、タイからラオスへ(その4)

▲クルンテープ駅で発車を待つノーンカーイ行き特急25列車

クルンテープは高架の巨大駅でしたが、発車直前の決まった時間でしか改札しないのでホームに入れません。ホワランポーン駅の時代はあらゆる列車を好き勝手に撮ることが出来ましたが、これは痛いです。もっとも発車直前に改札し、乗り込むスタイルは、かつての国鉄優等列車や中国も同じです。構内をうろうろしてさまざまな列車を撮影することが出来なくなってました。入場券を買えばうろうろ出来るのかも知れませんが、今回は分かりませんでした。もっとリサーチが必要です。 続きを読む

2024年夏、タイからラオスへ(その2)

2024年7月26日、MM091便は、定刻通り19時15分に関西空港を離陸、10分程早着の23時45分にはバンコクスワンナプーム国際空港に到着しました。日本とタイとは2時間の時差があります。大阪を出る前に夕ご飯は食べていたのですが、あまりに腹が減ったので、空港でタイ風の焼きそばとコーラを食したのですが380バーツ(約1900円)もします。いくら円安といってもここまでとは、と驚きましたが、これは空港価格で、市中ではそれほどでもなかったので少し安堵しました。

▲巨大空港スワンナプーム国際空港 朝方なのでだいぶ人が抜けていますが、夜中はベンチの殆どで人が仮眠していました。私もその中の一人に。

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 都電も定点対比してみる 2 ~路面電車あれこれ噺 (23)

上野駅前

昭和の時代、東北・北海道からの帰途は、必ず夜行に乗って上野に着いたものです。その日は帰るだけ、節約のため、在来線に残っていた急行で帰ったとしても、まだ時間の余裕があります。そんな時、上野駅の周辺で都電を撮るのが、格好の時間調整でした(以下、昭和46・47年撮影)。この時期、「上野駅前」では、浅草通り・中央通りを行く24・30系統と、昭和通りを行く21系統が交差していた。写真の中央2線が24・30系統で、手前方は中央通りを通って須田町方面に向かう。向こう方は右に折れていて浅草方面に向かっている。あと右に2線が見える。これは昭和通りを三ノ輪橋~水天宮を結ぶ21系統が発着していた。両系統を連絡する渡りはなく、交差したあと4線が並行して、3面4線の電停となった。

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7年半のトレインビューを振り返って 7

⑦ 夏季早朝撮影可能貨物
M250系はモーダルシフトの推進を目的に、2002年から走り出した16両編成電車貨物列車。愛称は「スーパーレールカーゴ」の佐川急便(SAGAWA EXPRESS)専用車。下りは51列車で東京貨物ターミナル(23:14発)~大阪の安治川口(翌5:26着)間を6時間少しで結ぶ。上り下りとも日曜発は運休になる。

撮影:2017年5月20日

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コメント画像の不具合

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・空白部分をクリックすると、拡大画像は表示される(画像外の部分をクリックすると元の画面に戻る)

該当プラグインを中心に原因を調べておりますが、今現在修正が難しい状況です。
利用者の方にはご迷惑をおかけしておりますが、上記ご了承のほどよろしくお願いします。

 都電も定点対比してみる 1 ~路面電車あれこれ噺 (22)

京都、大阪と来れば、つぎは東京しかないでしょう。はい、先日もネタ仕込みに行って来ました。京都のように縦横がきっちり決まっていて、曲がる時でも90度にしか曲がらない律儀な路線に比して、放射状に、好き勝手に路線を延長したような東京は、なかなか馴染めませんでした。旅の途中、列車待ちの間に撮った程度で、乗車したことは数えるほどしかありません。それでも、段階的に廃止が進んでくると、腰を据えて撮ったことがありました(以下、都電は昭和46年2月撮影)。

まずは日本の道路の起点となる「日本橋」へ。東海道など五街道すべてが日本橋を起点として、全国から人が集まり賑わいを呈した。現在も架かる石造りアーチの日本橋は、1911年にできた。市電(のちの都電)も同時に開業し、軌道の中心に架線柱を兼ねた「道路元標」が設置された(のちに移設)。その後、昭和38年に日本橋の直上に首都高速道路が通って、都電時代の姿になった。日本橋のある中央通を行くと銀座線とつながっていて、栄えある1系統(品川駅前~上野駅前)も走っていたが、銀座線は昭和42年に廃止されていて、撮影時は、次の「通三丁目」で線路はぷっつり切れていて、19系統、20系統、22系統が走っていた。▲▲現在の日本橋、背後のビルが全く変わらないのに驚いた。長年叫ばれて来た首都高速の地下化は、解体工事の様子がテレビ番組でも紹介されるなど進捗してきた。

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 大阪駅前 65年前と今(下) ~路面電車あれこれ噺 (22)

大阪駅前の中央郵便局跡の今昔対比に続いて、本家の大阪駅前の対比に移ります。(市電時代の写真は、特記以外、すべて昭和31年、藤原寛様撮影)市電が走っていた頃の大阪駅(右)は3代目で、戦前の昭和15年の3階建て建築、4、5階にホテルが計画されていたが資材難で中止、戦後もそのままの姿で武骨な姿を見せていた。東京駅は煉瓦造りの歴史的な建築、京都駅はシャープな近代建築なのに、なぜ大阪だけが古臭い姿をさらしているのかと思ったものだ。さらに市電も、京都のようなターミナル方式ではなく、通過式で、安全地帯以外の設備もなく、単なる乗降の多い電停に過ぎなかった。車両は1001形1038号、大正時代に製造の大型木造車、深い屋根、アーチ状の側面窓と、優美なスタイルだった。▲▲現在の4代目大阪駅、当初の昭和58年完成のアクティ大阪の本体建築に、のちに南面に大丸梅田店などが増床されたため、駅全体が前へ張り出している。奥は前回紹介のJPタワー。

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 送り火に京都市電を想う~路面電車あれこれ噺〈21〉

昨日16日は、京都では大文字の送り火の日でした。小さい頃から、慣れ親しんできた行事は、暑い夏も、朝夕は少しは涼しくなる季節の変わり目、また小学生の頃なら、そろそろ宿題も気になる、それがDRFCの現役時代なら、送り火を見届けてから、北海道などへ1ヵ月近い撮影旅行に出かけると言った節目ともなる行事、長じてこの歳になると、亡き人を送る宗教的な行事としての気持ちも持ったものでした。「大文字と市電」、むずかしいテーマだった。点火の20時台、撮影適地の今出川線百万遍~銀閣寺前の市電は8~10分ヘッドだったと思う。点火後、最初の白煙がなくなり、太い炎だけになるのは10分程度。その間に市電が来たとしても、クルマに邪魔されず撮れるかが大問題。そこで選んだのは「北白川」の安全地帯、ただ考えるのは誰も同じで、前方は撮影者が占めている。安全地帯のいちばん後ろに陣取って、銀閣寺方面の電車が停車したのを幸いに、その後部から軌道に一瞬飛び出して撮影する、決死の行動だった。今出川線の廃止が昭和51年3月、これを撮った昭和50年の8月16日が最後だった。

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 大阪駅前 65年前と今 (上) ~路面電車あれこれ噺⑳

中央郵便局とJPタワー

一昨日、大阪へ行く用件があり、まず梅田へ行って、先ごろ同時開業したJPタワーやイノゲート大阪を見学して来ました。大阪駅の西側で進められてきた再開発事業で、JPタワーは、かつての大阪中央郵便局の跡地に当たります。まだ市電が大阪駅前を走っていた時代、周囲に大きなビルがなく、中央郵便局は実に大きく見えた(昭和35年4月、中島忠夫撮影)。市電は861形のラストナンバー867号、一部が2601形に改造された。▲▲左は現在の同地点との対比、もう比べるべくもないが、中央郵便局の跡地に建つ地上40階建てのJPタワーで、6階まで商業施設“KITTE”が入居する。

 

 

 

 

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