路面電車が走る街で、撮影のため歩いていると書店と出会うことがあります。なかでも、地域に根ざした老舗の書店・古書店は大好きでした。撮影の手を止めて、入ってしまうこともあり、地域ならではの地方出版物のなかから鉄道関係の書籍を見つけて思わず買ったこともありました。ところが、街の書店がどんどん減ってきて、社会問題化しています。もう、路面電車と書店のある光景も過去の思い出になろうとしています。熊本市にある、創業150年を迎える老舗の書店が閉店すると言うニュースを耳にしました。真ん前を熊本市電が走ると言う絶好のロケーションでした。▲熊本市中央区、熊本市電の上熊本線「新町」電停前の「長崎次郎書店」。真ん前を上熊本線の3・8系統が通っている(以下、2016年2月12日)。
▲明治7年に創業し、熊本県最古級の書店として知られてきた長崎次郎書店、建物は大正13年の建築で、登録有形文化財に登録されている。熊本市を代表する近代建築として知られ、存在そのものが熊本の文化として評価する声もある。
▲登録文化財のプレート ▲▲森鴎外も来た。熊本地震のあと村上春樹も訪問したと言う。▲▲▲二階の喫茶室は営業を続けると言う。▲▲▲▲内部は白熱灯の照明で、いかにも居心地のよさそうな店内。▲熊本では唯一の専用軌道区間を通り「新町」に着く。電停を出て、90度曲がって、書店の前を通り、上熊本駅方面に向かう。
▲「新町」に到着する連接車9700系、日本で最初の超低床の路面電車、熊本では一部で積み残しも出るほどの盛況で、初の3連接車を10編成も導入予定と活発な様子が見える。ただそれは例の半導体工場にも近い、健軍方面のことで、ここ上熊本線にはそれほどの変化は感じられない。
▲「新町」付近の街並み、昔ながらの食堂があるかと思えば、大きな屋敷もある、興味深いところ。▲京都市電ではと思って、河原町線を調べると、懐かしい看板が見えて来た。「オーム社」「京都書院」「丸善」「駸々堂」、すべて消えてしまって、もう何十年経つのだろうか。それぞれに特徴ある品ぞろえで、河原町通近くで育ち、自分の図書室のようにして通った日が懐かしい。いまは、カラオケとドラッグストアと、流行りの飲食店だけの品格のない通りになってしまった。
長崎次郎書店の廃業は、本好き、歴史的建築物が好きな私にとって寂しい限りです。熊本まで見に行くことは叶いませんが、記憶にとどめておきたいと思います。
京都の河原町通はすっかり変わってしまい、市電がいたころの面影は見られなくなってしまいました。「オーム社」「駸々堂」「京都書院」はなくなってしまいましたが、「丸善」が復活したのはうれしいことです。
ただ、「本離れ」が言われるようになって久しく、書店の廃業は続いています。今年の4月には丸太町七本松にあった「モリシタ書店」の廃業を新聞で知り、2022年6月には河原町三条上るの古書店「京阪書房」が廃業しています。発行部数が多い雑誌ならコンビニで手に入り、書籍はネットで買える時代に書店へ足を運ぶのは、コスパやタイパを重視する現代人には敬遠されているのかもしれません。ですが、私はへそ曲がりです。今日は書店の店頭で取り寄せを依頼してきました。
文化都市を標榜する京都でさえ、街角の「本屋さん」は見られなくなりました。市電がいたころは電停近くに「本屋さん」がありました。初めて「鉄道ファン」を買ったのは、わら天神電停近くの本屋さん。高校生の時には千本北大路に、ちょっと大きめの本屋さんが開店しました。交通の幼少であると同時に、付近には大学や高校もあって、需要が見込めたのでしょう。
京都市内に多くのチェーン店を抱える大垣書店の発祥の地は、烏丸車庫前です。ふたば書房は千本上立売バス停前にありましたが、創業した昭和年当時は市電の停留所が目の前でした。銭湯のそばには理髪店、学校のそばには文房具店、そして電停の近くには本屋さんがあった時代は、もう昔の風景になってしまったようです。
添付の画像は昭和51年3月に撮影した烏丸丸太町で、左手に「アオキ書店」が写っています。
こちらは今年の烏丸丸太町で、書店はずいぶん前に廃業したものの、建物は市電がいたころと変わらず、左上には「アオキ書店ビル」の文字が見えます。
紫の1863様
真っ先にコメントしていただき、たいへん嬉しく思います。そうですね、新聞でも街の小さな本屋さんが廃業したこと伝えられています。ちなみに丸太町七本松のモリシタ書店の写真も撮っていました、。あと調べると、河原町今出川の宮崎書店、烏丸今出川の元文堂、烏丸丸太町のアオキ書店、洛北高校前の葵書房、そして烏丸車庫前の大垣書店と、市電交差点に書店あり、でした。それだけ、街のシンボルだった気がします。
皆様から見覚え聞き覚えのある書店名が次々と紹介され、とても懐かしく暫く感慨に耽っていました。
紫の1863さま、初めて「ファン」誌を買われたのがわら天神電停前の書店だったとは。「衣笠書房」といいましたね。実は中学1年生から11年間、同書房の真ん前の道をちょっと西へ入った辺りに住んでいたので、私にとっても行きつけの書店でした。中2の頃だったと思いますが、当会の沖中大先輩が執筆されたピク誌の「私鉄車両めぐり・京阪電車」を発見、同誌や後のファン誌などの購読のキッカケとなり、DRFC入会へとつながる道をつけてくれるとともに、のちの私の人生に大きな影響を与えてくれた想い出の書店でした。紫の1863さまともこんなご縁があったことに驚いています。
総本家青信号特派員さま、生活の中の鉄道という視点から撮っておられることに眼から鱗の想いです。鉄道オンリーの私にはとてもできないことですね。
さて烏丸車庫前の大垣書房はよく立ち読みさせてもらいました。市電での通学経路に白梅町廻りと烏丸車庫廻りの2通りがあり、適当に使い分けていましたが、烏丸車庫では時々系統変更や打切り入庫があり、先行の乗継ぎ電車が居ないと次の電車まで待ち時間が発生するため、その間によく入っていました。たいていは次の電車ではなく半時間くらい後の電車に乗っていましたが。
梅田の旭屋書店も想い出のある書店です。元はそんな西にあったのですか。東梅田当時からしか知りませんでした。7階に充実した鉄道書コーナーがあって、その横には「マッハ模型店」もありました。プルプルさんをはじめ、模型班のメンバーと京阪特急に乗ってよく買い出しに行ったものでした。また私事ながら一時娘が勤務していたこともあり、重宝するとともに親しみを感じていたものですが、梅田から無くなり寂しい想いをしたものです。
本題の「路面電車と」が飛んでしまい総本家様ごめんなさいです。
1900生様
わら天神前の書店名は「衣笠書房」でしたか。笹屋守栄の北隣という場所はハッキリ覚えていたのですが、白状しますと店名はきれいに忘れておりました。写真を撮っても西向きばかりで、東向きは撮りませんでした。
烏丸車庫前の大垣書店も、まともに写った写真がなく、こんなモンしかありません。1863号の後ろに見える看板から、書店の存在がわかるだけです。鉄道車両に目を奪われ、周りの風景を写し忘れた典型ですね。
絶好調の熊本市電と言ったとたん、今日のネットニュースに「熊本市電減便」のニュースがありました。いずこも同じ、乗務員不足で、ラッシュ時を減便するとのこと、3連接車体の導入も、結局は、乗務員不足の打開策だったようです。
京都市電の最初の写真の駸々堂の奥にELEVENが写っているのが懐かしいですね。ヒョロ長いビルで、本屋巡りのついでに時々行って長時間粘ったものです。
井原実さま
思い出をありがとうございます。はい、「イレブン」は、写真のように飛びぬけて高いビルでした。たしか全館、飲食店になっていて、高いところから京都中心部が眺められるとして、出来た時は、すごい人気でした。私も高校生の時と思うのですが、中学生の同窓生(野郎ばかり)と一緒に並んで入ったことがありました。ところが、すぐに閉めてしまい、この市電の最終の頃は、扉にベニヤ板が打ち付けられていました。
総本家青信号特派員様
熊本の「長崎次郎書店」趣のある何と素敵な本屋さんなのでしょう!
なくなってしまうのですね!本当に残念ですね。
日本の書店が少なくなっているという現実は何とも残念でなりません。最近テレビでよく取り上げられていますね。
書店の経営は利益率、本離れ、人口減・・厳しい時代ですね。
本屋は楽しい!そして時間つぶしに、待ち合わせになくてはならない存在ですが・・
京都の本屋さんも私達が学生の頃にあった書店がなくなってしまっていますね!オーム社、駸々堂、京都書院、とても懐かしい!
京都の本屋に欲しい本がないと言って阪急に乗って梅田の旭屋に行ったものですが、梅田の旭屋も・・・阪急百貨店書籍部も・・・
本を愛する人たちが別の切り口でいろいろなお店をというテレビ番組や記事で目にしますが・・ これからどうなっていくのやら、考えさせてくれる話ですね!と書きながら、最近は図書館のお世話になってばかりですが、これが問題かも!?
マルーン様
いつも、暖かいコメント、ありがとうございます。マルーンさんが京都に下宿されていた時代の河原町通は、書店、古書店が軒を連ねていましたね。ときどき、市電②に乗って、四条河原町へ行かれたことでしょう。大阪もありましたね。阪急百貨店には鉄道の本もありました。もっと思い出深いのは、旭屋書店、それも先々代の店で、今のヒルトンホテル付近にありました。木造二階建てで、鉄道本は、奥の別棟の2階で、ギシギシきしむ階段を上がって、鉄道本を探しに行きました。もう60年前、高校生の頃でした。
総本家青信号特派員様
「旭屋書店」懐かしいですね。国土地理院の地図や官公庁発行の白書類が漏れなく置いてあり、通学経路にありましたので時間があると寄っていました。木造の階段も懐かしく、目の前を大阪市電の南北線が走っていました。この店も隣接するパチンコ屋からの失火で焼失し、1969年に2代目の曽根崎のビルに移った時は、大阪市電は全廃になっていました。
このままでは、脱線したままですので熊本市交通局に戻します。1963年(昭和38年)に大阪市交通局から譲渡された380形385(大阪市電901形930)です。熊本市電の譲受車は譲受された和暦を形式番号にしているので、同じ形式でも譲受年により形式番号が異なります。熊本では活動期間が短く1969年4月には廃車となりました。1964.4.5撮影
快速つくばね様
コメント、ありがとうございます。やはり木造の旭屋書店を覚えておられるのですね。記憶が曖昧かと思い、検索しますと、写真入りで当時の思い出を寄せたサイトがありました。曖昧だったのは、裏手に細い道路を挟んで別棟があるかどうかでしたが、やはり別棟があったことの記述がありました。また、曽根崎に新しい梅田店が1969年にできてからも、この木造店は大阪駅前店として、再開発事業が施工されるまで、営業をしていたそうです。
常々、私も同じ思いを持っておりました。熊本であれ京都であれ街並みや市民の生活と共にある市電と絡めての総本家さまのご投稿、興味深く拝見いたしました。街の本屋さんに限らず老舗の商店はそれぞれに特色のある品揃えで町の文化を象徴する存在でもありました。今や地方都市に行っても京都にいても、どこも同じような街の景色になっているのは残念なことです。
YouTubeだったでしょうか、「ここはどこ」というタイトルに続く街並みに映るのは見慣れたコンビニ、ファーストフードや物販店。こんなん日本の町ならどこでも同じような風景や!と思ったら、答えは台北駅前だったりしてびっくりしたものです。
紫の1863さんも書いておられるように、私にとっても若い頃の本屋さんの思い出があります。市電府立大学前の中西書店、そして洛北高校前の葵書房ですがいずれも閉店しています。葵書房の閉店で下鴨から書店は消滅してしまったのです。
乙訓の老人の甥さま
京都の書店の思い出、ありがとうございます。YouTubeの台北駅前のこと、笑ってしまいました。同じ街の景色は、日本だけでなく、世界共通だったのですね、昔の書店は、品ぞろえに特色がありましたね。たとえば、オーム社は理工学書、京都書院は美術書、丸善は洋書に強く、駸々堂は学参に強く、後年コミックに力を入れていました。これが京都の多彩な文化を支えていたものでした。
京都の書店と言えば、叔父様の「京都市電が走った街今昔」が発行されて一週間ほど経ったころ、発売状況を確かめるため、京都市内の大小書店を何十軒調べ回ったことがありました。どんな小さな店でも、レジ近くの一等地に平積みしてあり、この新刊書への各書店の情熱を感じ、目頭が熱くなりました。
葵書房の閉店挨拶を見せていただきました。個性豊かな店主のいる書店のこと、挨拶にも独自性がありました。私の近くで、寺町通の三月書房は、サブカル関係の書店として有名でしたが、閉店の時の挨拶が、新聞でも話題になったこと覚えています。写真は、ジュンク堂書店京都店の閉店挨拶ですが、大手書店だけに、個性は感じられません。この店も、結局戻って来ることはありませんでした。旭屋梅田店のように階ごとに分かれていて、便利でした。
井原さまが話題にされた「イレブン」、その蛸薬師の南角にも小さな書店がありました。「サワヤ書房」です。じつは友人の実家だったのですが、廃業されチュチュアンナという靴下屋さんになった後、再開発されて今はドン・キホーテになっています。
画像は淡交社刊「ほんやら洞と歩く京都いきあたりばったり」より
サワヤ書店、ありましたね。ここは一般的な書店で、いつも、気難しそうに眼鏡をかけた親父がレジに立っていました。私がよく行った書店の店員の姿も目に浮かびます。鉄道ピクトリアルをいつも買っていた、オーム社2階は、イケズそうな厚化粧のオバちゃん定員で、よく愛用した河原町三条下るの文祥堂書店には、ちょっとインテリぽい、べっ甲眼鏡の親父がいました。この当たり、私の行っていた中学校の校区で、各店に想い出があります。