予告したとおり「わたしはだれ?ここはどこ?・京阪電車編」を投稿します。
この記録写真は重澤崇先輩が所蔵されているものを宇出木信吾氏からの依頼を受けて米手作市が代理投稿するものです。
スキャンするに際しては極力暗部を出すようにしましたが、原画が写真のため潰れているのはご了承ください。また、傾き等は補正しましたが、写真の全体像はカットせずに記録しています。
ご覧になった探偵諸氏には①撮影場所 ②車両の型式等 ③撮影時期 を推察下さい。
まずは「京阪電車」と思われるものからスタートします。
予告したとおり「わたしはだれ?ここはどこ?・京阪電車編」を投稿します。
この記録写真は重澤崇先輩が所蔵されているものを宇出木信吾氏からの依頼を受けて米手作市が代理投稿するものです。
スキャンするに際しては極力暗部を出すようにしましたが、原画が写真のため潰れているのはご了承ください。また、傾き等は補正しましたが、写真の全体像はカットせずに記録しています。
ご覧になった探偵諸氏には①撮影場所 ②車両の型式等 ③撮影時期 を推察下さい。
まずは「京阪電車」と思われるものからスタートします。
まだ充分に調べておりません。これらの写真はすべて「石井行昌撮影写真資料」として「京都府立京都学・歴彩館 デジタルアーカイブ」にございます。
① 元資料には京阪とだけ記載。
② 元資料には京阪とだけの記載ですが「いなりしんみち」と駅名標にあります。京阪1型14号。大阪行きホームに停車中。
③ 元資料には京阪とだけの記載ですが中書島ですね。京阪1型27号大阪行き、30号?宇治行き。
④ 元資料には京阪とだけ記載ですが予告編に書いた通り、五条、京阪1型
⑤ 鴨川松原と元資料にはあります。疎水と京阪1型。
⑥ 元資料には京阪とだけ記載。宇治川橋梁ですね。
中途半端なコメントで失礼いたしました。
添付の写真は「京阪電気軌道株式会社中書島停留所」
乙訓の長老の甥様は流石に早いですねえ。にわか仕込みの知識では、とても太刀打ちできません。
①の撮影場所は難しいです。
⑥の橋梁は宇治川なのか、木津川なのか決めかねています。
②の稲荷新道は現在の伏見稲荷駅ですね。1910(明治43)年4月15日に稲荷新道として開業しましたが、8か月後の12月には稲荷に改称されております。乗客の服装や電車の窓が閉まっていることから、開業間もない頃か秋口のように思います。いずれにしても1910年の撮影で、わずか8か月間しか存在しなかった「いなりしんみち」の駅名が写っているのは貴重な記録です。
⑤は手前が疎水、電車の向こうには鴨川が流れています。「鉄道ファン」82号に重澤氏をはじめとする、同志社鉄道同好会の三巨頭が連名で石井写真を紹介されています。撮影場所は「正面橋を北へ行ったところ」との解説があります。
車輌は全て1形で、明治43年から大正3年にかけて65輌が製造された、13m級の木造電車です。デッカーの電装品、台車はブリル27E1です。46両が100形に改造され、昭和3年に形式が消滅しています。
なお1形についての詳細な記事は、乙訓の長老様が鉄道ピクトリアル553号に書かれています。
⑥の鉄橋は木津川と訂正したいと思います。オリジナル画像で見ると、トラス橋が8連あるように見えます。宇治川は7連、木津川は9連ですので、木津川かと思われます。
当てずっぽうですが①は淀か八幡付近ではないでしょうか?
⑤は向こうの方に見える大きな屋根は、五条鴨川の料亭「鶴清」と「鮒鶴」と思われます。
①の写真ですが、私は宇治線観月橋付近から桃山南口方面を向いて撮影されたのでは? と考えています。
①は私も紫の1863さんと同意見です。
そのあたりの堤防上をストリートビューで見ると…
⑤について再検証しました。鉄道ファン82号の「正面橋の北側」説なら、画面右手の橋は五条大橋となります。しかし、④の画像とは擬宝珠をはじめ、全体の雰囲気が違うようです。そこで、歴彩館の資料にある「鴨川松原」説を、考えてみました。松原橋の下流に鴨川運河の閘門はあるのか?航空写真で確認が取れ、資料によると距離は150mほどです。
鴨川の右岸を流れる「みそそぎ川」も傍証になります。丸太町橋から五条大橋までで、正面橋にはありません。大正6(1917)年、木屋町・先斗町の茶屋から陳情が出され、この時に造成されたようです。
「鶴清」は五条大橋の北に位置し、木造3階建ての建物が竣工したのは昭和8(1633)年。「鮒鶴」は松原橋の北で、木造3階建ての旧館の竣工は大正14(1925)年です。石井行昌氏は大正12(1923)年に逝去されていて、撮影は不可能です。
さて、肝心の撮影場所ですが、やはり松原橋の南のようです。時期は「みそそぎ川」から考えて、大正6~7年頃かと思います。
すみません、打ち損じです。下から5行目の「鶴清」の竣工年は昭和8(1933)年が正しいので、訂正します。
お二人のご意見を取り入れてデータに書き込みました。
話題が古すぎるのか、あまり活発なご意見が出ないのがちょっとさみしいですね。
なんといっても100年以上昔の話題ですので、関心が薄いのも仕方ないかと思います。
私は以前、木屋町で開催された総本家様の写真展会場で、石井行昌氏撮影の場所不明とされる写真を見て以来、病み付きになってしまいました。
京都歴彩館のサイトを知ってからは、これまでに見たこともないような鮮明な画像に出会い、ますます深みにはまってしまいました。人々の服装や、今では見ることのできない街並みを見て遠い昔を偲び、広告看板に意外な企業の歴史を知りました。
重澤様が鉄道ファン誌に発表されてから54年、今ではネットで昔の地図や資料を見ることが可能になり、自宅に居ながら調べ物ができるようになりました。しかし、やはり基本は鉄道誌の記事や写真であり、先人の研究成果なくしてはあり得ないものと考えております。
面白半分で淀の鉄橋の写真でも付けておきましょう。
1983年12月4日昇圧翌日です。
土台は補強されていますがトラス部は変わっていないと思われます。