駅名喫茶店(第95回:「新快速」が停車する駅名)

94度も開店しておきながら、意外と触れていなかったテーマが「新快速」です。奈良に住んでいると「新快速」とは縁もゆかりもないのです。種別が誕生してから、今年で53年を迎えました。もはや「新」しくはありませんが、固有名詞として存在すべき立派な種別です(ひょっとして、最新版の広辞苑には掲載されている?)。

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広島通信(その2) 山陽本線海田市・天神川間の高架化工事

山陽本線の海田市・天神川(広島貨物ターミナル)間には山陽本線上下線、広島貨物ターミナルへの出入りのための上下貨物線、そして呉線上り列車が山陽本線下り線をオーバークロスする渡り線があり、列車本数が多い区間なのですが、踏切が多くあり、開かずの踏切が以前から問題になっていました。そこで海田市・天神川間を高架にすべく大規模な工事が始まっています。その丁度中間にあるのが向洋(むかいなだ)駅です。この地は広島市内ではなく、マツダ本社があるがゆえに広島市とは合併せず、安芸郡海田町で通している財政豊かな町です。工事はまず在来線を北側に移設し、山陽本線を在来線跡地に高架化し、貨物線は多分地上に残すのではないかと思います。すでに向洋駅の上りホームは北側の仮設上り線側に移設されています。11月25日、向洋駅周辺の工事の様子を見てきました。

工事完了予定は3年後の令和8年10月のようです。

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青信号50号はDF50573でした。

準特急さんにより各地で活躍したDF50の記事が続いていて楽しませてもらっています。DF50機関車はキハ55系気動車と同じように国鉄車輛近代化転換期に登場しましたが地味な存在でした。端正な車体でED70とともに好きな機関車でした。塗色が変わったころは客車もブルーに変わったころでともに亀山駅で初めて見たのを思い出します。
50号の表紙は題が「なごり雪」で1981(昭和56)年3月2日土讃本線雪の坪尻駅となっています。ガリ版刷りからタイプ印刷にグレードアップしたと中島禎孝会長が巻頭に書いておらqれ1983(昭和58年)11月26日の発行でした。

スクラップブック 事件・事故編・第4回

事件や事故も続くと飽きてくるらしい。
反応もイマイチだが、読んでは頂いているようで気を取り直している。
今回は1961年のダイヤ改正から年末へと進める。
この年は「36.10」で新DC特急が走り出す年である。しかし・・・

1961,9,3

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DF50思い出写真(6)篠ノ井線・中央本線

前回の北陸線同様に、殆んど撮ったことのない路線を紹介する。しばらくこのような路線が続くがご容赦願いたい。

1965年7月16日名古屋23時11分発長野行き準急「おんたけ」に乗車。翌7月17日篠ノ井に5時37分着。ここで6時13分着名古屋発準急「きそ」牽引のDF505[長野]+DF506[長野]+D51を撮る。「きそ」は足回りが見えないホームの向こう側に入線していい写真が撮れず失敗。▼

折り返しDD5133の新宿行き428列車で篠ノ井線の姨捨に向う。上下D51貨物の後に新宿発長野行きDF50重連準急「上高地」を撮る。この列車は松本から篠ノ井線内は普通列車となる。1965.7.17姨捨-稲荷山を下る準急「上高地」くずれ長野行き普通列車。▼

富士山をバックにした中央本線小淵沢-信濃境間を行くDF506[長野]を先頭とする新宿7時発松本12時33分着の準急「穂高1号」が行く。よくデジ青に投稿下さる村樫四郎様の写真である。▼

長野区のスルザー形若番は1959年に敦賀一区から長野区へ移り、その後1966年に亀山区へ移り1977年から1978年にかけて同区で廃車されたものが多い。

 

会誌『青信号』が完成しました

現役生会長です。

この度、会誌『青信号』77号が完成しました。2019年以来、4年ぶりの発行です。77号の発行が実現できたのは、執筆に携わった会員の他、印刷をしてくださったプリントステーションの皆さま、私どもにノウハウを教えてくださったOBの皆さまのおかげです。また、発行を楽しみに待っていてくださった皆さまのおかげでもあります。この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。

77号のテーマは、復刊を記念して再発進とし、会員の自由投稿をメインとしています。バックナンバーと比較すると、拙い箇所も多々あるかと存じますが、お読み頂いた皆さまの、鉄道の魅力発見につながれば幸いです。

『青信号』77号ですが、バックナンバーと併せて同志社 EVEでも販売いたします。是非、お買い求めください。尚、オンラインでの予約については、同志社 EVE終了後を予定しております。

上毛電鉄デハ101に乗る

11月11日(土)京王9ミリ会という趣味の団体によるバスツアーに参加して久しぶりに1928(昭和3)年製の釣り掛け電車の音を堪能してきた。このツアーには藤本哲男さんも参加され知らない人が多い中で心強いばかりであった。京王自動車の貸し切り観光バスの車内では何と小田急のロマンスカーの下敷きも配布され、この会は小田急の同類の会と親交があるように感じた。車庫のある大胡からデハ101に乗車し大胡→西桐生→中央前橋→大胡と全線を走破した。貸し切り電車の運行ダイヤの都合か西桐生のホームのベンチで上毛弁当を30分足らずで食べさらにこの日は上州名物の空っ風も吹いて難儀した。▼

デハ101はイベント車両として活躍中で既に乗られた方もおられると思うが私は始めての乗車であった。板張りの床の点検蓋からは走行中の地面が見えたのは久しぶりの体験である。神戸川崎車輛製デハ101 ▼

上毛電鉄は東武の関連会社であるが、現在営業に使用されている車両は元京王井の頭線の3000系である700系ばかり。このツアーでは列車撮影が計画されていなかったので、2018.12.1樋越-大胡間で撮ったクハ724+デハ714の中央前橋行きとクハ724の譲渡前の1969.5.23撮影の京王井の頭線時代のクハ3709を載せた。上毛の700系もそろそろ廃車となるらしいが次は東京メトロのようだ。▼

井の頭公園を出て終点吉祥寺に向う4連時代のクハ3709▼

 

駅名喫茶店(第94回:大相撲が開催される会場の最寄り駅名)

筆者は、たまに大相撲をテレビ観戦します。速ければ数秒で勝負がつく数少ないスポーツ、いや国技です。その数秒にかける熱き思いが画面上から伝わってきます。

一度、現地観戦がしたいと春場所のチケットを入手したのですが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため無観客試合となりました。

奇数月に開催される大相撲に今回は注目しましょう。

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今週末は EVE です!

現役生会長です。

11月26日 (日)~28日 (火)は、今出川校地にて同志社EVEが開催され、当会も出店いたします。今年は新町レイアウトや会員保有の鉄道グッズの展示、写真展(スライドショーでの投影)の他、『青信号』の販売も行います。また、カレー店 ガーネッシュ様のYouTube動画の投影も行います。

昨年の展示の様子 (新町レイアウト)

展示教室は良心館104教室、時間は26日 (日) と27日 (月) が10:00~18:00、28日(火)が10:00~16:00です。会員一同、皆さまのご来場を心よりお待ちしています。

 西のC59・C62 全記録   (2)

昭和41(1966)年8月 再び呉線へ

初めて呉線へ行ってから、5ヵ月後に、早くも二回目の呉線行きとなりました。初めて見たC59・C62の印象は強烈で、高校2年生の夏休みに再び夜行に乗って広島行きとなりましたが、今回は家族で山陰方面に旅行へ行ったあと、米子から一人で広島行き夜行「第2ちどり」に乗っての広島入りとなりました。「ちどり」は、木次線、芸備線経由で米子~広島を結ぶ陰陽連絡で、昼行、夜行の各1往復、同径路で鳥取~広島の「いなば」もあり、あの木次線に3往復もの急行が走っていたのです。広島には5:05到着、以降は初回と同じ列車で糸崎へ移動、区での撮影となりました。今回もフィルムの劣化だけでなく、フィルム現像の際、真夏なのに20度の適温に冷やさず、30度近い水温そのままでやってしまったため、超荒れ荒れの粒子になり最悪の状態、フィルム現像を初めて覚えた頃のほろ苦い思い出となりました。山陽本線広島~小郡電化が完成したのが、訪問3年前の昭和39年10月、本線(広島では、山陽本線のことを“本線”と言い慣わしていた)の完全電化が成ったものの、電機の新製が追い付かず、C62の牽く列車が広島以西で見られたことは、(1)でも記したが、それを確認できる唯一の写真を撮っていた。広島駅5番ホームに8:12到着の徳山発呉線経由糸崎行きの624レで、C62 28[広転]の牽引、朝の通勤最適時の到着のため、客車12両の長大編成でも満員の到着だった。同機は、翌月の昭和41年9月には二休となり、その後に廃車されている。

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あの日あの頃 番外編

鉄道資料を片付けていると東海道線電化完成の葉書と煙草が出てきた。米原京都間の電化で東海道線全線が1956(昭和31年11月19日に電化されたときの記念である。その日を始めに特急つばめと特急はとは列車全体が淡緑5号に塗装されEF58を先頭に大阪東京間を7時間30分で運行を始めた。米原京都間の客車列車は80系湘南電車に替わりみかん畑のない近江路を走りだした。
 葉書は配布されたもので裏に大阪駅31・11・19日付と大阪城と客車特急の絵の丸い記念スタンプが押してある。きっとその日、坊主頭の中学生だった私はスタートカメラ片手に今里大阪駅間担当の1600型市電に乗って大阪駅へ駆け付けたのだろう。
煙草の空き箱は親爺が買ってきてくれたのだろう。漫画家横山隆一氏が描く
フクちゃんが展望車に乗っている。煙草のピースは火を着ける前でも独特の良い香りがした両切り煙草で、一時期愛用していた。ピー缶という缶入りもあって懐かしい。この空き箱はヤフオクで即決280円で値がついている。

 

 

 

 

 

 

 

 

駅名喫茶店(第93回:日本一多い路線名(「東西線」)の駅名)

「〇〇本線」を除くと、日本で最も多い路線名はおそらく「東西線」であろう。「東西線」と聞いて、皆さんがぱっと思い出す路線はどこでしょうか。

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DF50思い出写真(5)北陸本線

北陸本線と仰々しく書いたが実は機関区のはずれで撮ったもの1枚だけである。1965年2月10日京都駅で同学年のTさん、Sさんの見送りを受けて21時12分発521列車新潟行きに乗車。翌11日8時15分曇り空の筒石駅で下車。灰色の日本海はすぐ横で、客貨ともに糸魚川区のD51牽引だったが長野発米原行き611列車1本だけC57が牽いていた。筒石12時5分215列車直江津行きで直江津まで行く。ここで機関区を物色。この時に目的のD50183[直江津]と1両だけいたDF50515[富山]を撮影。この後は直江津15時30分発長野行きに乗車しスイッチバック駅二本木で下車し投宿。雪の中でD51重連急行「白山」等を撮影して東京に向った。

ということで有名な敦賀一区時代のDF50の活躍は逃してしまい直江津区で撮ったこのDF50515だけである。急行「日本海」、「黒部」、「北陸」等を牽引したものと思われる。同機は1970年に高松に転属し1977年に廃車されている。▼

 西のC59・C62 全記録   (1)

しばらく、最近撮影のカラーを紹介してきました。これはこれで意味があると認めつつ、何か隔靴掻痒の気持ちがないわけではありません。やはり高齢者にとっては、モノクロが似合うと改めて思います。デジタル世代に対抗できる、高齢者の優位源泉です。以前、本欄で「北のC62全記録」として北海道のC62を紹介しましたが、しっかり記録に残せた達成感とともに、半世紀以上前の記録を発表する機会は、今しかないとも痛感しました。つぎは「西」、つまり「呉線のC62」としました。昭和40年代初頭、山陽本線では、C62はほぼ活躍を終えて、呉線で活路を見出していました。このなかには3両だけ残ったC59も含まれますので、両形式を紹介することにします。

初回の記録から始めますが、この時代のフィルムは、劣化が激しく、無数の白いシワがあります。見せるような代物ではなく、小さく扱っていきます。初めて呉線へ行ったのは昭和41(1966)年3月で、高校一年生(なんと16歳 !)の初めての長距離一人旅だった。手にした乗車券は「京都から広島ゆき」、学割料金で1120円だった。大阪21:25発、夜行鈍行の門司行き225レに乗って、一睡もできずに、広島に翌朝の5:54に着いた。呉線乗車までの間、ホームで発着列車を撮影する。最初は次つぎ到着する九州行きの寝台特急に目を奪われ、やがて通勤時間帯になると、呉線、芸備線、宇品線に蒸機列車が発着する。

1番ホームに到着した広発宇品行き925レで初めてC62を見た。いままで見慣れた山陰線のC57と較べると、ボイラーが太く、とにかくデカイ。この列車は、工場の多い宇品行きの通勤列車となるため、広島から後部にD51が付いて、向きを変えて宇品へ向かう、呉線・宇品線の直通は朝に3本連続していた。以来、呉線へは計7回、延べ10日以上の訪問となった。

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スクラップブック 事件・事故編・第2回

最初に宮崎さん、またお助け下さい!
この事故の日にちを教えて下さい。

この頃の鉄道は衝突や追突が多かった。
さらにダンプやトラックとの踏切事故も多かった様に思う。
やがてATSや踏切防護信号が整備されるに従い減ってきたが。

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スクラップブック 事件・事故編・第1回

初めにお断りしておくが、子供の頃のスクラップなので日付を記入していないものがある。そのためいつの記事か分からないものには『●年●月・・』と記入しているのでお分かりの方はコメントでお教えいただきたい。また、事件事故に関係する方、目撃者、解説できる方のコメントをお待ちしている。

では、最初は昭和35年、1960年から始めよう。
この頃からオリンピックへの建設工事が活発になってきたのに伴い、全国でダンプカーやトラックとの踏切事故が多発しだした事を念頭に置いて見てほしい。

1960,8,18,

 

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