あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~33~

2008年1月19日 紀州鉄道へ

取材の依頼で、紀州鉄道へ行ったことがありました。いまも発行されている「50代からの旅と暮らし発見マガジン」がキャッチの月刊誌で、創刊まもない頃、まだ編集体制が手探りの時期で、私のような人間にも声が掛かりました。「春を探して、身近なローカル線散歩」が与えられたテーマ、関西圏からの日帰り先として、選んだのが紀州鉄道と御坊市内の街散歩でした。雑誌のテーマどおり、春を思わせる日差しに誘われるように、カーブの向こうから列車が現れた。この時の車両はキハ603、大分交通から移って来た同番号車で、耶馬渓線で使われていたが、同線の廃止で紀州鉄道に来た。この時は、金土日は収容力の大きいキハ603、そのほかの平日は、北条鉄道から来たレールバスのキテツ1が使われていた。

紀州鉄道は、御坊駅の切り欠きホームから発着する。JR線の発着に接続するダイヤで、下り列車なら水平移動だけで乗り換えできる。

JR御坊駅  紀州鉄道ダイヤ、一日18往復は現在も変わらない。

乗り込んだキハ603車内、国鉄キハ10系ばりの座面の低いクロスシートが並ぶ。

ダイガー柵に囲まれた西御坊、乗車時間8分でもう終点だった。全長2.7km、日本最短は芝山鉄道だが、京成と相互乗り入れしているため、線内完結の鉄道としては、いまも日本最短の鉄道、運賃も全線乗っても180円。

 

西御坊駅の駅舎、わびしい雰囲気のなか、白い自販機だけが目立っていた。終端部の向こうにもレールが延びている。かつて日高川の河口まで伸びていた。

      ▲御坊市内の街並みのなか、軒先をかすめるようにして走る。

有人駅の紀伊御坊に到着するキハ603、右は部品取り用として残る同型のキハ604

市役所前駅 受験シーズンのお守り入場券で有名な学問駅、全線でも2.7kmだから、全駅制覇も歩いてすぐだった。

もとの終点の日高川駅跡にも寄ってみた。日高川の河口にあり、かつて船運との貨物の授受も行っていた。

陽も暮れた頃に、西御坊に戻ってから再乗車する。白熱灯、板張りの車内がローカルムードを盛り上げる。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~33~」への16件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様

    紀州鉄道のご投稿、ありがとうございます。

    教育業界に携わる者として、「学門駅」は外せません。和歌山県内の未乗路線が、残り紀州鉄道線と紀勢本線(紀伊勝浦~新宮間)のみですので、今年中には訪ねてみたいですね。御坊ならば、日帰り圏内なのがよいです。

    • 奈良の駅名研究家さま
      ぜひ訪問していただき、「学門」入場券で紀州鉄道へ売上貢献してください。となりの有人駅、紀伊御坊駅でいつも販売しているはずです。

    • 学門駅ではありませんが、入場券と乗車券を買っておりました。平成5年の料金は100円で、硬券のしっかりした切符です。

  2. 紀州鉄道は日本一のミニ鉄道と思っていましたが、芝山鉄道が最短ですか。知りませんでした。最近の情報に疎く、アップデートしなければなりません。
    日高川駅跡の画像を拝見し、ストリートビューで廃線跡を探ってみました。2021年8月時点の撮影ですが、ところどころに線路が見え、踏切警報器も残っていたとは驚きです。
    私が訪問したのは1993年、野上電鉄と掛け持ちでした。鉄道模型をきっかけに写真撮影も復活したころで、そのころの愛読書は「旅と鉄道」でした。よく知らないまま御坊に降り立ち、西御坊までキハ604で往復しました。以前は御坊臨港鉄道と呼ばれていたことも、日高川まで線路があったことも知りません。キハ604の前歴ももちろん知りませんでした。
    地方の小私鉄にしてはよく手入れされ、近代的?に見えた台車も意外でした。何も知らない故に、楽しみも大きかったように思います。よい写真を撮ろうとか、研究や調査とは無縁の訪問でした。
    暖かくなったら町歩きも兼ねて、気楽に訪問するのもよいですね。
    1993年4月、西御坊で写したキハ604です。車体は美しく輝いていました。

    • 紫の1863さま
      紀州鉄道の訪問記、ありがとうございます。私が行った時は、部品取りで荒廃した604号でしたが、行かれた時は、きれいな姿だったのですね。参考に、大分交通時代の604号です。それぞれに愛称が付いていました。取材目的でしたので、御坊の街を隅から隅まで歩きました。文字どおり御坊さんの門前町で、いい町並みが残っていますよ。

  3. 紀州鉄道にはDRFCの新歓旅行で行きました。1974年5月で、ちょうど50年前です。写真は当時の終点、日高川。車両はキハ40801で、1936年製造の元芸備鉄道です。団体での日和見旅行で、終点まで行って引き返すだけの乗車でした。

    • 勘秀峰さま
      写真を見せていただき、ありがとうございました。この時の戻りの天王寺駅の記念写真が、品川530さんの展示とつながる訳ですね。1974年と言えば、御坊臨港鉄道から紀州鉄道に社名が変わった1年後になります。輸送量は極めて少ないのに、車両だけは結構交代が多かった鉄道です。デッキ付きのDCは貴重です。

  4. 14枚目とほぼ同角度の日高川駅です。右は202と奧が308(とても変な書体でした)で、左端が駅舎です。ホームには603。1977年1月2日撮影

  5. かなり状態の悪い日高川駅舎。駅名標も何もありません。603が少し見えます。1977年1月2日撮影

    • 井原様
      現役の頃の日高川駅の様子、ありがとうございます。私の訪問時と、雰囲気は変わっていないですね。駅舎も荒れてはいますが、西御坊に較べると、いかにも終着駅らしい佇まいを感じます。

    • 井原様
      翌年にもまた御坊へ行かれたのですか。この時の目的は、紀勢線電化の撮影ですか? それとも、井原さんらしい別の目的があったのでしょうか。停車中のバスにも、そそられます。

  6. お見苦しい画像ですが紀州鉄道に初めて行ったのは恐らく1974年8月頃なので勘秀峰さまが訪問された後の夏に母の実家から海水浴に行く途中で日高川駅に立ち寄りました。暑くて写真を1、2枚撮影して引き上げました。
    勘秀峰さま撮影の元芸備鉄道の車輌と同じのが同じ位置に停まっていました。車体にKTKの文字があるので御坊臨港鉄道から紀州鉄道に変わっていたのだと思います。私は小学6年生でした。

    • 893-2さま
      小学校時代の貴重な写真を見せていただき、ありがとうございました。893-2さんは、和歌山にご親戚があると聞いていました。紀州鉄道になってから1年後には、ちゃんとKTKの標記がされていて、新会社の意気込みも分かります。訳の分からない会社が、信用を得るためだけに鉄道を買収したと、当時は揶揄されましたが、それから50年が経過しても、列車本数も削減されず走っていること、何よりだと思います。

  7. 私は紀州に来る前の同車を出しておきます。
    1975年9月30日の耶馬渓線完全廃止の日です。
    DRFC入部の最初の青信号投稿記事は大分交通耶馬渓線のことを書きました。あれから幾星霜。

  8. 昭和38年12月の御坊駅での車窓からのスナップです。逆光だったのか見苦しい画像ですがご勘弁を。

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