先週3日間東京へ行き、人に会ったり、写真展の見学をしていました。そこで多くの方から聞いたのが、「〝デジ青〟見てます」の声、改めて感じ入りました。私も老骨にムチ打って、まだ続けます。変化球勝負は置いておき、正統な(?)列車・車両の思い出から〝熱中時代シリーズ〟今までの「山科大カーブ」「交直接続区間」に続いて、昭和50(1975)年3月改正の前後の「山崎」としました。
山崎の朝 EF58ブルトレのヘッドマークが輝いた
昭和50年3月のダイヤ改正では、山陽新幹線博多開業に伴い、関西発着の在来線優等列車が大幅に削減・再編され、とくに昼行特急・急行の廃止、夜行列車の整理が顕著でした。 昼行特急は、岡山発着の「つばめ」「はと」「しおじ」、京都発着「かもめ」も
廃止、急行も関西を通る「桜島」「高千穂」「天草」「日南」なども廃止され九州方面の昼行優等列車は新幹線に置き換えられます。夜行列車も整理・再編、寝台特急(ブルトレ)は一部存続するも、大幅削減され、関西〜九州間の旅客輸送は、新幹線接続を前提とした再編が進みました。また湖西線の開業により、北陸方面の列車体系にも変化が生じました。 ▲初めて山崎に撮影に行ったのは、高校1年生、昭和40年の秋だった。これから紹介する寝台特急「あかつき」が昭和40年10月改正で誕生、関西では初めて明るいうちにブルートレインが見られたのだった。さっそく山崎へ行き、丸っこい20系後部を写すことができて大満足だった。
「あかつき」 最大本数7往復
▲関西~九州の移動は、時間を有効に使える夜行の寝台特急の時代になり、電化区間は581系、非電化区間へは20系客車となり、「あかつき」の愛称は新大阪始終発とする鹿児島・長崎本線への直通の総称となった。昭和49年4月には、「彗星」との併結を含めて7往復にも達した。車両も20系15連をはじめ、14系、24系、24系25形と多彩だった。写真は「あかつき3号」「彗星2号」の併結だが、ヘッドマークは「あかつき」だった。EF58 38[広](山崎付近、昭和50年3月、以下同様)
▲九州からのブルトレは、すべて新大阪止まりだが、車両基地のある向日町まで回送列車として運転される。客扱いでも回送でも外観は変わらない。名を捨て実を取る作戦として、山崎に通うことにした。「あかつき6号」、ひさし付き大窓のEF 58 29[関]
▲「あかつき1号」を牽くEF58 118[米] 「あかつき」ラッシュの一番手で、山崎の通過は6:30ごろ、蒸機以来の伝統か、米原区のEF58は整備が行き届いていて、原型小窓がよく映えていた。
▲サントリー前の〝Pトップ〟 寝台特急の増発で、機関車不足を補うため、東京機関区から下関運転所へEF65 501~504が転属、「あかつき」1往復の牽引を担当、かつての東京発着のブルトレ再現となった。新製された24系客車の組み合せも新鮮だった。





お待ちしてました! 昭和50年の山崎ですか! 懐かしいです。もう50年、半世紀も昔になったんですね。当時を知っているということは、すなわち…。
新幹線が開業するたびに在来線に大きな影響があるのは仕方のないことですが、この改正で関西から九州方面の列車は大きく変わってしまいました。それにしても「あかつき」が7往復もあったとは驚きで、時刻表を引っ張り出しますた。ホンマや、日豊本線の「彗星」も5往復運転されていて、夜行の急行も懐かしい愛称がありました。
私も3月改正の前に山崎で写しています。ただし総本家様のように何度も行くほど熱心ではなく、たった一度行ったきりです。久しぶりにネガを見るとヘッドマークを誇らしげに掲げたEF58が輝いて見え、最後の花道を飾ったように感じます。何か画像を載せようと思いましたが、おなじようにEF58を選んでも総本家様の足元にも及びませんので、ここは一発変化球で。24系25形を13両連ねた「あかつき2号」の最後尾、マヤ24 1を選んでみました。撮影は昭和50年3月8日です。
紫の1863様
連続コメント、ありがとうございます。私も改めて調べてみて驚きました。5003改正前、「あかつき」「彗星」だけで、ひと晩に12本、往復で24本、これが毎日運転されていたのですから。ほかの列車も加えると、信じられないような夜行特急が運転されていました。下り新大阪基準で見ると、上記12本の初発18:28、終発22:57まで、実に25分ヘッド! しかも、いずれも13両以上の長大編成でした。
昭和50年はちょうど小学校から中学校に上がる年でまだまだ情報なども周囲には乏しく友人たちと大阪近郊などに出かけてはいわゆるフィルムコンパクトカメラで撮影していました。子供なのでブルトレ小僧として大阪駅を縦横無尽に走り回っていました。当時住んでいたのは大阪地下鉄御堂筋線の長居駅で始発の電車に乗っても寝台特急「安芸」には間に合わず「つるぎ」も同じような状況だったので入線時に画像は残っていません。ただ、「あかつき」「彗星」はどちらも5本以上は走っており他にも寝台特急では山陽筋では「明星」「きりしま」など東海道・日本海縦貫筋には「日本海」、夜行急行「銀河」「きたぐに」、昼行急行「比叡」など被写体はたくさんありました。殆どが客車寝台でしたが「明星」の一部と「きりしま」は電車寝台でした。客車寝台はほぼEF58牽引、あかつき4号のみはEF65P型牽引でした。機材も腕もない駆け出しの頃の画像で諸先輩方の写真には遠く及びませんが1枚貼っておきます。EF58牽引の「日本海」大阪駅入線時の画像です。恐らく昭和49年の夏場撮影です。ゴハチ牽引、20系寝台、HM付でカメラ小僧が写っているのはご愛敬です。バックのホテルはつい最近まで現役でした。今この列車が走ったらエライことになると思いますがホームから線路に降りても怒られないのんびりした時代でした。
893-2様
コメント、ありがとうございます。全国股にかけて活躍の姿を拝見しています。そんな893-2さんにも、鉄道少年時代があったのですね。大阪駅、私が初めて写したのは高校1年生でした。いつも写す京都駅と比べると、人が多くて写しにくく、視線も気になっていました。京都駅のような中線もなく、前勝ちの写真しか撮れませんでしたが、写真のようにホーム端まで来ると、今の大阪駅とは比べものにならない、屋根もない、順光下で撮れたのですね。