④ 事業用車輌
国鉄443系~電気(架線)を検測する事業用交流直流両用電車、クモヤ443は昭和50(1975)年製造。583系を思わせる前面に何となく愛嬌があった。引っ越して間もない2017年~2019年頃には見ることが多かったが、次第に姿が見えなくなり、2021年7月15日付で廃車になった。後継車両はDEC741形(下)になる。
謎のメーター
三菱三原の保存DLが九州へ旅立ちました(速報)
三菱三原構内に保存されていました昭和26年製の三原製DLの初号機が本日福岡県筑紫野市に向けて旅立ちました。昭和26年にふそうバス、トラックの部品を多用して作られた5Ton機で、隣接する浅野セメント工場の構内入換え用として使われたのち、三菱糸崎工場で余生を送っていました。すぐ横に展示されていたC5776(三菱神戸製)は、鉄道車両工場のある和田沖工場構内に移設されましたが、この5Ton機はスクラップになる運命でした。幸いにも福岡県の㈱ワンマイルが運営されている「保存車両ヤード福岡」に引き取られることになりました。糸崎から一歩も出たことのない5Ton機が、九州に安住の地を得たことで、私も安堵しています。筑豊本線原田の次の駅、筑前山家駅の側線を利用した保存施設だそうです。すでに西鉄北九州線621号、西鉄北方線324号、筑豊電鉄2002号、加悦鉄道キハ51,鹿児島市交 花2号、国鉄検重車ケ15が保存されているそうです。OTOME様ほか九州在住の会員諸氏、機会があれば現地レポートを是非お願い致します。私も是非出かけようと思っております。
なお、報道関係者や鉄道マニアの誰も取材に来ておらず、三菱もあまり公開したくなかったような印象を受けました。
DF50 18号(その2)
終の棲家となると思われた「交通科学博物館」(1990年に交通科学館から改称)は、「梅小路蒸気機関車館」を拡張した「京都鉄道博物館」に統合されることとなり、2014(平成26)年4月6日限りで閉館されることとなった。DF50 18号機は、1990(平成2)年には弁天町駅北口の新設に伴い、当初の大阪環状線高架の東側から西側への移動があり、再び引っ越しを余儀なくされることとなった。▲2014年3月31日、交通科学博物館、大阪環状線には103系がまだ健在だった頃
静鉄1000形最後の日に立ち会う
2024年6月30日、静岡鉄道1000形が引退しました。
この日だけはなんとしても静岡に帰ると前々からスケジュールをおさえ、無事に立ち会うことができました。
いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (3)
大津市歴史博物館で「わたしの湖西線」
奈良の駅名研究家さんからも予告していただいたように、本日20日(土)から、大津市歴史博物館で湖西線開業50周年企画展「わたしの湖西線」が開催されます。昨日は今津、今日は大津と、「琵琶湖周航の歌」のように2日連続の催事スタートです。
湖西線開業50周年記念 企画展「わたしの湖西線」
2024年7月20日(土)~9月1日(日) 9:00~17:00 (入場は16:30まで)
大津市歴史博物館 企画展示室
・休館日 月曜日(8/12を除く)、8月8日(木)正午以降、8月13日(火)
・アクセス 京阪電鉄 石山坂本線「大津市役所前」駅下車徒歩5分、
JR湖西線「大津京」駅下車徒歩15分
▲開業日の昭和49年7月20日、トンネルを抜け築堤を快走する113系700番台車。湖西線は踏切なしの全線高架複線の高規格線であることはよく知られているが、車両においても、走っていた113系、153系は全車冷房化されていた。当時、ほかの国電区間でも完全冷房化の線区はなく、車両設備においても先端の線区だった。
駅名喫茶店(第114回:開業50周年を迎えた湖西線の駅名)
本日、7月20日で湖西線は開業50周年を迎えました。大津市歴史博物館での企画展「わたしの湖西線」も本日からです。https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/2405_k95.html
路線名もシンプルかつ明瞭で素晴らしい。新規駅名もそうであってほしいと思います。
いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (2)
つぎつぎやります! と言っておきながら。前回の(1)から一ヵ月半が経過し、「やってへんやんか」と言われそうですが、いえいえ、報告が遅れただけです。一人で黙々と準備を進めていました。気がついたら、本日から、つぎの催事の開催となりました。
江若鉄道廃線55年 湖西線開業50周年
写真展「琵琶湖に沿って~思い出の江若鉄道」
会期 7月19日(金)~8月1日(木)
9:00~22:00 (期間中無休)
会場 今津東コミュニティセンター1階展示ホール(JR湖西線 近江今津駅下車)
▲写真展会場の最寄り駅、近江今津に掲げられた「湖西線開通50周年」のフライヤー、113系2700番台も忠実に再現された。「あと2日」は、今津にとって重要な意味を持っている。
7年半のトレインビューを振り返って 3
③ 配給車輌(電車・機関車牽引)
主に車両工場と車両基地との間で、保守部品などを配送するために使用される事業用車両を配給車と言って車両記号は「ル」である。クモル145形・クル144形には1回だけ遭遇したことがある。1979年から1981年まで101系を改造して造られた配給電車は、晩年には配給車として部品輸送に当たることはなく、主に牽引車代用として構内での入換に使用されていた。同形式は2021年11月に廃車となる。
第10回写真展 Web版
2024年3月20日から26日まで京都四条祇園にある「ぎゃらりい西利」で開催されました。この写真展をWeb上で開催いたしますので、都合によりお越しいただけなかった方はじっくりとご覧ください。いつものように「鉄路輝く」と、今回はもう一つ「まちとまちをつなぐローカルな鉄道」というテーマで展示を行いました。また会員でご逝去された方がおられます。公開に差し支えない方の作品を「あのひと あの頃」として 展示いたしました。
それぞれの作品をご鑑賞ください。
第10回写真展 まちとまちをつなぐローカルな鉄道
今回の第10回写真展のもう一つのテーマは「まちとまちをつなぐローカルな鉄道」です。最近はローカル線が話題になりますが、写真展のテーマとしては難しいモノだと思います。そのことについて会員から問い合わせがあり、そこでデジ青に以下の内容を訴えて、応募依頼をしたのです。
「ローカルな鉄道」は人間の体で例えると毛細血管のような鉄道。太い動脈があっても毛細血管がないと人間の体の維持ができないのだ。そのようなイメージでこのテーマを考えれば何のことはない。撮りためた写真から、また最新作までどんどん応募を。特に新作をお待ちしておりますぞ!
ところで応募数の結果は49点の応募となりました。これで一安心・・・
その49点の写真をよくご覧あれ!
これからの写真またはキャプションをクリックすると大きい画面になり、画面上の「<」や「>」をクリックすると移動します。どの写真からでも見ることができますので気にいった写真からご覧ください。
第10回写真展 鉄路輝く
「鉄路輝く」はいつもハッとするような写真に驚かされる。今回はどうかな。あなたのハッとするような写真を見つけてください。
これからの写真またはキャプションをクリックすると大きい画面になり、画面上の「<」や「>」をクリックすると移動します。どの写真からでも見ることができますので気にいった写真からご覧ください。
第10回写真展 あのひと あの頃
思い出になってしまったひと。そのひとのあの頃を・・・
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広電 1900引退セレモニー 他
まずは 涌田浩氏の訃報に接し、お世話になった先輩諸氏が一人、また一人と旅立たれるのが寂しくてなりません。穏やかな語り口とにこやかな表情が忘れられません。丁度10年前のクローバー会広島ツアーの前日に、I氏と3人で夜が更けるまで伊予鉄松山市内線を撮りながら歩いた思い出が強烈です。心よりお悔み申し上げます。
広電1902と1903の引退セレモニーが昨日、千田車庫で行われました。私はあいにく行けませんでしたが、中国新聞記事の引用でご報告します。
15両が並んだ圧巻を現地で見たかったです。残る13両は当面現役で残るようですが、次第に出番が少なくなることでしょう。広島新駅に乗り入れる1900を早く見たいものです。
駅名喫茶店(第113回:現存する駅名で最も古い「新〇〇」は何処なのか)
現存する駅名の中で「新」を冠する駅名を集結させました。「新〇〇」でもっとも「古い」駅名は何処なのか。独自で調査してみました。
ただし、新橋や新宿など「新」を除くと駅名(地名もOK)として成立しないものは対象外です。また、現存する駅名に限定したため、新名古屋(現 名鉄名古屋)や新一宮(現 名鉄一宮)のような消滅した駅名も調査対象外です。
DF50 18号機(その1)
総本家青信号特派員氏の「交通科学館」のC53 45号の写真を拝見した。実見したことはあるものの、C53を懐かしめる世代ではない。ただ、バックに写る建物の波型鋼のような屋根に妙に懐かしさを覚えた。図書室には、一時大変お世話になった。ここにあった資料は、恐らく「京都鉄道博物館」にあるのだろうが、未だ行ったことがないので、よくわからない。▲交通科学博物館(2014年3月31日)
今回は、この「交通科学館」に展示、保存されていたDF50 18号機について綴ってみたいと思う。
スクラップブック 事件・事故編・第17回
永らくご無沙汰を致しました。
この度、復活致しました。
その間、会員の皆様より「生きてるのか?」「死んだのなら連絡しろ!」などと暖かい励ましのメールを頂き、会員であった喜びを再確認しつつむせび泣いておりました。この度諸般の用事を片付けて投稿を再開することになりました。と、言っても新しいものは何もなく、古い話題での再出発です。取りあえず準備していたスクラップブック事件・事故シリーズの最終回をご覧下さい。
〈本編の編集中に、涌田浩氏の訃報に接しました。
彼は物静かでありながら知識は豊富で、なおかつ会員としての行動力もあり、よく行事で行動を共にしておりました。最後にお目にかかったのは伊賀電鉄へ行った時です。
この歳になると世の無常をひしひしと感じます。
心よりご冥福をお祈りすると共にご家族に哀悼の意を表します。〉
鉄道少年の時代に戻ってみる 〈4〉
叡電を撮る
小さい頃の身近な鉄道と言えば、すぐ近くの京都市電に尽きますが、余りにも身近すぎて、撮影の対象ではありませんでした。“やっぱり専用軌道を走る、大きな電車を撮りたい”。となると“叡電”に行き着きます。ひとつの行政区内で完結する珍しい鉄道であり、徒歩圏内で始発駅に行けるとあって、中学生になると、よく出掛けることになります。懸賞でカメラが当たったことがあり、喜び勇んで行ったものの、目も当てられない酷い写りで、さすがに公開は気が引け、何とかマシなものに限定して見ていただきます。
▲叡電宝ヶ池駅の南にある修学院7号踏切。ポール姿のデナ21が出町柳方面へ向かって行く。比叡山の山麓には青々とした田圃が広がっていた。その後、急激に市街地化が進み、当時は修学院までだった白川通が延長されて、叡電を乗り越す高架橋もできて、同じ地点から見る光景は激変してしまった(以下、昭和39年8月)。
7年半のトレインビューを振り返って 2
② 回送(北びわこ号)
引っ越しから2ヵ月ほど経った3月の土曜日。買い物から帰った家内が「踏切にたくさんの人がカメラを構えている」と伝えてくれた。私はそれまで「調子踏切」のことを知らなかった。「何か珍しい電車でも走るのかなぁ」と私は椅子とデジカメを窓際に置いた。30分ほどしてEF65に牽かれた12系客車がゆっくりと走って来た。
北びわこ号は1995年から2019年11月までの観光シーズンに米原~木ノ本間を走っていた列車。牽引は主に梅小路区のC56160が担当し、客車は宮原区の12系5両が任務についた。北びわこ号運転の前日に、EF65牽引で12系が回送されてきた。
上りの通過時間は13時台で自宅や調子踏切からは半逆光だったが、上手く収められた。5両編成の最後にテールマークがついているのが、イベント列車らしく華やいだ気持ちになった。反対に運転を終えて12系5両が宮原へ戻る姿は1度だけ17時台に見たことがある。
北びわこ号回送以外にも2020年ごろまでは、ほかの地域を走っている電車や列車が自力で回送する姿が見られた。普段見ることが出来ない電車は、例えそれが回送であっても、ワクワクしたものだ。下の写真は和歌山地域色(であろう)のモハ105系。(続く)
鉄道少年の時代に戻ってみる 〈3〉
開館した交通科学館へ
昭和37(1962)年1月、大阪環状線弁天町駅前に、交通科学館が開館しました。小さい頃から、東京には交通博物館があるのに、なぜ関西には無いのかと、いつも恨めしく思っていた私にとっては待望の開館で、その直後に見に行きました。当初の予定では、昭和36年に開館と新聞で知り、勇んで行ったものの、工事中で見ることができませんでした。あとで分かったことは、この年の第二室戸台風の被害で、工期が遅れていたとのこと、それだけに待望の開館でした。▲中庭に展示されたC5345、最終のC53廃車機に当たり、解体予定のところが変更されて、教習用として国鉄吹田教習所に展示されていた。交通科学館の構想が上がり、同館の目玉として展示することになり、鷹取工場で、自走可能な状態に復元工事が行われた。しかも本線で客車を牽いて、鷹取~吹田で二日間公開運転された。そのあと、龍華から大阪臨港線の大阪港まで自走し、そこから陸送で、交通科学館に収まったと言う。ただ現役時代のC53を知らない小学校6年生にとっては、三気筒の歴史的な名機と言われても理解できず、デフが無いのは、日頃見るC51やC57と決定的に違い、どうしても馴染めなかった。