ここはどこ?わたしはだれ?国鉄(鉄道省)編① 投稿日時: 2022年10月30日 投稿者: 米手作市 話題が古すぎるのか、若い方からの反応がイマイチで、少しガッカリしている所ですが、気を取り直して国鉄編を投稿します。時代で言えば国鉄より鉄道省が正しいのかも知れません。 今回も撮影場所、車種、撮影時期など、分かることはなんでも教えてください。 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: ここはどこ?わたしはだれ?京阪電車編 《近日公開》「ここはどこ?わたしはだれ?」鋭意制作中!乞、ご期待! 追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ?ー最終回ー 追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ?-2- 追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ? ここはどこ?わたしはだれ?【増3】 ここはどこ? 客車版 ここはどこ 旗日版
以前、京都府総合資料館がコラムでとりあげておりました。 ご参考になればと思います。 加茂川橋梁を渡る蒸気機関車 (石井行昌撮影写真資料No.237) https://www.pref.kyoto.jp/kaidai/maga-s.html 返信 ↓
機関車の分類 ①B6 ②A8 ③B6後補機 ④A8 ナンバーは官設鉄道時代 ⑤日本初のパイフィック8900 ブルックス工場製? ⑥B6 ⑦B6 ⑧8900の増備型アルコ、リッチモンド工場製8927 ⑨京都鉄道(二条ー園部)1、2号機関車 後の1100型 英国ナスミスウイルソン社製 ⑩京都鉄道ターンテーブル上の無蓋貨車 撮影場所は起点の二条駅と推定 二条貨物駅の大屋根の写真を付けておきます。(1989年) 京都青物市場を控えて、丹波方面から大量の農産物輸送が当初からあったことが理解出来ました。 返信 ↓
②、④は「A8」ではないと思います。 ②の軸配置はA8同様の1B1に見えますが…タンクの形が?です。 ④は 京都・大津間の開業に合わせて1881年に導入された英国キットソン社製機関車、形式Y→B2、後の1800形ですね。No.46ですから1893年の改番後の撮影ですね。No.40(1801)が京都鉄道博物館にあるのは皆さんご承知の通り。南側には複線化工事にともなう工事中と思われる橋脚が一列みられます。複線化は1897年3月に竣工していますから、その直前に撮影された写真でしょう。 返信 ↓
こんばんは。久しぶりにお邪魔致します。 さて⑤の写真ですが、客車1両目はスユニ9925、2両目は丸窓の明かり窓が特徴のスロネ10055だと思われます。3・4両目は同じ窓割りに見えます。「とれいん」1987−11号の記事通り、としますとこの後はスロ9340が2両、次はスシ10150、スイネ10015、ラストがオテン9020、そして後補機。新橋下関間の特別急行列車ではないでしょうか。時期ですが、明治45年から大正初期の18900デビュー前の撮影と推測いたします。 返信 ↓
私、珍書「寝台車物語」という一般風俗史的な奇妙な本(1957年松山書房)という本を持っています。 この本に出て来る「ダブルベッド異変」という風俗記事に多いに刺激を若い頃に受けたのですが、これに該当するのがスロネ10055なのですね。 学生時代に「これは面白い!」と一般古書店で発掘した本ですが、40年ぶりに書庫から探して来ようという気になりました。 院型でシングルルーフ客車が少しあったことも判り、大変興味を覚えました。ありがとうございます。 https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001195290-00 返信 ↓
私事ですが10月29日に身近な知人が危篤となり、30日早朝に亡くなりました。そのため本日の葬儀までパソコンに触れる時間が無く、コメントにも目を通す時間がありませんでした。今久しぶりに拝見したら、多くの方からご意見をいただいていました。ほったらかしていてすみません。 K.H.生さん、乙訓の老人の甥さん、紫の1863さん、うずら校長さん、 留守中のご世話、ありがとうございました。 気を取り直して続けていきますので宜しくお願い致します。 返信 ↓
米手作市様の反応が無いので、どうされたのかと心配しておりました。お疲れのことと存じますが、米手様のお好きな「客車」の話題をご覧になってください。 うずら校長様のコメントを拝見し、〝特別急行〟について調べてみました。半世紀前なら何とかなっても、1世紀も前になるとチンプンカンプンです。紆余曲折の末に辿り着いたのが「鉄道旅行案内 大正5年版」で、〝特別急行〟が載っていました。郵便荷物車・二等寝台車・二等車・二等車・食堂車・一等寝台車・展望車の7両編成で、車内の座席や寝台の配置がわかるというものです。ネットでは各々の形式についても記載があり、1912年に一形式あたり5輌が製造されていたとわかりました。5編成分あったわけです。しかも、7両すべてが3軸ボギー車です。 ところで、6両めの一等寝台車はスイネ10005ではないでしょうか?「鉄道旅行案内」の図では解放寝台と区分室の両方を備えてますが、スイネ10015は解放寝台のみで該当しません。また、製造も2両に留まっています。 さて、〝特別急行〟ですが、1912(明治45)年6月15日に運転が始まった「特急」の元祖です。新橋と下関を結び、下りの1列車は新橋発が8時30分、下関には翌日の9時38分に到着します。上りの2列車は下関発が19時10分、新橋着は翌日の20時25分でした。片道25時間余りもかかり、新橋を下り列車が出発した頃、前日に出た列車は下関の手前を走っているという状態です。最低でも3編成が必要で、予備を含めて5編成が用意されたのでしょう。 この〝特別急行〟は一等車と二等車だけで、展望車の付いた豪華列車です。新橋-下関間を二等寝台利用に乗車すると、14円92銭かかったとか。今の金額に換算すると、どれほどなのか見当もつきませんが、庶民には手の届かない高嶺の花だったのでしょう。九州への乗り継ぎはもちろん、関釜連絡船で釜山に渡って朝鮮・南満州・東支鉄道を経由し、シベリヤ鉄道に乗り継げばヨーロッパへと鉄路は続きます。欧亜連絡をも視野に入れた、国の威信をかけた豪華列車だったのです。 ⑤と⑧は上りの〝特別急行〟2列車で、鴨川鉄橋の通過は8時過ぎでしょうか? 鴨川運河の東岸から撮影された⑧は、機関車が朝日に輝いているように見えます。⑤の8929、⑧の8927は共に1911年アルコ・リッチモンド製です。 返信 ↓
⑨の京都鉄道1号は1894年にナスミス・ウィルソンで製造された0‐6‐0タンク機で、1907年の国有化後は1100形1111となります。1912年には内務省土木局へ譲渡され、各地の河川工事に使用されました。廃車の時期は不明です。京都鉄道に入線した時期が早く、建設工事に従事したものと思われます。 ⑩の無蓋車は自社工場で製造された〝を〟形で、26両ありました。背景にはホームが見えます。ずいぶん高く盛り土されてますが、二条駅ができる前は一面の田んぼで、水分を避けるために嵩上げされたものと思います。転車台はホームの西側にありましたが、後に貨物ヤードが整備された時に埋められたようです。ところが1998年のこと、高架に伴う周辺の整備工事で出土しました。ホームの西側には数多くの線路があったのを覚えていますが、まさか京都鉄道の転車台が埋まっていたとは、知る由もありませんでした。 返信 ↓
京都鉄道1号は、ナスミス・ウィルソン製造番号459で、国有化後1111となった後に高梁川の河川工事に従事し、1950年代に廃車されているようです。 鉄道院1100はナスミス・ウィルソン製の14両ですが、同系車は英国各社製のみならず、国産コピーも作られました。特に淀川の河川改修工事には、ナスミス製以外に、内務省千住機械工場、内務省大河津機械工場、大阪鉄工所製の同型機が使用されています。 添付写真の「淀増3」は千住機械工場製です。 返信 ↓
今の奈良線の鴨川橋梁の写真だと思います。
複線前後の過渡期の映像は、興味深いですな。
以前、京都府総合資料館がコラムでとりあげておりました。
ご参考になればと思います。
加茂川橋梁を渡る蒸気機関車
(石井行昌撮影写真資料No.237)
https://www.pref.kyoto.jp/kaidai/maga-s.html
機関車の分類
①B6
②A8
③B6後補機
④A8 ナンバーは官設鉄道時代
⑤日本初のパイフィック8900 ブルックス工場製?
⑥B6
⑦B6
⑧8900の増備型アルコ、リッチモンド工場製8927
⑨京都鉄道(二条ー園部)1、2号機関車 後の1100型 英国ナスミスウイルソン社製
⑩京都鉄道ターンテーブル上の無蓋貨車 撮影場所は起点の二条駅と推定
二条貨物駅の大屋根の写真を付けておきます。(1989年)
京都青物市場を控えて、丹波方面から大量の農産物輸送が当初からあったことが理解出来ました。
②、④は「A8」ではないと思います。
②の軸配置はA8同様の1B1に見えますが…タンクの形が?です。
④は 京都・大津間の開業に合わせて1881年に導入された英国キットソン社製機関車、形式Y→B2、後の1800形ですね。No.46ですから1893年の改番後の撮影ですね。No.40(1801)が京都鉄道博物館にあるのは皆さんご承知の通り。南側には複線化工事にともなう工事中と思われる橋脚が一列みられます。複線化は1897年3月に竣工していますから、その直前に撮影された写真でしょう。
⑨の京都鉄道1、2号機関車についてですが、
No.2 は開業前の1895年に陸軍に徴用され台湾総督府鉄道に移っています。
⑤の撮影は大正初めころと思われますが、客車にお詳しい米手様、推定できませんか?
一番右の橋脚と塀ですが、昭和46年でも見ることができました。
⑨の京都鉄道1号です。
⑨の京都鉄道1号、もう1枚。
こんばんは。久しぶりにお邪魔致します。
さて⑤の写真ですが、客車1両目はスユニ9925、2両目は丸窓の明かり窓が特徴のスロネ10055だと思われます。3・4両目は同じ窓割りに見えます。「とれいん」1987−11号の記事通り、としますとこの後はスロ9340が2両、次はスシ10150、スイネ10015、ラストがオテン9020、そして後補機。新橋下関間の特別急行列車ではないでしょうか。時期ですが、明治45年から大正初期の18900デビュー前の撮影と推測いたします。
私、珍書「寝台車物語」という一般風俗史的な奇妙な本(1957年松山書房)という本を持っています。
この本に出て来る「ダブルベッド異変」という風俗記事に多いに刺激を若い頃に受けたのですが、これに該当するのがスロネ10055なのですね。
学生時代に「これは面白い!」と一般古書店で発掘した本ですが、40年ぶりに書庫から探して来ようという気になりました。
院型でシングルルーフ客車が少しあったことも判り、大変興味を覚えました。ありがとうございます。
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001195290-00
私事ですが10月29日に身近な知人が危篤となり、30日早朝に亡くなりました。そのため本日の葬儀までパソコンに触れる時間が無く、コメントにも目を通す時間がありませんでした。今久しぶりに拝見したら、多くの方からご意見をいただいていました。ほったらかしていてすみません。
K.H.生さん、乙訓の老人の甥さん、紫の1863さん、うずら校長さん、
留守中のご世話、ありがとうございました。
気を取り直して続けていきますので宜しくお願い致します。
米手作市様の反応が無いので、どうされたのかと心配しておりました。お疲れのことと存じますが、米手様のお好きな「客車」の話題をご覧になってください。
うずら校長様のコメントを拝見し、〝特別急行〟について調べてみました。半世紀前なら何とかなっても、1世紀も前になるとチンプンカンプンです。紆余曲折の末に辿り着いたのが「鉄道旅行案内 大正5年版」で、〝特別急行〟が載っていました。郵便荷物車・二等寝台車・二等車・二等車・食堂車・一等寝台車・展望車の7両編成で、車内の座席や寝台の配置がわかるというものです。ネットでは各々の形式についても記載があり、1912年に一形式あたり5輌が製造されていたとわかりました。5編成分あったわけです。しかも、7両すべてが3軸ボギー車です。
ところで、6両めの一等寝台車はスイネ10005ではないでしょうか?「鉄道旅行案内」の図では解放寝台と区分室の両方を備えてますが、スイネ10015は解放寝台のみで該当しません。また、製造も2両に留まっています。
さて、〝特別急行〟ですが、1912(明治45)年6月15日に運転が始まった「特急」の元祖です。新橋と下関を結び、下りの1列車は新橋発が8時30分、下関には翌日の9時38分に到着します。上りの2列車は下関発が19時10分、新橋着は翌日の20時25分でした。片道25時間余りもかかり、新橋を下り列車が出発した頃、前日に出た列車は下関の手前を走っているという状態です。最低でも3編成が必要で、予備を含めて5編成が用意されたのでしょう。
この〝特別急行〟は一等車と二等車だけで、展望車の付いた豪華列車です。新橋-下関間を二等寝台利用に乗車すると、14円92銭かかったとか。今の金額に換算すると、どれほどなのか見当もつきませんが、庶民には手の届かない高嶺の花だったのでしょう。九州への乗り継ぎはもちろん、関釜連絡船で釜山に渡って朝鮮・南満州・東支鉄道を経由し、シベリヤ鉄道に乗り継げばヨーロッパへと鉄路は続きます。欧亜連絡をも視野に入れた、国の威信をかけた豪華列車だったのです。
⑤と⑧は上りの〝特別急行〟2列車で、鴨川鉄橋の通過は8時過ぎでしょうか? 鴨川運河の東岸から撮影された⑧は、機関車が朝日に輝いているように見えます。⑤の8929、⑧の8927は共に1911年アルコ・リッチモンド製です。
⑨の京都鉄道1号は1894年にナスミス・ウィルソンで製造された0‐6‐0タンク機で、1907年の国有化後は1100形1111となります。1912年には内務省土木局へ譲渡され、各地の河川工事に使用されました。廃車の時期は不明です。京都鉄道に入線した時期が早く、建設工事に従事したものと思われます。
⑩の無蓋車は自社工場で製造された〝を〟形で、26両ありました。背景にはホームが見えます。ずいぶん高く盛り土されてますが、二条駅ができる前は一面の田んぼで、水分を避けるために嵩上げされたものと思います。転車台はホームの西側にありましたが、後に貨物ヤードが整備された時に埋められたようです。ところが1998年のこと、高架に伴う周辺の整備工事で出土しました。ホームの西側には数多くの線路があったのを覚えていますが、まさか京都鉄道の転車台が埋まっていたとは、知る由もありませんでした。
京都鉄道1号は、ナスミス・ウィルソン製造番号459で、国有化後1111となった後に高梁川の河川工事に従事し、1950年代に廃車されているようです。
鉄道院1100はナスミス・ウィルソン製の14両ですが、同系車は英国各社製のみならず、国産コピーも作られました。特に淀川の河川改修工事には、ナスミス製以外に、内務省千住機械工場、内務省大河津機械工場、大阪鉄工所製の同型機が使用されています。
添付写真の「淀増3」は千住機械工場製です。
この「淀3」は淀川の工事用に発注されたナスミス・ウィルソン製(1898年、製造番号540)です。1100の同型ですが終始工事用でした。