7年半のトレインビューを振り返って 1

プロローグ
2016年12月、埼玉から実家のある長岡京市へ引っ越した。高齢の両親はまだ健在であったが、徐々に世話のかかる状態になっていた。この時に紹介された賃貸マンションが、JRの線路際。しかも自室・ベランダからも、共用の廊下からも撮影可能なトレインビューの住まいだった。東海道本線 長岡京~山崎間にある「撮影の名所」調子踏切から100mほど北に位置した。

引っ越しのタイミングで、東京での仕事を退職の予定が、会社の厚意によりパソコンを使った「長距離在宅」を任命され、2020年10月までの約4年間は会社員の肩書でトレインビューの自室で勤務をしていた。この間やその後いくつかのライフイベントがあり、母親と義父は他界した。そして2024年4月、同じ長岡京市へ転居した結果、トレインビューも見られなくなってしまった。

この7年半の間、これ以上はない「鉄環境」に任せて自宅周辺でたくさんの写真を撮影してきた。先日の発表会(サロン)で皆さんにご覧いただいた内容を加筆・修正して数回に分けて、投稿したいと思う。大きく8つのアイテムに分類しているので、それに沿って進めて行きたい。


① 甲種輸送(甲種回送)
甲種輸送とはメーカーで製造された鉄道車両を、所属事業者までJR貨物の機関車がけん引し、鉄道車両自体を貨物として運搬するもの。7年半の間にカメラに収めたのは2カットのみだが、実際は何回も見ている。丸窓が印象的な丸ノ内線の車輌はタッチの差で好機を逃した。この区間の甲種輸送は上り(大阪→京都)の14時~17時に通過することが殆どで、調子踏切にはいつも複数のファンが構えていた。(続く)
<写真 上=横浜地下鉄グリーンライン中間車:2024年4月19日 下=東京メトロ日比谷線13000系:2017年5月27日>

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7年半のトレインビューを振り返って 1」への10件のフィードバック

  1. 勘秀峰様
    トレインビューのホテル客室で宿泊したことがありますが、この様な定住地がトレインビューというのは誠に羨ましき限りです。面白い切り口ですが甲種輸送の撮影も殆ど経験ありません。ただ、勘秀峰さんのこの近くに2年ほど住んだことがあります。木造新築の学生向けアパートで当時は乙訓郡神足でした。文中撮り逃がした丸の内線丸窓車両はこれではないでしょうか。2022年10月2日お茶の水で撮影した荻窪行き2130です。

    • 準特急さん、コメントありがとうございます。丸ノ内線の甲種輸送の時は、車体をほぼ全面にラッピングしていて、赤の部分は僅かにしか見えませんでした。それが第一歩を遅らせ、撮り逃す一因にもなりました。
      丸ノ内線の御茶ノ水は神田川を渡る部分だけ地上に出て変化があり、わたし的にも好きなスポットでした。2007年4月の撮影です。

    • 準特急さんは、元祖・神足の住民でしたね。私が一回生の時、もう一人(誰かは思い出せません)と一緒に下宿まで遊びに行ったことがあります。神足駅の東口すぐ近くの木造二階建てのアパートで、窓を開けると、ゲタ電の唸りが聞こえてきました。話し込んでいるうちに夕方になり、準特急さんから食事に誘ってもらい、神足駅西口でラーメンを奢っていただいたことを覚えています。付近は、現・長岡京駅周辺の再開発事業ですっかり変わってしまいましたが、ラーメンの店舗は、業態は変わりながらも、奇跡的に残っています。ときどき長岡京駅に立ち寄ると、55年前に受けた、準特急さんのご厚意のことを思い出しました。
      トレインビューの話からは脱線しましたが、勘秀峰さん、投稿ありがとうございます。続編もどんどん続けてください。

      • 準特急様 総本家様
        私が京都市内から長岡に引っ越す前に、その様な歴史があったのですね。今でもそうですが、駅東口側は商店も人家も少なく、昭和44年ごろは駅員はおりませんでした。駅の西口~東口の間の地下通路は、改札横に置いてある木札を持っておればフリーパスでした。
        昭和47年に乙訓郡長岡町から長岡京市に変わっても、駅名は長らく神足駅のままでしたが、平成7(1995)年に現在の駅名「長岡京」に変わりました。駅にほど近い旧西国街道の神足公民館前には「神足」の駅名標が保存されています。

        • 勘秀峰さま
          紹介した、準特急さんとのエピソードは、私の一回生の時ですから、昭和43年の秋から冬のことで、ちょうど勘秀峰さんが、上京区から長岡町へ移られた直後でしょうか。神足駅の地下道、覚えています。いまの自由通路ですね。準特急さんの下宿から、ラーメン店まで、木札をもらって地下通路を行ったのかは覚えていませんが、記憶に残る神足駅はこれが最初のことで、街なかに住んでいる身にとっては、ずいぶん寂しい田舎駅に来た印象がありました。

  2. 勘秀峰様
    総本家青信号特派員様
    総本家さん神足のことよく覚えられていますね。元電車少年の乙訓の老人さんもこの近くと言えば近くにお住まいで総本家さんも含め大物が住んでおられたことは有名です。
    私の学生アパートは殆んど同志社か立命館の学生ばかりでその木造2階建てアパートのオーナーも同志社卒の方でした。窓を開ければゲタ電の唸りはその通りでして時にはもう1本向こうの阪急京都線のP-6や710の走行音も聞こえました。反対側の南側に目を向けると新幹線のパンタがバチバチとスパークするような光景が見られました。写真は1968年1月19日神足‐山崎間を行く早朝の下りのゲタ電です。後ろには珍しくクモニ13がついて8連でした。勘秀峰さんが来られる前ですね。

    • 準特急様、
      京都~西明石間普通電車のお写真、懐かしく拝見させていただきました。お写真の6~7年後のことですが、向日町~山崎間をよく利用しておりました。下りの場合は「桜島・高千穂」の直前、上りの場合は向日町に着いて深田川踏切まで歩くと、ちょうど「あさしお」上り4号の回送が帰ってくる頃で、さらに20分ほど待てば「山陰」号(当時はまだ無名称?)の回送をDF50が牽いていくのをぼんやりと眺められる時間帯でした。旧型国電は1編成しか残っていなかったのか、運用も固定されていたようで、上りのタイミングでよく出会いました。京都寄り先頭車がクハ79 463号で、中間にはクロスシートのクモハ51(?)も連結されていたように思います。
      上下列車のすれ違い時に運転士さん同士が大きく手をあげて挨拶されていたのはご存知かと思いますが、車掌さん同士も前照灯を点灯させて挨拶されていました。
      思い出話だけで失礼いたしました。

      • 四方誠様
        特急キハ82系「あさしお」がデビューしたころは東京に拠点を移した関係で見たことなしで終わってしまいました。DF50の回送も見たことがありませんが、C57は見た様な気がします。さて、撮影名所のこの辺りですが、その頃の優先順位は①客車急行、②特急列車、③快速電車、④ゲタ電で合間に貨物も来たら通ってました。貼り付け写真はクモニ13を撮った同じ日の1968年1月19日の西明石行きクハ79460大アカで中間にクモハ51、クハ55が組み込まれていました。

    • 準特急様
      学生時代、吊りかけ音を聞いて過ごしておられたとのこと、羨ましい限りです。
      私が長岡に引っ越した昭和43年当時、国電は7両でしたが、日中は4両編成の旧型車も結構走っていました。対する阪急の各駅停車はデイ100の3連か4連の天下で、たまに710系や初代1300系が走ることもありました。
      準特急様の写真の踏切は現在は歩道橋(陸橋)になっています。ほぼ同じ位置(だろうと思います)から2024年4月に撮影した各駅停車の後追い写真です。

      • 勘秀峰様
        拙い写真ですが1968年4月25日のゲタ電4両の京都行きクハ79397大アカです。
        仰られる通りゲタ電は7連、4連でした。阪急京都線はP-6は4連が増え始めた頃で急行もP-6、1600、710の6連で2300も7連が増え始めた頃と思います。1300は4連で各停専用だったと思います。お写真の各駅停車の左側の山並みは京阪八幡町(現石清水八幡宮)付近の山ですね。

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