ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ④終 投稿日時: 2022年11月27日 投稿者: 米手作市 それでは続けて参ります。 52 54 56 60 62 64 68 69 72 77 81 82 83 84 85 86 87 重複した写真は省きました。これで全てです。見覚えのある場所もあれば、どこだか見当もつかない場所もあります。場所の特定は可能なのでしょうか? 探偵さん、宜しくお願い致します。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ③ ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ② ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ① ここはどこ?わたしはだれ?国鉄(鉄道省)編② ここはどこ?わたしはだれ?国鉄(鉄道省)編① 追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ?-2- 追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ? ここはどこ?わたしはだれ?【増3】
京電の堀川中立売の写真が少ないように思いますが、重複しているので省かれたのでしょうか? 京電・京都市電に京福・京阪もあって楽しいですね。初めて見る写真もあって、「なるほど、ここはこうなってたのか」と思うこともあります。見慣れた写真も改めて見直しますと、これまでに気付かなかった発見もあって良い勉強になりました。 返信 ↓
52 烏丸今出川で大正2年から6年の間に撮影された、広軌1形17号、大宮七條行です。奥に伸びる道は拡幅前の今出川通りです。 54 烏丸今出川下がる、乾御門付近で行き交う広軌1形163号と142号。線路は東寄りに敷設されてました。 56 今出川通りを右折し、烏丸通を南下する広軌1形69号。奥に同志社の彰栄館が写っています。 60 壬生車庫で撮影された貴賓車。明治45年6月に貴賓車1・2号として竣工し、大正12年に普通車に改造され171・172号となります。おそらく明治45年の撮影でしょう。番号は分かりません。 62 壬生車庫前で撮影された花電車。「運輸開始」と書かれていますので、明治45年6月の市電開業時でしょう。 64 壬生車庫前の後院通りで撮影された36号。ポールが反対方向ですので、折り返しの発車待ちでしょう。日の丸を掲げてますので、明治45年6月11日の開業当日でしょうか。壬生車庫から四条大宮方面へ線路が延伸するのは大正元年9月12日ですので、開業から3カ月ほどの間に撮影されたのかもしれません。 68 堀川中立売の鉄橋を渡る京電です。番号は読み取れませんが、一桁のようです。撮影は下ノ森まで延伸した明治33年5月以降、告知人(先走りの少年)が廃止された明治37年11月まででしょう。特筆すべきことは台車で、明治23年に東京の上野公園で展示運転されたスプレーグ式電車のものと酷似しています。電車は2両でしたが台車は3両分あったのか、それとも京電に電動機を納入した三吉電機工場が見よう見まねで作ったものか、真相は解明されていません。 69 堀川中立売で撮影された京電の十一号。堀川を渡る鉄橋は無く、中立売が終点だった明治28年9月24日から明治33年5月まででしょう。屋根に日の丸と京電の社旗が見えます、何かの旗日なのでしょうか。 72 京電北野線、下ノ森付近。電車の前に先走りの少年が見えます。中央の建物はこの頃の車庫ですが、後になってから少し奥に昭和36年のN電廃止まであった北野車庫が建設されました。北野神社の千年祭が執り行われた、明治35年の撮影です。 77 烏丸今出川で撮影された「開通一周年記念」の花電車。大正2年でしょうか。 81 京電 寺町今出川の離合所で撮影された「でまちば志ゆき」34号。白っぽい車体がどのような色だったのか、気になります。「さよなら京都市電」には『一説によるとブルーともいわれている』との記載があります。また、同書では明治34年頃の撮影としています。 82 京電 鴨川を渡る勧進橋で、東から西を向いて撮影されています。 83・84・85 嵐山電車(現京福電鉄)に嵐山で撮影された1形15号と8号。電車の南に駅舎があり、奥に天龍寺の石垣が見えます。15号の行き先に「京都行」とあるのは現在の四条大宮です。明治43年3月25日の開業で、撮影は同じ年の夏至の頃でしょうか。 86 京津電軌(現京阪大津線)の札ノ辻で撮影された1形15号。ちょっとわかりにくのですが、2連3組の側窓の上部には装飾が施されています。今は800形4両編成が行き交う京町一丁目付近も、電車が走り始めた明治45年頃は東海道の面影が見られたようです。右手に行くと浜大津ですが、線路が伸びるのはまだ先のことでした。この辺の事情は大津の86様が詳しいと思います。 87 京電の堀川下立売です。府庁前から下立売通りを西へ走ってきた電車が、堀川通りを北へと進路を変えるところです。下立売以南は未開通ですので、明治28年9月から明治34年12月までの撮影でしょう。白いワンピースのような服を着た男性?は、流行の最先端を走っていたのでしょうか。 返信 ↓
紫の1863様 ご指名頂きましたが、恥ずかしながら、86の写真が京津電軌札ノ辻の写真と書かれていたのを見て初めてじっくりと写真を見た次第です。この写真は元々はどなたが撮られたのか分かりませんが、大津市史にも出ている写真で、電車の後ろに見えている建物は初代大津市役所です。札ノ辻から浜大津までの延長工事は札ノ辻まで開通後早い時期から計画されていましたが、突抜通りの拡幅などで話がまとまらず、大正9年になって突抜通りの拡幅工事に対して京津電軌と大津電軌が一部の費用を負担することで計画が動き出し、大正13年5月に特許状が交付され京阪との合併後の大正14年5月5日に浜大津までの延長工事が完成しました。写真はもちろん大正14年の開通以前のものですが、突抜通りの拡幅工事はいつ始まったのかはわからないため、これ以上さかのぼることはできませんでした。但し写真に写っている初代大津市役所は大正5年に移転しています。移転後建物が取り壊されたのかは不明なもの、車両の後ろに掲示板のようなものが写っており、もしかすると市役所として使われていた時代かもしれません。尚、車両は1形5号ですね。 返信 ↓
大津の86様 浜大津までの延伸の経緯が良くわかりました、ありがとうございます。京阪の通る道が突抜通、札ノ辻で交差する通りが京町通だったのですね。鉄道が開通する前は物流の拠点として、賑わったことがうかがえます。「大津百町」はこのあたりですか? 電車の後ろの建物が大津市役所だったとは、知りませんでした。私は隣の店のめんるい・寿司・まむしに気を取られてました。 この写真が「大津の札ノ辻」と知っていたものの、正確な場所までは把握できていませんでした。以前の投稿で「白洋舎の所に札ノ辻駅の待合所があった」と書かれていたのを思い出し、お名前を書いてしまいました。 この写真の撮影者は石井行昌(いわいゆきまさ)氏で、明治9年6月に元公家という家柄に生まれ、御所の事務や祭祀をつかさどる役職に就かれていたとか。住まいは烏丸今出川を一筋下がった道を西へ入ったところにあり、烏丸今出川はお膝元というわけです。京都市電編③にある51の写真は、石井行昌氏の自宅近くと思われます。 86の車輌は1形5号ですね、間違ってました。ご指摘いただきありがとうございます。 返信 ↓
60の貴賓車について書いた改造後の番号に、誤りがありましたので訂正します。大正12年5月に普通車に格下げ改造され、170・171となりました。こちらが正解で、171・172は間違いです。すみません。 貴賓車は明治45年6月、天野工場で1・2号が製造されました。しかし、モノが貴賓車だけに番号の表示はなかったようです。歴彩館の元資料には工事中のレンガ車庫の前で撮影された写真があって、足場が組まれていることから完成前のようです。 定員は8名とする資料が多い中、鉄道ピクトリアル356号に「椅子10脚」と高山禮蔵氏が書いておられます。注釈に「沿革史には定員8名とあるが写真等で判定すると椅子10脚と考えられる」と書き添えられてます。しかし、車内の写真は「さよなら京都市電」に掲載された一枚の他に見たことが無く、10脚の椅子がはっきりと確認できておりません。窓ひとつに椅子は1脚とゆったりとした配置で、大きな窓を背にした豪華な椅子が備えてあります。しかし窓は片側4か所しか写っていません。窓は片側に5カ所ありますので、椅子も同じようにあったとすれば10脚となりますが、外からは見えません。高山禮蔵氏も故人となられ、今となっては尋ねることも叶わなくなりました。 返信 ↓
紫の1863さん、乙訓の老人の甥さん、皆様、 永らくのお付き合い、ありがとうございました。 資料は多くの方々との突き合わせがあって完成されます。どんな写真でもここへ開示して、皆様からの情報を集めることをお薦めします。 今回のデータは、写真のファイルに書き込んでDVD化致します。 近々、別の方からの「ここどこ?」シリーズを企画しておりますのでご期待下さい。 返信 ↓
紫の18634さま 別項で木屋町二畳の定点対比をしていただいた御礼に、私も定点対比してみました。81の寺町今出川下るです。電車の離合所があって、いまも道幅の広いところです。写真81の右に、高低差のある、町家2軒があります。それが、現況の右にある2軒であると言われています。現地に行きますと、たしかに躯体は古そうです。 返信 ↓
81は「寺町今出川下がるの離合線で撮影された」というのが定説になってますが、実は少々疑問もあります。光の当たり方と、背景の樹木が気になって仕方がありません。出町橋行きの電車なら、南を向いて撮影されてます。しかし、夏至の頃としてもこれほど正面に陽が当たるのでしょうか。背景の樹木との距離も近いように思います。 離合線が設置された時期も気になります。京都市文化財ブックス「こんにちは京都市電「京都市電関係資料」をひもとく」に『離合線を設けるため道路が拡張(大正2年3月3日竣工)された』とあります。鉄道ピクトリアル356号には『離合線の建設時期の関係で他所かもしれない そうすればどこか?』との記述もあります。私は一次資料で確認したわけではありませんので、はっきり違うとは言えません。 撮影の時期は明治34年、あるいは明治35年とされています。旗を持った先走りの少年が写っていますので、遅くても明治37年11月まででしょう。寺町今出川下がるの離合線が出来た時期を大正2年とするなら、矛盾してしまいます。 ここから先は私の妄想です。撮影場所は広小路の離合線、電車は南行きと考えれば光の当たり方も納得できます。背景の樹木は立命館の校地ではないかと考えたのです。行先が反対の出町橋を表示しているのは、石井氏のリクエストに応えたのかもしれません。東九条の発電所前で撮影された一等車が逆方向を表示している前例もあります。ただ、この仮説も弱点があります。広小路の離合線が明治34~5年にできてなければ成立しません。京電は残された資料が少なく、分からないことがたくさんあります。この写真も京電ミステリーのひとつかもしれません。 返信 ↓
81が撮影された場所をしつこく考えています。前のコメントで「広小路の離合線」を書きましたが、納得できない点があって他の場所を探っています。 寺町丸太町上る、松蔭町を考えてみました。「こんにちは京都市電「京都市電関係資料」をひもとく」に出町線の記事が載っていて、離合線の青写真もあります。旧丸太町付近、理化器械店の前から北を見ると、81の背景の家並みに酷似しています。ガレージの北に立つ町屋はかなり年季が入っています。 ここでネックになるのが洛陽教会ですが、ホームページを見ると1890(明治23)年5月18日に創立し、現在の教会堂は三代目との記述がありました。初代は規模が小さく見えなかったのかもしれません。しかし、昭和の終わりころまであった、二代目の教会堂が建設された年代は書いてありません。ただ、2013年9月13日に総本家青信号特派員様が投稿された「〝八重の桜〟ゆかりの地を訪ねる」の第3回に、『写真の教会は明治26年に建てられた』との一節があります。出町線は明治34年の開業で、二代目の教会があれば写っているはずです。ここも違うのでしょうか。 どうしても光の当たり方が気になって「でまちば志ゆき」の表示を疑いましたが、定説を覆すのは難しいです。 返信 ↓
紫の1863さま くだんの写真について、新たな論を聞かせていただき、ありがとうございます。まず洛陽教会の竣工年で、誤認があり、お詫びします。明治26年説は、「町名変遷史」という分厚い本の中に、洛陽教会の詳細な沿革があり、明治26年2月5日に落成を迎えたと書かれていましたが、写真の尖塔のある会堂は、大正2年2月2日に落成式を行ったとありました。「デジ青」に載せた教会前の京電の写真も、ここに載っていましたが、会堂は出来たばかりのようで、大正2年以降の撮影と訂正させていただきます。 寺町丸太町上るの離合線は、お書きのように、理化器械の北側にある、現存の3、4軒の低い町家と、たしかに酷似しています。少なくとも60年前、私の小学校時代の記憶と全く変わっていません(当会の勧秀峰さんは、この場所と同じ町内に住まわれていましたので、さらに詳しいことが分かると思います)。でも、やはり私は寺町今出川下る付近で撮られたものではないかと思っています。矛盾点のひとつである、太陽光線の射し方ですが、夏至の前後の太陽の方位は、真北から東へ60度の角度になります。加えて寺町通は、正確に南北を貫いているのでなく、この付近では、5~10度、東に振っています。仮に夏至の頃に撮られたとすると、車両への陽の射し方には矛盾はないように思います。離合線の設置年代や、夏に撮られたにしては服装が冬っぽい疑問は残りますが、いかがでしょうか。 いま、私も所属する趣味団体で、出町線の解明が進んでいます。次号あたりの会誌で、この付近の離合線についても触れられるものと期待しています。 返信 ↓
総本家青信号特派員様 洛陽教会の落成時期を教えていただき、ありがとうございます。 私は出町線の離合所は開通時からあったものと思ってました。市営電車の開業にそなえ、京電は複線化や車輌の増備を進めていましたが、離合所もその一環だったとわかりました。 趣味団体で出町線の解明が進められているのですか? 私も楽しみです。 返信 ↓
81の写真につきまして、ちょっと参加させてください。 「でまちばしゆき」が写っていますが、京都市電の行先表示は折り返しの場合、1つ前の停留所から変更する習慣があったのではないでしょうか。伏見線の写真に、中書島の1つ手前の京橋を発車した市電の行先が、京都駅や河原町二条になっている写真を数多く見ています。 で、写真の京電は広小路に停車中だとすると、次は終点の寺町丸太町で折り返しです。従って広小路で、でまちばしを表示しても、おかしくはないと思います。1863さんの仰るように広小路説南行を補足する形となりました。ご参考になれば幸いです。 返信 ↓
勘秀峰様 アドバイスをいただきありがとうございます。一つ手前の停留所で、次の行き先を表示した可能性もありますね。私は運転手と顔見知りだったのでは?と考えました。ほぼ同時期に堀川中立売で撮影された写真のうち、2枚が81の運転手とそっくりです。当時はカメラを持つ人も少なく、運転手が石井行昌氏を覚えていたのではないでしょうか。 さて、撮影場所を巡って盛り上がってきましたが、ひとつ面白いものを見つけました。前から2枚目と3枚目の窓に注目です。樹木と石垣が写っているように見えるのです。これは御所の石垣と考えられ、広小路と松蔭町の2箇所が該当します。81の写真では確認できませんが、歴彩館のオリジナルでは左端に商店が写っています。広小路の南東角の現況は広いお屋敷ですが、大正年間も同じように広いお屋敷が建ってましたので該当しません。残るは松蔭町です。洛陽教会の二代目教会堂は大正2年に落成しておりますので、撮影された明治37年以前にはありません。 やはり私は寺町丸太町上るの松蔭町ではないかと考えます。 返信 ↓
京電の堀川中立売の写真が少ないように思いますが、重複しているので省かれたのでしょうか?
京電・京都市電に京福・京阪もあって楽しいですね。初めて見る写真もあって、「なるほど、ここはこうなってたのか」と思うこともあります。見慣れた写真も改めて見直しますと、これまでに気付かなかった発見もあって良い勉強になりました。
52 烏丸今出川で大正2年から6年の間に撮影された、広軌1形17号、大宮七條行です。奥に伸びる道は拡幅前の今出川通りです。
54 烏丸今出川下がる、乾御門付近で行き交う広軌1形163号と142号。線路は東寄りに敷設されてました。
56 今出川通りを右折し、烏丸通を南下する広軌1形69号。奥に同志社の彰栄館が写っています。
60 壬生車庫で撮影された貴賓車。明治45年6月に貴賓車1・2号として竣工し、大正12年に普通車に改造され171・172号となります。おそらく明治45年の撮影でしょう。番号は分かりません。
62 壬生車庫前で撮影された花電車。「運輸開始」と書かれていますので、明治45年6月の市電開業時でしょう。
64 壬生車庫前の後院通りで撮影された36号。ポールが反対方向ですので、折り返しの発車待ちでしょう。日の丸を掲げてますので、明治45年6月11日の開業当日でしょうか。壬生車庫から四条大宮方面へ線路が延伸するのは大正元年9月12日ですので、開業から3カ月ほどの間に撮影されたのかもしれません。
68 堀川中立売の鉄橋を渡る京電です。番号は読み取れませんが、一桁のようです。撮影は下ノ森まで延伸した明治33年5月以降、告知人(先走りの少年)が廃止された明治37年11月まででしょう。特筆すべきことは台車で、明治23年に東京の上野公園で展示運転されたスプレーグ式電車のものと酷似しています。電車は2両でしたが台車は3両分あったのか、それとも京電に電動機を納入した三吉電機工場が見よう見まねで作ったものか、真相は解明されていません。
69 堀川中立売で撮影された京電の十一号。堀川を渡る鉄橋は無く、中立売が終点だった明治28年9月24日から明治33年5月まででしょう。屋根に日の丸と京電の社旗が見えます、何かの旗日なのでしょうか。
72 京電北野線、下ノ森付近。電車の前に先走りの少年が見えます。中央の建物はこの頃の車庫ですが、後になってから少し奥に昭和36年のN電廃止まであった北野車庫が建設されました。北野神社の千年祭が執り行われた、明治35年の撮影です。
77 烏丸今出川で撮影された「開通一周年記念」の花電車。大正2年でしょうか。
81 京電 寺町今出川の離合所で撮影された「でまちば志ゆき」34号。白っぽい車体がどのような色だったのか、気になります。「さよなら京都市電」には『一説によるとブルーともいわれている』との記載があります。また、同書では明治34年頃の撮影としています。
82 京電 鴨川を渡る勧進橋で、東から西を向いて撮影されています。
83・84・85 嵐山電車(現京福電鉄)に嵐山で撮影された1形15号と8号。電車の南に駅舎があり、奥に天龍寺の石垣が見えます。15号の行き先に「京都行」とあるのは現在の四条大宮です。明治43年3月25日の開業で、撮影は同じ年の夏至の頃でしょうか。
86 京津電軌(現京阪大津線)の札ノ辻で撮影された1形15号。ちょっとわかりにくのですが、2連3組の側窓の上部には装飾が施されています。今は800形4両編成が行き交う京町一丁目付近も、電車が走り始めた明治45年頃は東海道の面影が見られたようです。右手に行くと浜大津ですが、線路が伸びるのはまだ先のことでした。この辺の事情は大津の86様が詳しいと思います。
87 京電の堀川下立売です。府庁前から下立売通りを西へ走ってきた電車が、堀川通りを北へと進路を変えるところです。下立売以南は未開通ですので、明治28年9月から明治34年12月までの撮影でしょう。白いワンピースのような服を着た男性?は、流行の最先端を走っていたのでしょうか。
紫の1863様
ご指名頂きましたが、恥ずかしながら、86の写真が京津電軌札ノ辻の写真と書かれていたのを見て初めてじっくりと写真を見た次第です。この写真は元々はどなたが撮られたのか分かりませんが、大津市史にも出ている写真で、電車の後ろに見えている建物は初代大津市役所です。札ノ辻から浜大津までの延長工事は札ノ辻まで開通後早い時期から計画されていましたが、突抜通りの拡幅などで話がまとまらず、大正9年になって突抜通りの拡幅工事に対して京津電軌と大津電軌が一部の費用を負担することで計画が動き出し、大正13年5月に特許状が交付され京阪との合併後の大正14年5月5日に浜大津までの延長工事が完成しました。写真はもちろん大正14年の開通以前のものですが、突抜通りの拡幅工事はいつ始まったのかはわからないため、これ以上さかのぼることはできませんでした。但し写真に写っている初代大津市役所は大正5年に移転しています。移転後建物が取り壊されたのかは不明なもの、車両の後ろに掲示板のようなものが写っており、もしかすると市役所として使われていた時代かもしれません。尚、車両は1形5号ですね。
大津の86様
浜大津までの延伸の経緯が良くわかりました、ありがとうございます。京阪の通る道が突抜通、札ノ辻で交差する通りが京町通だったのですね。鉄道が開通する前は物流の拠点として、賑わったことがうかがえます。「大津百町」はこのあたりですか? 電車の後ろの建物が大津市役所だったとは、知りませんでした。私は隣の店のめんるい・寿司・まむしに気を取られてました。
この写真が「大津の札ノ辻」と知っていたものの、正確な場所までは把握できていませんでした。以前の投稿で「白洋舎の所に札ノ辻駅の待合所があった」と書かれていたのを思い出し、お名前を書いてしまいました。
この写真の撮影者は石井行昌(いわいゆきまさ)氏で、明治9年6月に元公家という家柄に生まれ、御所の事務や祭祀をつかさどる役職に就かれていたとか。住まいは烏丸今出川を一筋下がった道を西へ入ったところにあり、烏丸今出川はお膝元というわけです。京都市電編③にある51の写真は、石井行昌氏の自宅近くと思われます。
86の車輌は1形5号ですね、間違ってました。ご指摘いただきありがとうございます。
60の貴賓車について書いた改造後の番号に、誤りがありましたので訂正します。大正12年5月に普通車に格下げ改造され、170・171となりました。こちらが正解で、171・172は間違いです。すみません。
貴賓車は明治45年6月、天野工場で1・2号が製造されました。しかし、モノが貴賓車だけに番号の表示はなかったようです。歴彩館の元資料には工事中のレンガ車庫の前で撮影された写真があって、足場が組まれていることから完成前のようです。
定員は8名とする資料が多い中、鉄道ピクトリアル356号に「椅子10脚」と高山禮蔵氏が書いておられます。注釈に「沿革史には定員8名とあるが写真等で判定すると椅子10脚と考えられる」と書き添えられてます。しかし、車内の写真は「さよなら京都市電」に掲載された一枚の他に見たことが無く、10脚の椅子がはっきりと確認できておりません。窓ひとつに椅子は1脚とゆったりとした配置で、大きな窓を背にした豪華な椅子が備えてあります。しかし窓は片側4か所しか写っていません。窓は片側に5カ所ありますので、椅子も同じようにあったとすれば10脚となりますが、外からは見えません。高山禮蔵氏も故人となられ、今となっては尋ねることも叶わなくなりました。
紫の1863さん、乙訓の老人の甥さん、皆様、
永らくのお付き合い、ありがとうございました。
資料は多くの方々との突き合わせがあって完成されます。どんな写真でもここへ開示して、皆様からの情報を集めることをお薦めします。
今回のデータは、写真のファイルに書き込んでDVD化致します。
近々、別の方からの「ここどこ?」シリーズを企画しておりますのでご期待下さい。
紫の18634さま
別項で木屋町二畳の定点対比をしていただいた御礼に、私も定点対比してみました。81の寺町今出川下るです。電車の離合所があって、いまも道幅の広いところです。写真81の右に、高低差のある、町家2軒があります。それが、現況の右にある2軒であると言われています。現地に行きますと、たしかに躯体は古そうです。
81は「寺町今出川下がるの離合線で撮影された」というのが定説になってますが、実は少々疑問もあります。光の当たり方と、背景の樹木が気になって仕方がありません。出町橋行きの電車なら、南を向いて撮影されてます。しかし、夏至の頃としてもこれほど正面に陽が当たるのでしょうか。背景の樹木との距離も近いように思います。
離合線が設置された時期も気になります。京都市文化財ブックス「こんにちは京都市電「京都市電関係資料」をひもとく」に『離合線を設けるため道路が拡張(大正2年3月3日竣工)された』とあります。鉄道ピクトリアル356号には『離合線の建設時期の関係で他所かもしれない そうすればどこか?』との記述もあります。私は一次資料で確認したわけではありませんので、はっきり違うとは言えません。
撮影の時期は明治34年、あるいは明治35年とされています。旗を持った先走りの少年が写っていますので、遅くても明治37年11月まででしょう。寺町今出川下がるの離合線が出来た時期を大正2年とするなら、矛盾してしまいます。
ここから先は私の妄想です。撮影場所は広小路の離合線、電車は南行きと考えれば光の当たり方も納得できます。背景の樹木は立命館の校地ではないかと考えたのです。行先が反対の出町橋を表示しているのは、石井氏のリクエストに応えたのかもしれません。東九条の発電所前で撮影された一等車が逆方向を表示している前例もあります。ただ、この仮説も弱点があります。広小路の離合線が明治34~5年にできてなければ成立しません。京電は残された資料が少なく、分からないことがたくさんあります。この写真も京電ミステリーのひとつかもしれません。
81が撮影された場所をしつこく考えています。前のコメントで「広小路の離合線」を書きましたが、納得できない点があって他の場所を探っています。
寺町丸太町上る、松蔭町を考えてみました。「こんにちは京都市電「京都市電関係資料」をひもとく」に出町線の記事が載っていて、離合線の青写真もあります。旧丸太町付近、理化器械店の前から北を見ると、81の背景の家並みに酷似しています。ガレージの北に立つ町屋はかなり年季が入っています。
ここでネックになるのが洛陽教会ですが、ホームページを見ると1890(明治23)年5月18日に創立し、現在の教会堂は三代目との記述がありました。初代は規模が小さく見えなかったのかもしれません。しかし、昭和の終わりころまであった、二代目の教会堂が建設された年代は書いてありません。ただ、2013年9月13日に総本家青信号特派員様が投稿された「〝八重の桜〟ゆかりの地を訪ねる」の第3回に、『写真の教会は明治26年に建てられた』との一節があります。出町線は明治34年の開業で、二代目の教会があれば写っているはずです。ここも違うのでしょうか。
どうしても光の当たり方が気になって「でまちば志ゆき」の表示を疑いましたが、定説を覆すのは難しいです。
紫の1863さま
くだんの写真について、新たな論を聞かせていただき、ありがとうございます。まず洛陽教会の竣工年で、誤認があり、お詫びします。明治26年説は、「町名変遷史」という分厚い本の中に、洛陽教会の詳細な沿革があり、明治26年2月5日に落成を迎えたと書かれていましたが、写真の尖塔のある会堂は、大正2年2月2日に落成式を行ったとありました。「デジ青」に載せた教会前の京電の写真も、ここに載っていましたが、会堂は出来たばかりのようで、大正2年以降の撮影と訂正させていただきます。
寺町丸太町上るの離合線は、お書きのように、理化器械の北側にある、現存の3、4軒の低い町家と、たしかに酷似しています。少なくとも60年前、私の小学校時代の記憶と全く変わっていません(当会の勧秀峰さんは、この場所と同じ町内に住まわれていましたので、さらに詳しいことが分かると思います)。でも、やはり私は寺町今出川下る付近で撮られたものではないかと思っています。矛盾点のひとつである、太陽光線の射し方ですが、夏至の前後の太陽の方位は、真北から東へ60度の角度になります。加えて寺町通は、正確に南北を貫いているのでなく、この付近では、5~10度、東に振っています。仮に夏至の頃に撮られたとすると、車両への陽の射し方には矛盾はないように思います。離合線の設置年代や、夏に撮られたにしては服装が冬っぽい疑問は残りますが、いかがでしょうか。
いま、私も所属する趣味団体で、出町線の解明が進んでいます。次号あたりの会誌で、この付近の離合線についても触れられるものと期待しています。
総本家青信号特派員様
洛陽教会の落成時期を教えていただき、ありがとうございます。
私は出町線の離合所は開通時からあったものと思ってました。市営電車の開業にそなえ、京電は複線化や車輌の増備を進めていましたが、離合所もその一環だったとわかりました。
趣味団体で出町線の解明が進められているのですか? 私も楽しみです。
81の写真につきまして、ちょっと参加させてください。
「でまちばしゆき」が写っていますが、京都市電の行先表示は折り返しの場合、1つ前の停留所から変更する習慣があったのではないでしょうか。伏見線の写真に、中書島の1つ手前の京橋を発車した市電の行先が、京都駅や河原町二条になっている写真を数多く見ています。
で、写真の京電は広小路に停車中だとすると、次は終点の寺町丸太町で折り返しです。従って広小路で、でまちばしを表示しても、おかしくはないと思います。1863さんの仰るように広小路説南行を補足する形となりました。ご参考になれば幸いです。
勘秀峰様
アドバイスをいただきありがとうございます。一つ手前の停留所で、次の行き先を表示した可能性もありますね。私は運転手と顔見知りだったのでは?と考えました。ほぼ同時期に堀川中立売で撮影された写真のうち、2枚が81の運転手とそっくりです。当時はカメラを持つ人も少なく、運転手が石井行昌氏を覚えていたのではないでしょうか。
さて、撮影場所を巡って盛り上がってきましたが、ひとつ面白いものを見つけました。前から2枚目と3枚目の窓に注目です。樹木と石垣が写っているように見えるのです。これは御所の石垣と考えられ、広小路と松蔭町の2箇所が該当します。81の写真では確認できませんが、歴彩館のオリジナルでは左端に商店が写っています。広小路の南東角の現況は広いお屋敷ですが、大正年間も同じように広いお屋敷が建ってましたので該当しません。残るは松蔭町です。洛陽教会の二代目教会堂は大正2年に落成しておりますので、撮影された明治37年以前にはありません。
やはり私は寺町丸太町上るの松蔭町ではないかと考えます。