鉄道少年の時代に戻ってみる  〈6〉

山陰線、山口線に乗り、電化前の山陽本線へ

この記事作成用にスキャンした写真は、当時のDPE店で“サービス判”と呼ばれた、ごく小さなサイズですから、内容を読み取ることもなく、放置状態でした。改めて、記事にしてみると、写真からも当時の様子がよく分かりました。投稿することによって、自分の引き出しの数がまた増えました。さらに皆さんからコメントを頂戴し、自分でも気づいていなかったところまで分かり、まさに“デジ青”効果です。

山陰地方を訪れる一ヵ月前、「昭和39年7月山陰北陸豪雨」と命名された豪雨被害があり、とくに島根県東部は被害が甚大だった。一畑電鉄の立久惠線はこれがもとで廃止になった。山陰本線も各所で寸断され、つい数日前に全通したばかりだった。被害区間は普通列車のみの運転で、優等列車はすべて折り返し運転となった。乗車予定の準急「しんじ」(宇野~米子~博多)も、米子~石見大田が運休、山口線湯田まで行こうとして、運休区間を普通列車で移動し、やっと折返し列車の始発となる石見大田にたどり着き、「しんじ」に乗車した。太陽がガンガン照り付けて、列車は、貫通扉、乗務員扉まで、窓という窓はすべて開け放たれて、蒸し風呂の車内に風を入れようとしている。ホームにいる人たちは見送りなのだろうか、地方駅なのに、すごい人出だ(以下、昭和39年8月)。

当日、宿泊した玉造温泉から大社まで乗車したのが臨時準急「伯耆」、なんと牽引して来たのはC51、しかも米子区の原型煙突のC5180だった。“名機C51が準急を牽く”と、当時でもニュースになりそうな貴重な巡り会いだったが、結果はご覧のとおりで、ハーフサイズで撮った中学生は、真夏の逆光には勝てなかった。▲▲その一年前、「鉄道ファン」の見開きカラーに載ったC5180、帰ってから恨めしく眺めたものだった。

列車に乗ってからもカーブに差し掛かると、首を出して編成を写した。1両目は一等車が連結されていることが分かる。▲▲出雲市に到着、中央は新しくなった、一畑電鉄の出雲市駅。

「伯耆」は大社線に入っても徐行を繰り返しながら進む、写真から辛うじてC51らしいことが分かる。▲▲冒頭の「しんじ」に乗り、山口線に入り、当時は山口線の客貨を牽いていた集煙装置付きのD60と交換する。

湯田から秋芳洞を経由して小郡に来て、ここから宮島口へ行く。小郡~広島は昭和39年10月改正で電化となり、山陽本線の全線電化が完成するところだった。乗車したのは熊本発岡山行き228レで、もうすでに電化が完成していて、EF60 500番代の一灯が牽引して来た。▲▲途中の島田で長時間停車、上り特急「かもめ」に追い抜かれる。

続いてD52 372[柳]が牽く下り貨物が通過する。ワキを多く連ねた急行貨物だった。▲▲大竹付近ですれ違ったD5279[広]。とにかく貨物が多い。すべてD52のまま残っていた。それどころか、そのあと全線電化が完成後も、貨物用電機の製造が追いつかず、多くがD52のまま残っていた。

柳井発徳山行き421D、キハ16+キハ25、山陽本線では都市間の区間列車が多く運転されていたが、10系気動車の編成だった。▲▲最終日は宮島口から京都まで戻った。広島から乗ったのが、広島発大阪行き臨時準急「とも」、この時期「とも」は岡山~広島だったが、大阪まで延長されていた。尾道の街を見て、糸崎で4両増結された80系9両編成が行く。

本来の岡山~広島運転の「とも2号」と玉島で交換する。▲▲和気(?)で見かけた下りの貨物の後部、車掌車の次位にDCが連結されている。この年に電車から気動車に切り替えた玉野市営へ回送途中のDCで、国鉄キハ41000を三岐鉄道が購入してキハ81としていた。三岐の電車化が成り、ちょうど玉野市営が逆のDC化することになり、移動となった。

 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈6〉」への23件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    私は総本家さまの2年後の夏に高校のクラブの研修?旅行にOBとして参加し、ほぼ同じルートを旅しています。我々は松江から益田まで急行「やえがき」でした。当時の優等列車には個性的な愛称が付き、「やえがき」などはロマンを感じさせる山陰らしい愛称でした。マルスで指定券を発券するようになってから「〇〇1号」などと号数表示になり、没個性の当時の世の流れと相まってガッカリしたものでした。翌日津和野駅のホームで山口へ行くために待っているとD60に牽かれた客レがやって来たので、初めてD60の牽く列車に乗れると喜んだのもつかの間、牽引機交代でなんのことはない、D51に代わって落胆したものでした。まあ何が牽いても乗車する身としては同じですが。山口を観終えて小郡からDC急行「青島」で広島へ、夕食と時間潰しをして呉線廻り京都行の準急「ななうら」の客になりました。地味な夜行準急でしたが「ななうら」の愛称に老舗列車の面影を感じたものです。「とも」が80系であったことは知っていましたが、臨時で増結した大阪行きまであったことは知りませんでした。この旅行では団体行動であったとはいえ、鉄道関係の写真を殆ど撮っていなかったことが悔やまれます。

    • 1900生さま
      高校生の頃の山陰線の思い出、ありがとうございます。「やえがき」は、調べますと昭和40年10月改正で米子~熊本に設定されています。のちに、ムーンライトでは「八重垣」と漢字になっています。お書きの「ななうら」は、漢字なら「七浦」、「とも」は「鞆」であり、急行・準急のカナ愛称は、なんとも伸びやかで旅情をそそりますね。
      「とも」の歴史も調べますと、昭和38年に広島に80系が配置されたことにより、岡山~広島に2往復設定されたとのことで、意外と新しいことが分かりました。この時に乗車した臨時の「とも」は、「臨時とも」が愛称で8/12~19のみ運転でした。準急料金100円で広島から大阪まで行けたのですから、かなりおトクな列車でした。たしか300代の全金車でしたから、153系急行にヒケを取りませんでした。

      • 総本家青信号特派員さま
        当時は急行が153系、準急は80系が多かったですね。後に金儲け主義による100㎞超準急の急行格上げと153系や165系の増備でゴチャゴチャになってきましたが。80系急行で記憶に残り、また実際に乗車したのが臨時「はりま」でした。設定から暫くは80系で後に153系に替わりましたが、中学1年生の伊豆~東京への修学旅行からの帰途にこの「はりま」スジの団体列車に乗りました。旅程が発表されてすぐに列車を確認したところ、「はりま」のスジだとわかりましたが、先の情報から80系が入るものとばかり思っていました。が、ホームに入って来たのは正規の153系でした。乗ってからふと見ると、隣のサロに隣の組が乗っていて、面白くないと思ったものでしたが、サロは定員が少ないため席に溢れた生徒を先生が連れて来て、BOXシートに詰めて6人で座れと言ったので、更に面白くなくなくなったことを今でも覚えています。この教師は我々生徒には途中停車駅では絶対降りるな!(スジだけでなくドア扱いも一般並みでした)と厳命しておきながら、横浜駅でちゃっかり崎陽軒のシューマイを買い込んで、発車後美味そうに見せびらかし?ながら食べていました。どうでもいいことを憶えているものですね。

        • 1900生様
          “どうでもエエこと”が、デジ青の源泉ですよ。大事なことは、誰の記憶にもあり、記録も残っています。忘れ去られようとする“どうでもエエこと”をきっちり載せて行くことが、デジ青の使命です。さて、「はりま」、ありましたね。昭和35年6月で生まれた東京~姫路の不定期急行とありました。当初は80系で、東京19:30→姫路6:40、姫路18:05→東京5:10と極端に早朝に偏っているのは、通勤用の80系を間合い運用したもので、到着次第、すぐに朝のラッシュに運用するためだそうです。当時の車両の逼迫ぶりが分かります。昭和36年7月改正から153系に代わったそうです。

  2. 総本家青信号特派員様  60年前の昭和39年の車窓風景を、昨日のことのように正確に解説されていることに驚いています。きっちりと記録を残されてきたからこそ出来ることで、「書くことは確かな人を作る」という誰かの格言を思い出させてくれました。ところで、臨時準急「とも」の車窓から撮られた一コマですが、目の前の アングルをリベット止めした架線柱は現在も健在です。丁度勾配標の位置などから東久保町の浄泉寺前を通過しているタイミングで、正面の高台に建っているのは、旧尾道市立筒湯小学校の木造校舎だと思われます。映画「東京物語」にも登場します。校舎は建替えられ、平成12年には廃校になっており、現在は尾道市生涯学習センターになっています。

    • 西村様
      コメント、ありがとうございます。この記事の情報源は、写真を貼っていたアルバムです。撮影の区間、機号など、1枚1枚、きっちり書いていました。旅行から帰ってから、万年筆で丁寧に記入し、自分だけのデータベースができて行くのが無上の喜びでした。逆に言えば、写真に撮っていない事柄は、記憶も記録も全くなく、点と点をつなぐことができません。
      「とも」の撮影ポイントを解明されるとは、さすがです。架線柱も、バックの小学校跡地も残っているとは、驚きました。「とも」からの唯一の車窓撮影で、当時の中学生の私にも、カーブに差し掛かり、尾道の市街地が見えたら、シャッターを押すことの意識があったのかもしれません。

      • 総本家青信号特派員さま
        車窓からの撮影といえば、かの大先輩のY谷さんは元祖(紙の)青信号に書かれた8㎜での撮影記事中で、曰く「カーブで撮るから同じ方向にばかり回り、まるで遊園地の子供汽車のようだ」と述懐しておられました。私も小海線の冬季臨の「野辺山スケート号」の新宿行で同じことをやりました。下り勾配でC56を撮っても面白くもなんともないので、旧客の乗車と後部からの撮影を楽しみました。

    • 西村雅幸様
      総本家青信号特派員様
      本日の朝日新聞の「天声人語」の書き出しに『東京物語』のセリフが出ており、尾道を思い出しましたので投稿いたします。
      2018年6月24日に久しぶりに尾道の町を歩いてみたくなり、「東今の2踏切」付近の国道2号から撮った写真です。車窓から写真を撮られた場所から1kmほど尾道駅よりです。この時、古い鉄製の架線柱に驚きました。1961年の山陽本線三原電化の時に建植されたものなのですね。現在は半分ほどコンクリート柱に変わっているようですが、よく瀬戸内海の潮風に耐えて残っていたものと思われます。
      駅に戻る時、駅近くの「尾道本通り」入り口で、観光協会の人たちが「あじさい忌」の準備をされていました。そういえば6月28日は林芙美子の命日で、いつも鉄道のことが頭にあり、尾道が文学の町であることを忘れていました。

      • 快速つくばね様 尾道訪問記ありがとうございます。尾道は一時コロナのために観光客が減っていましたが、また元の賑わいに戻っており、尾道ラーメンの店の前に行列が見られます。写真の架線柱はおっしゃる通り昭和36年の三原電化当時のものだと思われます。加えて線路と歩道の間にある鉄柵、手摺の縦の部材は軽レールでできています。この軽レールの出自がわからないのですが、かなりの距離で使われていて謎のままです。

        • 西村様
          快速つくばねさんにもご報告しましたが、Uさんの古井戸レポートに、同じ内容が載っていました。

        • 西村雅幸様
          総本家青信号特派員様
          返信ありがとうございます。
          手摺の縦の部材の軽レールですが、私の写真にも写っていますが、これには気が付きませんでした。本当のガードレールですね。
          このレールは、建設が1961年の山陽本線三原電化工事と同時期と考え、仮に軽便鉄道用のレールであれば、1954年3月1日全線廃止となった鞆鉄道のものでないでしょうか。鉄道線の福山-鞆間の路線距離が12.5kmですので十分供給する能力があったと思います。あくまでも想定ですが、レールのどこかに製造年等の刻印が残っていればよいのですが。

      • 快速つくばね様
        尾道を歩かれたとのこと、その行動力には敬服します。C62特急機関士のUさんが、写真のような記事を「レイル」に載せられています。知人の方がバスの窓から撮った尾道付近の山陽線の写真の中に、古い井戸が写っていて、それが60年後の今も残っており、実際に付近を歩いてみると、古い施設が次つぎ見つかったと言う興味深い内容でした。

  3. 総本家青信号特派員様、1900生様
    中東や欧州の戦争が終わらずアメリカでも大統領選の罵り合い、地球温暖化とこの先どうなるか心配が続いております。パリ五輪もあまり見ておりません。歳をとると昔話ばかりで前向きではないかもしれませんが私も話せる友人も少なくなってきました。たまには総本家さんの少年時代に追加コメントします。美形機C5180も懐かしかったです。
    1900生さん、津和野駅の乘るべき客車列車がD60からD51に牽引機が交代したのは残念でしたね。添付写真は津和野区のD60のトップナンバーです。同じ1964年の3月31日のことです。この時代には関西でも紀伊田辺区にD60が配属されており和歌山まで顔を出していました。

    追伸:昨日小学2年の孫が新宿住友三角ビルの全国中高生の鉄道模型展を見たいというので閉館まで5時間も付き合わされました。同志社香里高校が新神戸駅のジオラマ、モジュールを出展説明していました。今は男女共学だそうです。

    • 準特急さま
      はい、パリ五輪も、阪神の連勝も、関心がなく、一心にデジ青投稿に励んでいます。もう60年以上前の個人的な写真を懲りもせず載せていますが、皆さんから暖かいコメントを頂戴し、ついには準特急さんからも堰を切ったようにコメントいただきました。ここには、アメリカのような罵り合いも、SNSの誹謗中傷コメントもありません。良識ある皆さんのコメントで、私も生かされています。

    • 準特急さま
      紀伊田辺にもD60が居たことはピク誌で知っていましたが、同機に余り馴染みがなかったこともあり遠征はしませんでした。
      ところでお孫さんは将来有望ですね。私がDRFCを知ったのはピク誌の沖中さんの京阪電車の記事でしたが、漠然と入部したいとの想いがはっきりと決意に変わったのは、実は中2の時にEVEのレイアウトを走る客車のカタンカタンというジョイント音を聞いたからでした。5時間も粘られるというのは相当根性がすわっていると思われ、いずれは準特急さまの後を継いで、鋭い毒舌を吐いて論戦相手を打ち負かしてしまわれるのでしょうね。心強いお孫さんにエールを送ります。

      • 1900生様
        同じ時代に活動した友人の長文のコメントをいつも楽しく拝読させていただいております。1900生さんは特にC56がお好きであったことはよく存じ上げておりますが、動画や空気バネ台車の研究、列車走行音の研究、国鉄車両の研究、HOゲージ自作の1900特急が有名でしたね。ところで孫の上の子は野球チームのキャプテンをやっており阪神ファンですが明日も神宮に引っ張り出されます。鉄道は卒業したようです。下の子はDRFCイベントの銚子電鉄に参加させていただきましたが、既に関東の有料特急はほぼ乗りつくしており、近鉄ヴィスタ―カー、南海ラピート,京阪プレミアムカーに続いて次はJR豪華列車に乗りたいと言い出す始末です。D60ですが前回の写真展で和歌山区で憩うD6050を出しました。1900生さんもまだまだお若いのでこの先ずっとご活躍下さい。

    • 米手作市さま
      米手さまは客車かSLの写真専門だと思っておりましたが、ちゃんと電車も撮っておられたのですね。いい写真ですね。ヘッドマーク付きなので、小学生の頃東海道線脇で眺めた準急「比叡」を思い出します。

      • 1900生様
        能ある鷹は何とやらと言いますが、米手作市先輩はいつも遠慮がちで、客車、蒸機の他に新京阪の面影を残すP-6の幌付きや710の特急、N電など数々の秘宝的作品をお持ちです。一度その作品集をじっくりと眺めてみたいと思っているのは私だけではないと思います。

        • 準特急さま
          そうでしたか。米手作市先輩の性格にはそういう奥ゆかしい一面もありましたか。知りませんでした。豪放磊落、親分肌のすべからくオープンな表向きの性格からは窺い知れない、ある種陰険にも思える影の部分があったのですか。遠慮がちというと聞こえはいいですね。
          しかしそんな貴重な隠された秘宝的画像をお持ちでしたら是非拝見してみたいですね。

          • 1900生様
            「こんなんあるで!」は米手作市さんのおはこ。貴重な記録がよく見られます。ただ、豪放磊落というよりも荒っぽい発表もあります。ご性格は繊細な面、優しい面が強く感じられ鉄道趣味人の前に常識ある社会人を感じます。OB会会長になられる時に先輩の大阪通信員さんから米手さんの挨拶に対してヤジとも励ましとも思われる「余人をもって替え難し」と言われた言葉が印象に残っています。毒舌家ではありますが常にDRFC-OB会のことを考えておられる立派な方です。

  4. 準特急さん、1900生さん
    過分な評価を戴き感涙に咽んでいます。
    人生マジメに生きていればいつかは認められるものだとの親の意見を噛み締めています。
    しかし人を見る目は準特急さんに軍配を上げます。1900生さん、反省しろ!

  5. 米手作市さま
    人様を見る目は確かだと思っていたのですが。まあ人の評価はマチマチですし、仮にドンを突かれたといってもそう仰られずに。とはいえ反省しろとのことですので、サルでもすなる反省というものをしてみんとて、このクソ暑いなか、無いアタマを絞ってしてみます。

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