明けましておめでとうございます。年が明けましたので、風邪で伏せっておられた米手様を元気づけるため、「ここはどこ? 客車版」で仕事始めと致します。ただし米手様のように温情が苦手な私ゆえ、いきなり手強い1枚をヒントなしで送り出すことにしました。お屠蘇気分の方は酔いがさめるかも。
場所の特定はともかく、まずは線区名からご賢察を。
明けましておめでとうございます。年が明けましたので、風邪で伏せっておられた米手様を元気づけるため、「ここはどこ? 客車版」で仕事始めと致します。ただし米手様のように温情が苦手な私ゆえ、いきなり手強い1枚をヒントなしで送り出すことにしました。お屠蘇気分の方は酔いがさめるかも。
場所の特定はともかく、まずは線区名からご賢察を。
明けましておめでとうございます
早速のご投稿、ありがとうございます。
写真が拡大できないのでよく解りませんが、機関車は8620でしょうか。
当てずっぽうで芸備線とはいかがでしょうか?
米手作市様
明けましておめでとうございます。さっそくのコメント恐れ入ります。機関車はハチロクですが、芸備線ではありません。昭和43年の早春です。ところで、スヌ311には脱帽です。さすがです。今年もよろしくお願い致します。
出直して参ります。
新年おめでとうございます。外野より失礼致します。昭和43年時点で、86が単機で、7輛もの客車を牽いていた路線は限られるかと。小生が実際に見た例では、花輪線と磐越東線(平口)くらいです。見ていないが、可能性あるのは四国でしょうか?九州は、86の客車牽引は未だ残っていたが、こんな長編成は無かったと思いますが。
西村雅幸さま 宮崎繁幹さま
謹賀新年。皆様良いお年をお迎えのことと存じます。傍からチャチャを入れますが、今年もよろしくお願い申し上げます。
さて新春早々から我々を悩ませているこの写真ですが、旧松浦線(現松浦鉄道)の朝の佐世保行きあたりではないでしょうか。写真の風景からは線区や場所の特定につながる情報は得られず、やはり86と客車編成に頼るしかないと思い、昨日から正月のゴロ寝もせずにあれこれ思い巡らしていました。当時86は未だ全国に散らばっていたと思いますし、86+客車という組成も宮崎さまの仰るようにいくらかあったかと思います。ただやはり現認できたものが殆ど無いため、なかなか特定するには至りませんでした。そこで宮崎さまの「九州・86・長編成」のコメントに触発されて目を付けたのがこの列車の特異な編成です。この列車は編成中のユニ・ニの多さからして、「通常編成」(他の列車も同様の編成で運転されている、という意味)ではなく、この列車のみの「特定編成」ではないか、といういわば仮説をたててみました。そういう目でこの編成を見てみると、1~3両目と5~7両目が最後尾がオハニではあるものの、ほぼ同一編成と見做されます。つまりこれら3両が通常編成であり、朝の輸送力を確保するためそれらを2編成繋いだのではないかと考えました。但し編成中央のオハユニの意味がよくわかりませんが、ラッシュ用の増結車(オハユニでは余り意味がない?)ではないかと思います。こう考えると当時の松浦線の客レはその殆どが3両編成程度であったことを見ていますし、雑誌等の写真でも見た記憶があります。よって冒頭の結論?を得たわけですがいかがでしょうか。見当違いなら新春早々のお笑いと思ってください。
それにしてもまたしても米手さまの策略に嵌ってしまいました。小生のような純粋・純情な会員としては、正解を得たいがしかし手掛かりがない、という状況は強いストレス以外のなにものでもありません。自分が風邪で伏せっているからといって、健康な会員にストレス従ってそれによる睡眠不足を強いて、新春の安らぎを奪うなどは決して許されることではありません。とはいえクイズとみれば、なんとか解を得たいと思うのも人情で、今年も米手さまの陰謀・策略に嵌り続けることになるのでしょうか。皆様気をつけましょうね。
米手様、宮崎様、1900生様
新年早々にストレスを生じさせまして誠に申し訳けございません。種明かしを致します。宮崎様のご賢察通り、花輪線です。今から半世紀も前の昭和43年にめでたく高校を卒業し、DRFCに入学する手前の春休みに友人と東北を1週間巡りました。手にしていたのは東北均周とカメラということで、毎晩夜行列車の乗り継ぎで1週間過ごしました。そんなことができるほど、幹線には夜行列車が数多く走っていた時代でした。この日は花輪線龍ケ森を訪ねたあと好摩に出て、東北本線と花輪線の二兎を追おうとしましたが、欲張るとロクなことはなく、まともな写真は撮れず、くたびれもうけでした。そんなわけでこのカーブは東北本線(おっと、今はIGRいわて銀河鉄道と言うそうですが)の好摩駅を出た花輪線が西に向かってカーブしてゆく地点です。1900生様のコメントにもありますように、この編成の謎は半世紀経っても解けていません。夕方の列車ですが、このままの7両で龍ケ森を越えたとも思えず、手前の大更でうしろの3,4両を切り落として翌朝の盛岡行きにでも仕立てたのではないかと勝手に想像をふくらませています。オハ61、オハユニ61、オハニ61に混じってオハ60もいますね。ローカル線の客車列車の典型のような編成ですね。この時に本線側は電化工事が進んでいましたが、架線の下をC61など大型蒸機が重連で奥中山へ向かっていました。米手様の仕掛けにはまったおかげで、半世紀前のネガをじっくりと見ることができました。何よりのお年玉になりました。米手様、お神酒も入って風邪も退散したことでしょうから、新たな難問を抱えてのご出撃をいまや遅しと待ち受けることに致します。
宮崎さん、1900生さん、ご協力ありがとうございます。今年もよろしくお願い致します。
負け惜しみを言いますが、私も真っ先に花輪線を思いました。西村さんの年代で8620の引く客車列車は花輪線ぐらいしか思い浮かびませんでした。しかし、後の山容が東北らしくないのと7両編成を単機で引くのは難しいと考えたからです。
俄然健康になりましたので松の内は張り切って参ります。
西村雅幸さま
残念!花輪線でしたか。ということで43.10以前の時刻表で花輪線をチェックしたところ、客車の一部開放に結び付く面白いことを発見しましたのでご報告します。まず写真の列車は盛岡16:17発大館行335レで、西村さまご推測の大更では停車時間が短く、解放作業ができないと思われます。大館方面行下り客レはこの335レのみで、好摩~大更間の所要時分は時刻表上は14分間ですが、運転時分の参考になる列車がありません。前後のDCレは好摩から最短11分で走っています。このことから335レは両駅間の東大更を通過しているものの、大更までは緩いとはいえ登り勾配でもあることから、12~13分程度はかかっていたものと推定されます。よって停車時間は数分程度であったと思われます。
いっぽう花輪線全体のダイヤをみると、客レは上下とも2本づつですがダイヤは変則で、直通列車が各1本と区間列車が下り荒屋新町5:30発大館行333レ、上り大舘17:32発荒屋新町行336レ及び荒屋新町5:52発盛岡行332レとがあります。みての通りこれでは大館行333レに充当できる客車がありませんので、写真の335レの一部を荒屋新町で切り離し、翌朝の333レに充当したものと思われます。ここでちょっと疑問がわきました。この推測の場合、335レは7両で竜が森を越えたことになります。皆様花輪線を思いつかれても7両で越えられるか、という点から特定できずにおられたのではと思料します。小生もはじめはそう思いましたが、そこで思い出したのが3重連でした。大更には多分86が居たはずですから、補機が何両だったかはわかりませんが、補機を付けて越えたのは確実だと思います。そうなら先のダイヤも納得できますし、荒屋新町解放だった可能性も高くなります。
ところで写真のカーブは以前盛モカに復活した原色キハ58+キハ52を反対方向に撮ったことがあり、この角度だとバックに姫神山が入ります。これだとすぐにわかったのですが、これはいささかやせ我慢ですね。
ところで西村さまは決して原因者とは思っておりませんのでご安心を。むしろ陰謀・策略の被害者ではないかと思っています。ゆめゆめ油断なきようにしましょう。
皆様
訂正です。前信の花輪線ダイヤの説明において、参照時刻表を間違え、昭和39年版を載せるというとんでもないミスを犯しました。それほど酔いが回っていた訳ではありませので、たぶん米手さまからのストレスとプレッシャーが原因でミスったかと思われますが、幸いどちらさまもまだお気づきになっておられないようですので、ここにお詫びして訂正させて頂きます。
昭和43年春ということでしたので、42年3月訂補の時刻表です。客レのダイヤパターンは変更ありませんが、列車番号と時刻が変わっています。下り:荒屋新町発大館行は5:25発325レに、盛岡発大舘行は15:38発1341レに、上り荒屋新町発盛岡行は5:48発322レに(好摩→盛岡間は東北本線北福岡発一ノ関行526レに併結)、大舘発盛岡行は6:09発1326レに、大舘発荒屋新町行は17:32発340レにそれぞれ訂正いたします。
新年早々ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。
外野より失礼致します。1900生さまのコメントを読み、「あぁヤッパリそうだったか」との感慨を新たにしました。と云うのも小生、この盛岡発大舘行1341レを撮影したことがあります。その時の印象から、西村さまの写真を見たときに、花輪線かなと思った訳でした。しかし、米手さまと同じく、単機で牽いていけるのだろうか?、と感じたことも確かでした。この時は、奥中山での撮影を切り上げ、盛岡に戻る途中。好摩で、この列車に出会い、ホームに飛び降り、撮ったら直ぐまた列車に乗り込んだのです。昭和43年3月24日のことでした。そんなことも、西村さまのお蔭で50年ぶりに思い出しました。
宮崎繁幹様
コメントありがとうございます。驚きました。宮崎様が好摩駅で撮影されたのが昭和43年3月24日、そして私が冒頭の写真を好摩で撮ったのが、4日後の昭和43年3月28日なのです。24日は京都の実家で明日は東北へ出発すると、リュックに荷物を詰め込んでいた日です。25日に京都を発ち、御殿場線、奥中山、龍ケ森と回って好摩へたどり着いています。そのあと会津線や仙山線を訪ねて、31日に京都に戻っています。6泊すべて夜行列車でしたが、元気だったのですね。そして翌月DRFCに入学したということになります。私も50年ぶりにあの旅のことを思い出しております。今はいくらお金を積んでも、1週間毎晩夜行列車で旅をするという贅沢は出来ない時代になってしまっていることを改めて気付かされました。
ニアミスでしたね。4日の違いで、知遇を頂くまで、50年かかってしまいましたが。今後とも宜しくお願い致します。