デジ青では現在バスブームが起きていますね。今回は、ブームに便乗して今まで投稿を躊躇していた奈良交通八木新宮線の停留所名です。数ある停留所名の中から五新線の駅名が誕生していたことでしょう。
今度はWEST EXPRESS 銀河で新宮まで向かって、新宮から大和八木まで乗り通してみましょう。

↑ 3回目の休憩地である「十津川温泉」停留所にて。 続きを読む
デジ青では現在バスブームが起きていますね。今回は、ブームに便乗して今まで投稿を躊躇していた奈良交通八木新宮線の停留所名です。数ある停留所名の中から五新線の駅名が誕生していたことでしょう。
今度はWEST EXPRESS 銀河で新宮まで向かって、新宮から大和八木まで乗り通してみましょう。

↑ 3回目の休憩地である「十津川温泉」停留所にて。 続きを読む
ひたちなか海浜鉄道の続きの投稿を半ば失念していました。いささか新鮮味を感じられない内容ですが、ご容赦ください。
湊線アーカイブと未来の展望
当時の茨城交通湊線に初めて乗ったのは平成5(1993)年9月26日でした。現在走っているキハ3710はまだなく、JRでは殆ど見られなくなったキハ20系が中心となって活躍していました。新鉾田→常澄まで鹿島臨海鉄道に乗り、2.5キロ近くを歩いて那珂湊駅までやってきました。駅に隣接して車庫があり、道路からも写せました。駅のホームからも車庫で休む車両が撮影できました。
大阪市バスを撮る (昭和50年5月)
本欄では、鉄道に劣らずバスの人気も感じています。先ごろ、観光バスのカラーにも多くのコメントを頂戴しましたが、大阪通信員さんからは、住まいの近く観光バス事情についても報告をいただきました。大阪の市バスも大変革を遂げました。大阪メトロから運行を受託された外郭団体の大阪運輸振興は、2014年には「大阪シティバス」として新発足、現在は、万博輸送も担っています。いちばん目立つ外部塗装も、目まぐるしく変わっていて、ずっと同じ塗装の京都市とは対照的です。そんな懐かしい昭和の時代の“ゼブラバス”をカラースライドの中に見つけました。
▲先に発表した阪神国道線のカラーのなかで、中津の電停前、国道176号を行く大阪市バスを撮っていた。2台が続行していて、前は昭和47年から塗り替えが始まった新塗装、後が当時の塗装、通称“ゼブラバス”。
昨日、武庫川女子大学が共学化するとのニュースが入ってきました。少子化の影響で男子学生の受け入れを行わないと経営が難しいからでしょう。https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF170U00X10C25A6000000/
そうすると、阪神の「鳴尾・武庫川女子大前」は「鳴尾・武庫川大前」に変更の可能性が高いです。一層のこと、「鳴尾」に戻してもよいのではと思う今日です。
*写真は武庫川駅構内です。
前回の投稿にて、113系・115系について触れましたので、その思い出を綴ろうと思います。まずは、京都の113系について数回に分けて書かせていただきます。

京都駅の3番のりばへ行けば、必ずその姿を見ることができた113系 (2023年1月7日撮影)
かぼちゃ電車 (ここでは塗装に関わらず、113系や115系の他、415系等の所謂東海形のデザインの電車全ての呼称としてこの用語を用いることとします)に魅了され始めた時期は具体的には分かりませんが、幼稚園の頃に描いた絵に湘南色を纏ったそれらしい電車が登場していることから、物心ついた頃にはすでにかぼちゃ電車は私にとって特別な存在だったようです。JRの沿線に住んでいたわけではありませんが、新型車両には無い丸いライトや鮮やかな塗装に、子ども心ながら魅了されたのかもしれません。当時は首都圏でも活躍していたため、図鑑に掲載されていた他、京都駅に行けば当たり前のようにその姿を見ることができました。また、湖西線や草津線の他、嵯峨野線でも活躍していました。塗装も湘南色の他、体質改善色 (カフェオレ色)があり、いつか乗りたいと思っていました。幼稚園の遠足で梅小路に出かけた際、SLスチーム号の車内から電留線に停まるカフェオレ色の113系に釘付けになっていたことは今でも鮮明に覚えています。

嵯峨野線を行く223系2500番代と展示車両横の電留線で休む221系。かつては113系が行き交っていた。 京都鉄道博物館屋上スカイテラスより (2025年3月28日撮影)
結局、当時の113系乗車は叶わず、中学2年の時に湖西線での初乗車まで待たねばなりませんでした。(続く)
京都市電も撮影 (昭和50年1月~4月)
まだまだ“古古古写真”、続けます。先に昭和50年は、京都市電にとっては廃止も無く、安泰の年のようと記しましたが、時間を見つけては、来たる日に備えて、こまめな撮影を続けていました。
▲車両面で見ると、ある事情で今までにない車両も現れた。それが赤帯なしのツーマンカーだ。市電は、合理化のためのワンマン化を推し進め、前年の昭和49年3月の烏丸線廃止で、ツーマン車である700、800、900形は姿を消し、ワンマン改造した1600、1800、1900形が占めるようになった。退職による自然減や、配置転換を行ったが、まだ余剰を抱えることになり、苦肉の策として、ワンマンをツーマンに戻すことになった。内訳は1600形(錦林、九条)、2000、2600形(烏丸)で、なかでも2000形は初めて見るワンマン表示の赤帯のない姿で、まるで別形式のように映った(烏丸車庫前)。
東京23区をまとめようという気は今のところありませんが、気づけば取り組んでいることでしょう。とりあえずよく訪ねる大阪24区内の駅名を紹介します。同じ駅名でも会社によって所在区が違う場合もあるのが興味深いですね。
訪ねた駅がどこの区の所属なのか知っておくのも勉強です。

松江在住の同級生が、木次線に執着している私を気にかけていてくれて、最近地方紙に連載された記事を送ってきてくれましたのでご紹介します。
三江線が無くなって久しく、木次線の話題もこちらでは聞かなくなりましたが、中国の山間部では芸備線とともに存廃が現実味を帯びてきているようです。
何よりも出雲横田以南の人口が467人とは知りませんでした。
これではJR西日本のおろち号廃止などの嫌がらせを待つまでも無く立ち枯れになるのもやむを得ないか、と思うかも知れません。
しかし、記事にもあるように三段スイッチバックや鬼の舌震いなど貴重な観光資源があることも強みです。
どうかDRFCクローバー会の皆さん、現地で頑張っている皆さんを今一度応援しましょう。

それにしても「おろち号」の廃止は納得できるものではありません。
当時、奥出雲町長とも連携してJR西日本の説得を企てましたが効果をえませんでした。中国新聞でも取り上げて貰いましたがダメでした。なにより地元が興味を示さないのが致命的です。そしてこれが最後の機会かも知れません。
昨年10月、小浜線にホキ回送の撮影に出向いた折、若狭高浜駅のホームや跨線橋の雰囲気が50年前と変わっておらず、驚きました。若狭高浜には子供の頃に家族で海水浴に毎年訪れていて、その話を総本家青信号特派員さまにさせていただいたのですが、隣駅の若狭和田を再訪された記事を、すでにデジ青に書いておられました。
夏の思い出 2017-4 ある駅を訪ねる | DRFC-OB デジタル青信号
先日、小浜線で気動車回送が運転されたのを機に、総本家さまの真似っこよろしく(笑)、家族でお世話になった若狭高浜のお寺のあたりを歩いてきました。何と、門構え、本堂と居宅の配置などがまったく変わらず、海岸方向に続く細い道も、古い家が残り、50年前の雰囲気が残っていました。
今回は小浜に保存された、御召&さよなら列車の牽引機、C58171号機にも再会してきました。あの当時の京都の家族の海水浴の行先は、丹後よりも若狭が多く、なかでも若狭高浜派と和田派があったというのは、総本家様との共通意見でした。ともあれ、50年の時間を越えて、こうした話題でまた趣味を楽しめるのはデジ青あってのことですね。あらためて、感謝します(^^)/

昭和40年代前半から半ば、こちらのお寺に毎年夏、お世話になった。石造りの門構えは当時のまま。

左の民家、井戸は何となく記憶が。右側は建て替えられているが、よろずや(商店)があったとは家族の記憶。

石造りの塀も、当時そのままだった。海に続く、細い道も。

小浜市中央公園に保存されたC58171号機。煙室扉ハンドルの欠落が残念!(2025.5.31)

C58171号機は福井国体お召列車、小浜線蒸機さよなら列車を牽引し、敦賀第一区を代表するカマだった。

越美北線用気動車の後藤工場出場回送。この日はタラコ風の塗装車をDE10が牽引。 青郷〜三松 2025.5.31

現代の小浜線きっての撮影地、小浜市民球場付近からの小俯瞰。勢浜〜小浜 2025.5.31

今年2月に引退した、湘南色を纏う岡山の115系 和気にて (2023年8月24日撮影)
初めまして。3月にDRFCを卒業し、クローバー会に入会いたしました。2023年にはDRFCの会長も務めさせていただきました。乗り鉄です。どうぞよろしくお願いいたします。諸先輩方の投稿と比較すると、まだまだ未熟な所も多々あることと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。
今回は初投稿ということで、自己紹介も兼ねた内容といたします。私は、ハンドルネームが示す通り、生まれてから大学卒業までの20数年間京都に住んでおりました。それでは、なぜ岡山が好きなのかと申しますと、岡山を走る列車が好きだからです。
JRの沿線に住んでいたわけではありませんが、幼い頃から113系、115系が好きでした。それは今も同じです。そんな私にとって、岡山は非常に魅力的な場所。大学入学を機に行動範囲が広がったことや京都から比較的行きやすいこと、そして何よりも湘南色の115系が走っているということもあり、長期休暇を利用して岡山に出かけるようになりました。何度も出かけるうちに岡山という街そのものが好きになり、卒業論文のテーマも、岡山でかつて走っていた軽便鉄道でした。もちろん、岡山に出かけた際や、岡山を通る際には必ず113系や115系を始め、魅力的な列車達に乗ったり、撮影したりしました。
岡山では、湘南色の115系は今年の2月に引退 (私の大学卒業とタイミングが近いのは偶然でしょうか?)した他、他の113系や115系も227系「urara」の投入により、少しずつ数を減らしています。また、特急やくもに273系が投入され、381系が引退したことも記憶に新しいです。国鉄型の列車が数を減らすのは寂しいですが、私は227系も273系も好きですし、何より岡山の魅力は色あせることはありません。今後も魅力溢れる岡山に足を運び続けたいと思います。
今回は、簡単に自己紹介という形で投稿させていただきました。次回以降は、学生時代を中心とした旅行記や、京都を中心に関西の鉄道の思い出、そして岡山の鉄道について書かせていただこうと思います。これまでに先輩方が投稿された内容と少し被ってしまうかもしれない点は、ご了承いただければと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
国道電車の最終日 (昭和50年5月5日)
先に昭和50年は、京都市電の廃止においては、エアーポケットの年と記しましたが、うまい具合と言うか、阪神電鉄併用軌道線、通称「国道電車」のうち、残存の国道線(野田~上甲子園)、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)、甲子園線(上甲子園~浜甲
子園)は、昭和50年5月5日を持って全廃されました。ちょうど市電撮影のエネルギーを、大阪・神戸方面に振り向けることができたのです。以前のデジ青でも、各線ごとの解説をしています。ここでは、最終日に限定した、カラーの紹介です。
▲中津ですれ違う1形(左)と“金魚鉢”こと201形。廃止時の車両は、1形20両、金魚鉢の71・201・91形28両あったが、譲渡はなく、すべて廃車となった。
▲最終日は、5月5日の“こどもの日”の祝日、全区間が乗車無料という大盤振る舞いで、多くの人で終日賑わった。天六から乗車し、中津、野田、甲子園方面に向かった(天神橋筋六丁目)。
観光バスを撮る (昭和50年4月20日 )
この頃からバスにも注力するようになりますが、どうしても鉄道とシステムに共通点のある路線バスに興味を示すようになります。貸切バス(観光バス)には、なかなか食指が伸びませんでしたが、時代の記録としても撮っておくべきと考え、向かった先が「五条坂」、東山五条の交差点でした。全国から来た観光バスや定期観光バスが、清水寺観光を終えて交差点を続々下りて来ます。今から見ると、昭和時代のプンプンする塗装が何とも懐かしく映ります。
▲大谷本廟の参道前で待ち受けると、五条坂を下りて来たバスが黄信号なると、何台も通過して行く。乗客は修学旅行生や団体客、前から後までびっしり乗っているのも、この時代らしい。このバスは、神戸市のキクヤ観光のバス、ふそうB9系、クレハボデー、紺とクリームの塗り分けラインも昭和を語っている。
今日は路面電車の日です。本来ならば路面電車特集といきたいところですが、いつも通り空気を読まず、「海」が入る駅名です。奈良県民にとって海は憧れ(なはず)です。列車から眺める海は綺麗なものです。

この年の桜のシーズンには、初めて、嵐電北野線の“花のトンネル”、鳴滝~高雄口へ写しに行きました。まだ旧型車体、ポール集電と、ひと昔前の時代ですが、この年の12月15日には、ポールからZパンタに換装されています。
▲旧型車体のモボ101が桜のトンネルを行く。zパンタ化の際に、車体を更新し、現在も見られるモボ101になった。
総本家青信号特派員さんの50年前の記録に特急「きりしま」が出ていました。その後九州内でも同一名の特急があったような気がしますが見たこと、撮ったことはありません。さて表題のC60の急行「霧島」ですが多分前日に博多で泊り翌1964年4月2日に博多6時57分発「霧島」に乘ったような記憶があります。次の鳥栖迄ED721[門司]に引かれて7時25分鳥栖到着でC6027[鹿児島]にバトンタッチした直後の写真です。寝台、食堂、1等車など伝統急行31列車らしい編成が東京から鹿児島まで連結されていましたがこんな撮影では機関車の記録だけです。この日は鳥栖で終日鹿児島本線(含む久大本線)、長崎本線を撮りました。▼
今年は、昭和で換算すると、昭和100年に当たるとか。6月に入りタイミングを逸したネタですが、またぞろ「昭和」に回帰、昭和100年の半分、昭和50年に戻ってみることにしました。昭和50年と言えば、私にとっては社会人3年目、忙しくもあり、仕事の面白さも感じていた頃ですが、趣味活動も忘れることはなく、対象も多様化、バスや街並みにも関心が向いてきました。日本からは蒸機が消える頃で、ポストSLとして、特急や電機にも焦点が集まっていました。京都では昭和49年に烏丸線が廃止、その次は、
昭和51年の丸太町・今出川・白川線の廃止までに2年間があり、昭和50年は京都市電においては、エアーポケットのような年でした。先ごろ昭和の時代を駆け抜けた長嶋さんが亡くなり、ひときわ“昭和”が喧伝されたものです。そんなときに、昭和50年を回顧するのも、あながちハズレではないと思います。まずはカラーポジのなかから、いくつかのテーマを選んでみました。▲私が最後に見た長嶋さんは平成時代のオープン戦、試合前に何かの表彰を受ける監督10年目の長嶋さん、右は入団4年目の松井秀喜と川相昌弘(1996年)。
岡山で583系を送る (昭和50年3月9日)
昭和50年3月に国鉄ダイヤ改正があった。新幹線の岡山~博多の開業がいちばんの目玉だったが、各地でも特急の増発、急行の削減が行われ、白紙改正級の変更だった。山陽本線はとくに激変で、岡山で新幹線接続していた、山陽・九州方面の昼行特急・急行39往復が全廃された。
▲特急「きりしま」は、昭和45年10月改正で京都~西鹿児島の583系として誕生、時間帯から徳山~熊本は無停車で博多も通過したのが特徴。その後、新大阪~西鹿児島になり、改正後もスジは残るが、「明星」に愛称が統合されるため、「きりしま」の名は消える。この日は改正前日のため、岡山止めだった。
筑肥線にりんかい線の車両が導入されるとの情報をキャッチしました。103系が置き換えられる見込みです。https://www.nishinippon.co.jp/item/1360805/
そういえば、ちょうど先週に加古川線の103系に会ってきました。この車両も残すは加古川線、播但線、筑肥線・唐津線のみとなり、乗るなら今のうちかと思います。

急ぎの用事で無ければ、姫路までは山陽電車がおすすめです。海は見える、明石海峡大橋を望める、途中で降りればカーレータ―、ホームを標準時子午線が通る駅、美味しいラーメンが食べられる、楽しむ要素が盛りだくさんです。

過去の駅名喫茶店の開店日を確認すると、6月の投稿が比較的少ないことが判明しました。祝日がないこの6月にたくさん投稿できるよう頑張ってまいります。
今回は兵庫県の第3セクターである北条鉄道です。今年2025年は播州鉄道として110周年、北条鉄道として40周年というメモリアルな年だったようです。
