鉄道少年の時代に戻ってみる  〈7〉

新幹線開業前の山科で撮る(1)

今までの「鉄道少年」の時代は、昭和39年のことですが、この年には、東海道新幹線の開業がありました。天下の東海道本線の輸送体系が一夜で全く変わってしまう歴史的な日が迫っていて、夏休みを終えた中学3年生も記録に忙しい毎日です。新幹線の開業を10日後に控えた山科の大築堤を行き交った列車を見てもらいます(以下、昭和39年9月20日、一部掲載済み)。新幹線開業で、151系の電車特急7往復すべてがなくなるのが、大きなニュースだった。151系「こだま」が登場したのは昭和33年、旺盛な輸送需要に「つばめ」「はと」「富士」が相次いで登場した。いっぽうで、新設の交流電化の広軌鉄道を建設し、抜本的な改善をするため、昭和34年に東海道新幹線が起工された。東海道本線では、電車特急の増備を続けながら、新幹線の建設を進める二重投資をしていたわけだが、それほど輸送力の改善が急務だった。「つばめ」のヘッドマークは、ほかは白地にスミ文字のシンプルなものだが、「つばめ」だけは上下のバック地がグレーになって由緒正しき「つばめ」の矜持に感じられた。

この時に初めて行ったのが山科の大築堤だった。京阪御陵駅で降りて、駅前の道を南下すると、上り「第一富士」が通過して行った。▲▲築堤をくぐるトンネルの手前に上へ行く小道があり、なんの障害もなく築堤に上れた。大阪発青森・上野行き「白鳥」がすぐ通過。7連2編成の長大14両編成。

姫路発鳥羽行き上り快速2442レ、“鳥羽快”で知られた戦前からの伝統列車、一等車も連結している。▲▲夜を徹して走って来た貨物も続々通る。EF60 16が牽引、後ろのコンテナも懐かしい。

名古屋発大阪行き準急「第一伊吹」、名阪間は「比叡」が多く運転されていたが、「伊吹」は全車指定で、停車駅も岐阜、大垣、大津、京都と少なく、同じ準急でも格が上だった。▲▲夜行の修学旅行列車も通過、155系の修学旅行専用列車「きぼう」「ひので」も運転されていたが、それだけでは足りず、客車編成も多く運転されていた。

大阪発東京行き「六甲」、東京~大阪の電車急行の愛称は、すべて関西の国名、山名から採った。運転区間が同じなのに愛称が違うのは、乗客の便や電報を打つ際の便宜を図ったと言われる。▲▲青森発大阪行き急行「日本海」、次位のハネは窓が開いていて営業しているように見えるが、その次は郵便車で、どこかで増結されたのだろうか。通常、新潟からの増結は、後部となる。

新製電機として、客貨両用のEF61が走り始めていたが、なぜか普通列車ばかりの牽引だった。名古屋発広島行き431レ ▲▲夜行鈍行145レには、ロザが2両も連結されているのが、いかにも東海道らしい。

上り「なにわ」、大阪発が9:30と、東上するには最適の時間帯でよく混んでいて、京都ではなかなか座席にありつけなかった。電車急行は1等1両を除き全車自由席で、急行券は、特急券の半額以下で、人気があった。▲▲北陸本線は金沢まで電化していて、471系の「第一ゆのくに」、全車指定席の格上の急行だった。

特急塗装のEF58 101の牽く「さつま」名古屋発鹿児島行き。▲▲DC2両も通る。名古屋発関西線草津線経由の京都行準急「平安1号」。

私にとって、151系以上に嬉しかったのは、走り始めた113系の編成を、定番の“山科構図”で撮れたこと。東京で見た、軽快で明るい111・113系が何とも羨ましく、やっと関西でも見られた。

 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈7〉」への5件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    1964年は東京オリンピック開催と新幹線開業という記念すべき年でその前年に名神高速道路も開通し日本が飛躍的に発展するスタートの年でもありました。その前夜ともいうべき時期に名所山科で中学生がよくもこれだけの記録を残されたことはただただ驚きです。よく撮っていたと感心しています。東海道本線からは7往復の電車特急が消えるということが衝撃的だったことと思いますが、153系の急行や準急が残っておりお買い得商品としてよく利用したのも懐かしいです。しかし、多くのファンはその当時は新幹線0系には見向きもせず北陸、山陽方面に残っていた魅力的な列車群に注目していました。80系電車に混じって走り始めた新鋭113系に魅力を感じられたのは意外ですがわかるような気もします。とにかくこれだけの記録有難うございます。格上と言われた全車座席指定402M準急「第一伊吹」を貼り付けさせていただきます。1963年1月2日西宮-甲子園口間7時15分通過の神戸発名古屋行き153系10連です。

    • 準特急様
      阪神間で撮られた「伊吹」、ありがとうございます。2往復のうち、1往復は神戸発着だったので、伊藤ハム前でも撮れたわけですね。「伊吹」の所要時間は、急行「なにわ」より短く、オール座席指定と相まって、準特急ならぬ「特別準急」と呼ばれたそうです。
      山科カーブはこの時が最初の撮影です。3線の間から撮るのが正統な撮り方ですが、遠慮して南側から撮ったものが多く、広角気味のオリンパスペンでは、うまく収まりません。でも撮りたかった「つばめ」や113系は、しっかり3線の間から撮っているのですね。「つばめ」も後部さえ切れなければ、当時の中学校3年生にしては評価に値するものだったかも知れません。

  2. 鉄道少年は、東にも居りました。特派員様の写真に較べると、とても人様にお見せできるような写真ではないが、『少年』に免じてお許し下さい。新幹線開業前日、151系特急の見納めに、私も東京駅へ行きました。この日、昭和39年9月30日は水曜日で、学校が終わってから行ったのです。東京駅発の最終は、18:00発の名古屋行の「おおとり」で、大阪まで行きません。ちょいと不満だが、仕方ありません。写真にあるよう、鉄道ファンも居たが、チラホラ。最終だから気を使った訳ではないでしょうが、先頭はクロ151-1でした。今改めて、時刻表をチェックすると、東京発車では、「おおとり」が最終ですが、名古屋着は22:15。発時刻では無く、到着だと、「第2つばめ」の到着(東京・大阪とも同時刻)が、23:00で、こちらが最終とも言えます。しかし、中学1年生が、夜の11時まで東京駅に居たら補導されてたでしょう。流石にそこまで、粘りませんでした。あれから60年が過ぎたとは驚きです。新幹線が60年も走っているのに較べたら、東海道こだま型時代は、あっと云う間のことでしたね。

    • 宮崎さま
      東の“鉄道少年”が東京駅で撮られた151系の最終日、ありがとうございます。東京駅発の最終「おおとり」を撮られたのですね。「15」のホーム番線も懐かしいです。少ないとはいえ、ホームにはファンの姿が、さすが東京です。私も当日、山科で撮りました。たしかに平日でしたから、午後からの授業を終えて、すぐ山科へ向かい、16時ぐらいから写しました。山科を通る最終の特急「第二こだま」は、フィルムがなくなり、目に焼き付けるだけで終わってしまいました。

  3. 昭和39年の私は小学2年生、電車好きの子供でした。「こだま」と「つばめ」のおもちゃで遊んで育ちましたが、実物は見た覚えがありません。東海道新幹線が開業する前の「山科」には、魅力あふれる列車が走っていたのですね。この年の夏休み、祖父に連れられて福井へ行ったとき、「第一ゆのくに」に乗せてもらいました。しかし幼かったのに加え、60年も前のことゆえ記憶はほとんどありません。ただ「きれいな電車」イメーというジと、「座席指定」の言葉だけを覚えています。多分、孫のために奮発してくれたのでしょう。
    山科の大カーブはあこがれの撮影でしたが、私の時代では築堤の上で写すのはためらわれました。何とか写せる場所を探した結果、東山トンネル東口から山科駅方向が見えそうだと考え、昭和50年に訪れました。ボンネットバスの方向幕にあった「寺内町」から、少し北へ歩いたところです。金網の隙間から入り込み、小屋の陰に隠れて写したのを覚えています。「ゆのくに」や「雷鳥」が来るのを待ちきれず、ほんの数枚撮っただけで早々に退散しました。
    添付の画像は名古屋行きの急行「比叡」1号です。

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