ここらで ボンネットバス  近畿編 〈5〉

京阪バス⑤ 「おいでやす」再び定観に

定期観光50周年を記念して、当時のカラーに復元された「おいでやす京都号」は、京阪バスでただ1台生き残ったボンネットバスで、定観の役目を終えたあとも、事業用の白ナンバーとなって、昭和50年代の後半まで生き延びます。これで終わりと思っていたら、また救いの手が差し伸ばされます。なんと、元の京阪バスカラーに戻されて、再び定期観光バスとして京都を走り始めました(以下、昭和62年11月)。 二条城の周囲を回る、京阪バスカラーのボンネットバス。昭和60年代になって、突然、京都市内で見られるようになった。昭和62年、京都で第一回世界歴史都市会議が開かれて、そのイベントとして、伏見区のパルスプラザで同年の11月8~29日に「世界歴史都市博覧会」が開かれ、その送客を兼ねて、三条京阪、京都駅前から二条城、金閣寺を回り、パルスプラザへ向かうものだった。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈4〉

京阪バス④  定期観光バスで復活

京都、滋賀、大阪、3府県の京阪バスのボンネットバスの活躍は、昭和51年9月で終了しますが、そのあと京都市内で、定期観光の貸切としてボンネットバスが復活することになります。ちょうど東海バス「伊豆の踊子」号をはじめ、観光資源としてのボンネットバスに着目され始めた頃でした(以下、昭和53年)。大津営業所の「滋2い887」が、路線バスとして用途廃止された昭和51年9月に、事業用の白ナンバーとして、「京22や180」に改番され、京都営業所に転属した。以前同所に所属の「京22や‥6」と同様、乗務員の移送、社内部品の輸送に使われたが、昭和53年3月に京都の定期観光バスが50周年を迎えるのを記念して、営業用に復活することになった。「京22か19-81」の緑ナンバーとなり、車内のシートも改装された。外部塗装も昭和3年に、定期観光が始まった頃の塗装に復刻され、上部が濃いクリーム、下部がグリーン、ボンネット部が紺、窓枠は茶に塗装され、「おいでやす京都号」の愛称がついた。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈3〉

京阪バス③ 大阪

大阪府下で最後のボンネットバス路線も、やはり京阪バスでした。発着していたのは、中心部の淀屋橋から20分乗車の京阪大和田駅です。狭くて賑やかな大阪の典型的な駅前から、昭和51年9月まで、ボンネットバスが発着していたのです(以下、昭0年5月)。京阪大和田駅に発着する京阪バスのボンネット「大阪22あ15-00」、駅はまだ地上線の時代、高架工事中の仮駅を通過する3000系特急のすぐ横をボンネットバスが発着していた。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈2〉

京阪バス(2) 滋賀

つぎは滋賀県下の京阪バスへ。大津駅の近くにあった大津営業所のボンネットバスは、昭和50年初頭には3台が在籍、ほかにも興味深いバスがいて、浜大津のバスターミナルへ何回か撮影に出かけたものでした(以下。昭和50年撮影)。浜大津をターミナルとして、3台のボンネットが活躍していた。ほとんどの時間帯、ボンネットバスが見られ、狭隘区間のある長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅の系統で使われ、ほかにも石山駅~曽束でも使われていた。「滋2い・888」昭和40年式いすゞBXD30 帝国ボデー

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KE52

ネタに窮すると、つい総本家青信号特派員氏の記事に頼ってしまう。「鉄道少年の時代に戻ってみる〈7〉」の山科のカーブを行くつばめ号の何と美しいことか。ブレーキホースや元ダメホース、KE3ジャンパ栓等が、10日後の西下の準備も万端であることを物語っている。「せっかく連結器にカバーをつけてまで見た目に拘っているのに」とお嘆きの方もいらっしゃるかもしれないが、連結解放により輸送需要に対応できるのは他の交通機関に真似のできない鉄道の最大の長所であると思っている。それだけに連結面はとても興味深く、ついつい見入ってしまうものである。

実は、私もつばめを撮影したことがある。

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7年半のトレインビューを振り返って 6

⑥ 見られなくなった車輌
7年半の間には車輌更新やダイヤ変更などがあり、いまでは見られなくなった車輌がある。一番はEF66だろう。引っ越した当初の2017年はレアながらも比較的良く見かけた。朝、貨物のスジの多い時間帯には確率が高まった。

撮影:2017年4月4日

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈1〉

古い鉄道ネタばかり続きました。目先を変えて、バスについて記すことにしました。ボンネットバスのあれこれです。昭和50年代前半、ポスト蒸機・京都市電として、鉄道ネタよりも、ボンネットバスに傾注していました。この時代、別に地方へ行かなくても、京都や滋賀でボンネットバスを見ることができました。もう50年近くが経つと、蒸機も市電もボンネットバスも、ひと塊の思い出としてよみがえります。まずは近畿地方を走ったバスを、府県別、バス会社別に見て行くことにします。

京阪バス① 京都

京都、大阪、滋賀でバス輸送を担っている京阪バスには、かつて、それぞれの府県でボンネットバスが走っていました。京都では、山科区にある京都営業所に、昭和50年初頭には、3台のボンネットバスが使われていました。うち2台は営業用の緑ナンバー、1台は事業用の白ナンバーのバスでした(以下、昭和49、50年撮影)。

山科を走っていた京阪バスのボンネットバス、山科区内の渋谷街道の狭隘区間を走るボンネットならではの区間で、京都では最後の路線バスとして、昭和50年ごろまで活躍が見られた。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈7〉

新幹線開業前の山科で撮る(1)

今までの「鉄道少年」の時代は、昭和39年のことですが、この年には、東海道新幹線の開業がありました。天下の東海道本線の輸送体系が一夜で全く変わってしまう歴史的な日が迫っていて、夏休みを終えた中学3年生も記録に忙しい毎日です。新幹線の開業を10日後に控えた山科の大築堤を行き交った列車を見てもらいます(以下、昭和39年9月20日、一部掲載済み)。新幹線開業で、151系の電車特急7往復すべてがなくなるのが、大きなニュースだった。151系「こだま」が登場したのは昭和33年、旺盛な輸送需要に「つばめ」「はと」「富士」が相次いで登場した。いっぽうで、新設の交流電化の広軌鉄道を建設し、抜本的な改善をするため、昭和34年に東海道新幹線が起工された。東海道本線では、電車特急の増備を続けながら、新幹線の建設を進める二重投資をしていたわけだが、それほど輸送力の改善が急務だった。「つばめ」のヘッドマークは、ほかは白地にスミ文字のシンプルなものだが、「つばめ」だけは上下のバック地がグレーになって由緒正しき「つばめ」の矜持に感じられた。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (4)

高島市「琵琶湖に沿って~思い出の江若鉄道」写真展 終了しました

7月19日より、湖西線近江今津駅近く、高島市の今津東コミュニティセンターで開催していました、湖西線開業50周年、江若鉄道廃止55周年記念「琵琶湖に沿って~思い出の江若鉄道」写真展は、去る8月1日に滞りなく千秋楽を迎えました。ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。14日間の開催期間、多くの皆さんに来ていただきました。手許の芳名録では約250名、無人の時間帯もあり、正確なカウントは出来ていませんが、実際は1000名超と思われます。会場の今津東コミセン館長からは“館が始まって以来の人出”と驚きの声。地元の皆さんが親身になって、広報、拡散に当たっていただいたお陰です。私にとっての今津は、何の地縁もないところ、それだけに地元の皆さんの応援なしでは出来得なかった写真展でした。

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ただ今整理中 こんなんが出てきました

引っ越しとはこんなに煩わしいモノかと、この歳になってつくづく思い知らされました。

家内のケガや病気が重なったこともあって共用スペースの整理を優先したため、私の部屋は未だに段ボールの山。
皆さんの投稿を見るにつけても心ははやりますが、どの箱に何が入っているのかが判らず、本棚が20日頃まで来ないこともあって休止状態です。
そんな中、準特急さんからは「早く書け!サッサと書かないと縁を切る」と言われて焦りまくりです。道理の通じる方ではないので何とか材料を作ったのがこれです。

若い会員はあまり使ったことはないでしょうが我々が現役時代はこれが命、これなしでは長期の旅行など出来ない時代でした。一泊二食付き800円はありがたい限りでした。

ユースホステルの会員証が出てきました。
皆様方の泊まったことがあるホステルはありますか?

今日はこんなところでカンベンして下さい、準特急さん!

讃岐財田駅

讃岐財田駅は、1923(大正12)年5月21日に讃予線琴平~讃岐財田間(12.6km)の開業に伴って開設された駅である。北側の琴平駅の1889(明治22)年開業から遅れること34年、徳島線の佃信号場(当時)まで南進される6年前のことであった。

もう2ヶ月前ほどのことになるらしいが、築101年となる木造駅舎が改築されたことを、先日Youtubeで知った。香川県では高徳線の丹生駅に次ぐ2例目だそうである。ちょっと豪華なバス停(?)の趣きとなっており驚いたが、トイレも改築されており、利用者の方はもちろんのこと、保線作業関係者にも優しい改築となっていた。▲1983年3月31日、273レ(DF50 31号牽引)、讃岐財田駅3番線

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈6〉

山陰線、山口線に乗り、電化前の山陽本線へ

この記事作成用にスキャンした写真は、当時のDPE店で“サービス判”と呼ばれた、ごく小さなサイズですから、内容を読み取ることもなく、放置状態でした。改めて、記事にしてみると、写真からも当時の様子がよく分かりました。投稿することによって、自分の引き出しの数がまた増えました。さらに皆さんからコメントを頂戴し、自分でも気づいていなかったところまで分かり、まさに“デジ青”効果です。

山陰地方を訪れる一ヵ月前、「昭和39年7月山陰北陸豪雨」と命名された豪雨被害があり、とくに島根県東部は被害が甚大だった。一畑電鉄の立久惠線はこれがもとで廃止になった。山陰本線も各所で寸断され、つい数日前に全通したばかりだった。被害区間は普通列車のみの運転で、優等列車はすべて折り返し運転となった。乗車予定の準急「しんじ」(宇野~米子~博多)も、米子~石見大田が運休、山口線湯田まで行こうとして、運休区間を普通列車で移動し、やっと折返し列車の始発となる石見大田にたどり着き、「しんじ」に乗車した。太陽がガンガン照り付けて、列車は、貫通扉、乗務員扉まで、窓という窓はすべて開け放たれて、蒸し風呂の車内に風を入れようとしている。ホームにいる人たちは見送りなのだろうか、地方駅なのに、すごい人出だ(以下、昭和39年8月)。

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7年半のトレインビューを振り返って 5

⑤ 珍しい運転
雪が降りしきる午前中にカメラを構えていると、大きな地響きと雪けむりを巻き上げて、トワイライト塗装のEF65 1124が単機で通過した。「雪の中、どこへ行くのだろう?」と思っていたが、あとから「架線に付着した雪を取り払うために、重量のある電気機関車が投入される」と知った。

撮影:2017年1月15日


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広島から新聞ネタ2題

テレビをつければオリンピックばかり。かと言ってカメラを提げての「不要不急」の外出はご法度ということで、時間を持て余し気味の毎日です。皆様はどのようにこの猛暑のときを過ごされているのでしょうか?さて、いつものように新聞ネタでお邪魔します。まずは一畑電鉄の話題から。

令和6年7月31日 中国新聞朝刊

最終電車の運行を終えた遅い時間に、電車を運転してみたい人がどれくらい現れるのか気になりますが、地の利を活かして松江温泉のホテルか旅館と提携したパックツアーにすれば集客できるのではと思います。一畑百貨店も閉店し、苦しい経営が続いているものと思われますが、山陰地方唯一の私鉄としてがんばってほしいものです。

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ぶらり旅 岡山~広島 ①

昨年3月で一応仕事を卒業し 時々ぶらりと旅に出ています。JALのどこかにマイルで7月の2日から3日にかけて 羽田 広島往復となりました。せっかくなのでまず岡山へ寄り 夕方に広島へ行こうかと思いました。広島空港へは8:25着 9:05発の福山へのバスに乗り 10:10福山着。福山駅のホームに上がると 福塩線の電車がやってきました。黄色の105系電車 リニューアルされていますが3扉のオリジナル車です。後ろの福山城(伏見櫓)とのコラボが良く似合っています。(クモハ105-3)

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈5〉

山陰線の普通列車を乗り通す

“江若鉄道・湖西線”月間も、何とか乗り切ることができました。日常のデジ青生活に少しずつ戻ることにします。まずは「鉄道少年」を続けます。昭和39年の中学3年生、家族で山陰方面へ旅行した時の“窓から写した”シリーズです。乗った列車は、京都を早朝5:33発の普通列車の石見益田行きで、11時間余り乗り続けて玉造温泉まで行きました。 改めて時刻表を見ると、山陰本線は長距離鈍行の宝庫でした。京都発なら、石見益田行きだけでなく、発車順に門司、浜坂、鳥取、下関(夜行)、大阪発福知山線経由でも、浜田、米子、出雲市、大社(夜行)と、行き先がすべて異なる長距離鈍行が出ていました。

今回、ネガからスキャンしたものの、フィルムの劣化がさらに進行して目も当てられない惨状でした。そこで、プリントを新たにスキャンすることにしました。精度は劣りますが、キズだらけのネガスキャンよりはまだマシです。 長々としたタイフォンを響かせ、海沿いの鎧を通過して行く「白兎」 (以前の投稿から再掲)

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駅名喫茶店(第115回:都道府県別東西南北端の駅名)

日本最北端の駅といえば稚内、本州最南端の駅といえば串本。このあたりはすぐに思いつくが、滋賀県最西端の駅はどこかと聞かれたら少々戸惑うことと思います。今回は、各都道府県ごとに東西南北端の駅名をピックアップしてみました。

馴染みのない駅名も紹介できたことが良かったです。今夏、東西南北端の駅名を意識して、旅に出かけてみてはいかがでしょうか。

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MC24

「MC24」のMCはMaster Controllerの頭文字で、国鉄ディーゼル機関車DF50形の主幹制御器の形式名称である。

Wikipediaの「国鉄DF50形ディーゼル機関車」のページ(国鉄DF50形ディーゼル機関車 – Wikipedia)には次のように記載されており、雑誌やネット等でも長年にわたり引用されている。

「運転台の主幹制御器は、電気的な要素はなく一種の可変空気調圧器に類する構成で、制御空気圧の昇降を直接行い、電気的な制御は行わない。」

この文章の引用元は「鉄道ジャーナル 1979年12月号」P.83で、

「制御は電気指令でなく、空気圧力で行なうため、車端に総括用空気ホースがとりつけられている。したがって主幹制御器には電気要素は一切なく一種の可変空気調圧器的な要素を有するだけで、ノッチ区分(19ノッチ)もいわばキザミ的な役割にすぎず、中間ノッチも使用可能である。」と記載されており、特に何の問題も無いように思われる。

では、実際のMC24の内部をご覧ください。

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