大みそか 日常の阪急電車を記録する
前回も書きましたが、過去には、年末年始も、よく撮影に出掛けたものでした。試しに「2006-12-31 阪神 阪急」と記された保存フォルダーを見てみました。2006年は、初めてデジカメ一眼を購入した年で、この日は朝暗いうちから動き出して夕方までフルに撮影しました。その後、17年が経っても内容をほとんど見ることなく、撮影データは眠ったままでした。今回、見直すと、今となっては貴重な記録が残されていることとが分かり、日常の当たり前の記録が、鉄道趣味活動の原点であることを改めて思うのでありました。この歳になって、日常の記録を忘れかけている自分への励ましとして、ことし最後の投稿としました(以下、平成18(2006)年12月31日)。▲この年の10月、阪急と阪神が経営統合して阪急阪神ホールディングスとなり、その記念の一日乗車券が発売されていて、それを使って、朝暗いうちから夕方まで、阪急電車の撮影を続けた。この年の最後を締めくくるイメージとしては、やはり夕陽バックしかないと思い、淀川鉄橋で、大みそかの仕上げとした。
▲この日は、最寄りの長岡天神を5:24の電車に乗って桂へ。桂川鉄橋へ向かったものの、あたりは真っ暗で、夜明けのカケラも見えない。超高感度に設定して、流し撮りがやっとの状況だった。▲6:30ごろになにって、やっと空が白み始めた。設定を少しイジってみた。▲少し明るくなって来た。シャッター速度も上がって来て、電車のブレ具合も、違って来る。朝焼けとはならず、厚い雲がかかる。▲それでも日の出時刻には、一瞬紅くなった。前パン車でアクセントを。▲嵐山線へ行き、板(運行標識板)付きの2300系を撮る。まだ6300系の入線はなく、嵐山線は2300の天下だった。▲宝塚線へ向かい、石橋で「初詣」HM掲出の5100系を撮影。▲雲雀丘花屋敷~川西池田の踏切から、6000系の急行を撮影。▲宝塚へ、武庫川鉄橋へ向かい、いま何かと話題の宝塚大劇場をバックに3000系を撮影。
▲今津線に乗り換え、小林へ。逆瀬川寄りの踏切で、7000系の西宮北口行き。左手には、季節遅れの柿が実っていた。▲踏切の反対側から板車の3000系を後追い。準特急さん最愛の今津線だが、私のとっては、生まれて初めての今津線撮影だった。▲今度は神戸線へ。夙川で降りて、芦屋川寄りで7000系の特急を撮影。邸宅街のなかの切通しでとらえる。
▲東海道本線西宮~芦屋から北へ分岐する大谷町土砂採取線の跡を見学、西宮市大谷町付近から鉄道建設の土砂を運搬する引込線が大正4年に造られた。引込線の廃止後には、路盤を利用して国鉄変電所からの送電線が引かれた。変電所は2119年に廃止されて、送電設備もなくなった。私の妹が近くに住んでいて、廃線跡は、その前から親しんでいたが、付近は阪神大震災で壊滅し、その後も神戸からの山手幹線道路が延伸されて、現在ではすっかり様相を変えているが、路盤の跡だけは残っている。
▲西ノ宮駅は、翌年3月、さくら夙川駅の開業時に、市名に合わせて「ノ」なしの駅名に改称されるため、駅舎や駅名標も撮っておく。
▲阪急と阪神が一緒になったことを記念して、阪神国道駅へも行って見た。ここは、ずっと昔から「阪急阪神」だった。
▲陽が傾き始めると淀川鉄橋へ。十三大橋からは神戸線の電車が撮れる。傾いた光線を受けて、車体が妖しく輝くことを“エロエロ光線”と呼ぶと、「むかし鉄」のSさんに教えてもらい、いちばん映えるのは国鉄色のDCと聞いたが、阪急電車の“エロエロ光線”もいい。
▲鉄橋の架けられた方位からすると、冬至に近い冬場がちょうど電車の真向こうに陽が落ちる。窓越しに落ちる夕陽の光芒を連続シャッターで狙ってみた。▲京都線側から、できるだけ低い位置から引いて、前パンの5300系を狙う。冬場なので日除けが無いのも好都合だった。
遠隔地へネタ列車を追い掛けるのもいい。でも鉄道写真の基本は、近場で日常の姿をきっちり記録する、そして肝要なのは、いつでも撮れると気を抜かず、一日一本のネタ列車のつもりで、最善・最良の撮り方で臨むこと、この歳になって改めて思います。
総本家青信号特派員様
あけましておめでとうございます。
阪急電車の大みそかの1日ですが今津線のところでご指名がありましたので逃げるわけにいかずコメントを入れさせていただきます。難読駅小林(おばやし)から逆瀬川寄りの踏切は堂ノ前踏切で私の通っていた小学校はその踏切から10分くらいの所にあります。逆瀬川にはデジ青コメンテーターの大物が、小林の次の仁川には同じくデジ青巻頭写真でお馴染みの名カメラマンがそれぞれ住んでおられます。少し古い写真ですが不細工になった晩年の810形817です。京都線の710形と同類です。奥の方に堂ノ前踏切があります。
準特急様
今年もコメント、突っ込み、よろしくお願いいたします。撮影した踏切名のご教示、ありがとうございます。たまたま歩いていたら、踏切に行き当たり、撮影しました。私が今津線に乗った最初は、学校の遠足で仁川へ行った時が最初だと思います。その次は、DRFC時代、学鉄連の用事で、関学へ行くため乗ったぐらいで、生活圏の無い人間にとっては、馴染みの薄いのが実情でした。お書きのように、当会にとっては、錚々たる皆様が、関係しておられるのですね。
準特急さまのコメントで、読みは違えど漢字が同じなので私も引っ張り込まれましょう。あの土砂採取線跡ですが、かれこれ半世紀近く前に車窓から見て以来ズッと気になっていました。通る度に眼を凝らして視るのですが、送電線用地にしては不自然だし、私鉄や路面電車なら引込線跡もあり得るでしょうが、まさか国鉄・JR線にあった訳も無く、中途半端で一体なんだろうと思い続けていました。そもそも土砂採取線を知りませんでしたから。やっと謎が解けました。昨年9月に見た時にはハッキリとはわからず、どうなったのだろうと思っていた矢先でした。阪急電車の写真とともに拝見できてよかったです。
1900生さま
土砂採取線ですが、あの鉄道写真の大家の西尾克三郎さんが近くに住まわれていて、戦前に撮られた写真にもチラリと写っているほど、歴史のある引込線です。西宮、芦屋の市境付近は丘陵になっていて、いまでも阪急に乗ると、両側から緩い勾配となります。国鉄北側には丘があったとのことで、そこから土砂が採取されたと言うことです。採取跡には、国鉄アパートが建てられて、いまもJR大谷町住宅として、多くの集合住宅が建っています。阪神大震災もあって、付近の様子は、すっかり変わってしまいましたが、ストリートビューを見ると、築堤跡は面影が残っています。
総本家青信号特派員さま
お教え有難うございました。中々奥が深そうな採取線跡ですね。車窓から線路寄りの玄関?だけをチョット見していたのではわからないはずでした。本来廃線跡に興味があるので、一度下車して現地を探訪してみたいと思うようになりました。
余談ですが京阪淀駅付近にも短い引込線がありました。淀城の西側、お濠を挟んで北西向きに数百mくらいで、大戦中には貴賓車16号を疎開させていたそうです。現在はレールも撤去され見通しも悪くなり車窓からは見づらくなりました。
昭和46年9月5日、武庫川鉄橋を通過する、2378他4両編成です。周囲に高い建物はありません。