異常な暑さが続き 外出を控えていましたが、少し暑さが和らいできたので近場の取材に出かけました。まずは、橋上駅化工事が進む西高屋駅の様子から。この駅は山陽鉄道開通時の明治27(1894)年からあったかというと そうではなく、大正6(1917)年7月13日に当時の鉄道院によって信号場として開設されています。輸送量の増大に伴い、白市・西条間(9Km)のほぼ中間に交換設備として開設されたようです。正式に西高屋駅に昇格し、客貨扱いが始まったのは大正15(1926)年10月1日でした。この駅に以前から注目していたのは、上り下りのプラットホームにレンガ積みの開業時のホームの痕跡がしっかりと残っているからです。スケッチ図は現在の様子を示します。
中央に待避線のある2線2面の配線です。赤線で示した部分にレンガ積みのホーム跡が残っています。
信号場時代の配線はわかりませんが、このレンガ積みホームが作られたのは大正15年の開業時だと思われます。それでも98年を経過しています。大正末期にはまだレンガが建築資材としての地位を守っていたのでしょう。レンガの積み方を見てみると、フランス積みでした。
この度の橋上化工事に伴って プラットホームも大改修され、このレンガ積みが消滅するのではと心配してましたが、それは杞憂に終わりホッとしています。一方、跨線橋は取り壊される運命にあります。この跨線橋は古レールを組んで作られており、これはこれで改めて調査することにしています。
下りホームから南側を見ると、コンクリート製の怪しげな橋台跡が残っています。西側橋台は雑草がはびこって姿が見えませんが、東側橋台はよく見えます。
どう見ても道路橋の残骸ではなく、線路跡のようですが謎のままです。かつて西高屋駅からは九州の炭鉱へ向けて、大量の坑木が積み出されたそうです。上り線側には貨物側線が残り、保線車両用に使われていますが、下り線側には貨物ホームがありません。この橋台跡は下り線側の貨物側線の跡なのかもしれません。
もう一つ面白いものを見つけました。西高屋駅は東広島市にあるのですが、広島大学の本部が東広島市に移転してからは、県内の各市の人口が減り続けているなか、東広島市だけは人口が増加しています。広大効果です。その流れもあって、西高屋には近畿大学工学部が作られ、近大付属東広島高校・中学校ができ、更には広島県立中学校・高等学校も開校し、朝の西高屋駅は中高生であふれます。そのためなのでしょうが、中高生専用の改札口(出口)が設けられています。
近大付属中高と県立中高生のみが通れますが、近大の大学生は通れません。橋上駅にも、このような専用出口が作られるのでしょう。こんな専用出口が設けられているのを初めて目にしましたが、他の事例があれば、是非ご紹介下さい。
西高屋駅の取材はこれぐらいで切り上げて、次の瀬野駅に向かいました。(その2)に続きます。