2006年7月13日 YS-11を求めて(1) 鹿児島空港
ちょっと、話題を変えて、この季節、鉄道以外の乗り物を。2006年の夏、国産初の旅客機、YS-11が民間航空から撤退しています。私は、その頃は会社勤めをしていて、職務のひとつとして、鉄道書の企画・編集も手掛けていました。YS-11が無くなると聞き、鉄道テーマを旨とするシリーズ本にも、ぜひ飛行機も加えようと出版社と画策し、私も編集者の立場から、現場の撮影・取材へ何度か行くこととなりました。
▲戦後に国産開発した初めての旅客機がYS-11、試作1号機が、昭和36年7月に、初飛行し、昨年には60周年を迎えた。182機が製造され、日本の航空会社では、日本航空、全日空、東亜国内航空、南西航空などで使用した。地方空港が次第にジェット機に置き換えられ、国内の定期便では、東亜国内航空の後継となる日本エアコミューターが、この年の9月30日に運航を終了した。その後も、航空自衛隊、海上自衛隊、海上保安庁などでは運航を続けている。写真はJA8677機と機体のスペシャルマーキング。
▲この日、向かったのは鹿児島空港、当時、唯一YS-11を保有する民間航空、日本エアコミューター(JAC)の本社が鹿児島空港にあり、機体の整備も行っていた。9:30に空港に到着、エプロンにはSaab340などが駐機している。東京、高松から、編集長、カメラマンと集合、JACの本社へ向かった。
▲JACの本社の窓には「さようなら」の文字が。▲▲「ありがとう日本の翼YS-11」のキャンペーンが、随所に掲げられていた。
▲エンジン・プロペラ部の点検。▲▲乗降用のステップは、機体内に収容する。▲客室、2+2の16列、64席が定員、天井は低く、カバーのないハットラックは、まさに電車の荷棚。シートピッチは800mm、リクライニングはあるが、角度は小さい。
▲座席番号、低い客室ならではの注意喚起も。▲コックピットも撮影、理解不能の無数の計器が並ぶ。
▲3扉の空港バスも撮影、南国交通に運行委託されている。 ▲今は無きターボフラップ機 Saab340も撮影、JAL機とJAC機
総本家青信号特派員殿 特派員殿のバスについての記事には驚かないのですが、飛行機の記事とは驚きです。国産機が日本の空から姿を消して寂しい想いをしております。特派員殿が鹿児島に取材に行かれる17年前の平成元年5月に家族で鹿児島旅行をしました。往きは小倉から西鹿児島まで急行「にちなん」のB寝台(オハネフ25)でした。都城から先、西鹿児島までは各駅停車となり、夜行列車をたっぷり楽しみました。帰路は鹿児島空港から広島まで空路でした。広島と言っても、現在の広島空港ではなく、広島市観音の旧広島空港です。その時の搭乗機がYS11で、当時はANKエアニッポンの時代でした。あいにく鹿児島は雨で、しっかりとした写真が撮れなかったのが悔やまれます。1枚だけ記録が残っていました。機内の様子など何も覚えていませんが、最初で最後のYS11搭乗でした。
平成元年5月1日 鹿児島空港にて
西村様
私がYS-11に気づく17年も前に、ちゃんと記録されていること、さすがです。広島空港も今の空港ではない時代なんですね。それにしても、何と言うクイックコメント! 寝る前に投稿して、朝起きたら、資料・写真付きでコメントが入っているではないですか。米手さん、準特急さんから、“はよコメントせぇ”と、いつも叱られている身には、いい刺激になりました。
総本家青信号特派員さま
西村さん同様、本欄に鉄分の全くない飛行機の話題が特派員さまから出ようとは夢にも思いませんでした。YS-11、いいですねえ。国産機であることはともかくとして、飛行機たるものやはりプロペラを回して空気を引っ搔いて飛ぶものという自分流哲学に基づきYS-11に乗り続けていた小生には忘れられない飛行機でした。海外便などの遠距離ではやはり静かなジェットが勝りますが、YSにはSLや旧型車両に通ずる手作り感があって、多少の騒音も旅情を掻き立ててくれる強い要素でした。
そういえば編集に携わっておられた時にさる有名写真家が纏められたYS本に拙い写真を使って頂きましたね。あんな形でお役に立てるとは望外の喜びでした。車両のアルバムは殆どないのに何故かYSのアルバムを作っていたのが役にたちました。
JACの本社を取材されていましたか。今でいう「聖地」ですね。
1900生さま
この書籍の編集では、クローバー会の皆さんにお世話になったこと、実は次の投稿で触れようと思っていたところでした。編集に当たり、1900生さんからは、貴重なアルバムを惜しげもなく貸していただき、YS-11全機コンプリートという野望(無謀?)に近づくことができました。実際、有名写真家も撮影していない機体も撮っておられて、誌面を飾ることができました。クローバー会の皆さんの異分野での才能を感じたのも、飛行機には、たとえば運用など鉄道と共通する楽しみを教えていただいたのも1900生さまのお蔭です。
総本家青信号特派員様
YS11は1980年頃出張で東亜国内航空だったと思いますが羽田から旭川まで搭乗しました。2時間40分の長い時間を楽しみましたが、着陸前にかなり揺れました。写真は1974年に羽田で撮った全日空のYS11です。
もう一つ1975年に同じ羽田で撮った海上保安庁のYS11です。
1971年4月22日韓国釜山空港で見かけた大韓航空KALのYS11です。
準特急様
以前から、準特急様からは折に触れて、貴重な飛行機の写真を公開していただいていますが、さすが、海外のYS-11も撮られているのですね。編集しました本によると、海外へは16社75機が販売され、うち大韓航空は8機が就航したそうですが、活躍期間は、わずか8年しかなく、この写真も貴重です。海外へは、補修部品の供給など、アフターサービスが十分でなく、欠航に繋がって訴訟に発展するなど、苦労があったようです。
総本家青信号特派員様
情報有難うございます。海外旅行では各地の空港に掘り出し物がないかと何時も物色していました。ギリシャのオリンピック航空も所有していたと思います。私が羽田に行った頃には修学旅行の時に見たレシプロ機DC6は既に見られずプロペラはYS11とフレンドシップくらいでした。
何の話か分かりませんが、こんなんあります。
city of Kyoto と書いてあります。
同じ時に撮りました。
これも
YS11は新入社員の頃に年末年始の国内主催旅行の添乗に狩り出され四国の高知で年越し、元旦は琴平で宿泊して徳島から伊丹までの今では飛んでいないルートで乗機しました。中が思ったより狭く観光バスみたいだなという印象でしたが国産機という妙な安心感がありました。その後色々な飛行機に乗りましたがYS11はそのときが最初で最後だったと思います。古い画像は探せなかったので2017年に美保の航空祭に行った際の展示飛行の画像を掲載します。
米手作市様
これまた脱帽です。恐れ入りました。今後はデジ青の発展のためより自主投稿をお願いします。毎度のことですが、これだけの貴重な写真ですからおよその時期、場所をお願いします。私も鉄道同様に飛行機についての知識はほとんどありませんのであくまで推察ですが1、2枚目が同じ飛行機ならJALのDC4の発展型DC6かDC7と思います。City of Kyotoがわかれば機種およびナンバーはわかると思います。3枚目は全日空のDC3と思われます。DC3は世界で相当数つくられたようですがこれはお名前を出して恐縮ですが1900生さんがお乗りになったと聞いております。
私は飛行機に関しての知識も興味もありませんが修学旅行で行った羽田で撮ったものです。昭和35年だったと思います。
自主投稿ですが、準特急さんや西村雅幸さん、1900生さんからの罵詈雑言がなければやる気が出ません。
City of Kyotoは登録番号JA6202のダグラスDC-6Bです。
紫の1863様
ありがとうございます。修学旅行の見学地羽田空港の記念撮影のバックに写っていますが、米手さんのようにカメラを持っていませんでした。その後海外も含め見ることはありませんでした。
日本航空のダグラスDC-6Bには東京・京都・奈良・大阪・横浜などの都市名が愛称として付けられていました。「City of Kyoto」は1953年8月1日に導入され、1965年12月16日にアメリカへ売却されています。国内ではJA6207City of Fukuokaが1969年12月まで居たようです。海外では2014年まで生き長らえた機体もあったとか。
DC-6BとDC-7Cはよく似た外観をしておりますが、最も大きな違いはプロペラにあります。DC-6Bの3翅ペラに対し、DC-7Cでは強力なエンジンを搭載したため4翅ペラになっています。米手様の2枚目、正面から撮影された機体は3翅ペラですので、こちらもDC-6Bですね。
米手作市さま 皆さま
罵詈雑言だなんてそんなバチ当たりなことは口が裂けても言えませんよ。米手さまにはともかくとして、話題ネタのDC-6BやDC-3に対してたいへん失礼に当たりますから、ここはよくぞお撮りになっておられたことと隠れ空ちゃん?がバレたことに深く感動しております。
準特急さまも隠れ〇〇でしたか。飛行機もマメに撮られているのはさすがと申し上げます。ご両名は私より数年先輩ですが、私が飛行機に開眼したのは遅かったので写真記録はかなりの開きがあります。両機はとっくになくなっており憧れの機体でした。
1994年にフロリダでDC-3に搭乗したのをお話していたことはすっかり忘れていました。もう乗れないと諦めていた同機に乗れたのはラッキーでした。イギリスのヴァージン航空の子会社がオーランド~キーウェスト間で観光フライトをやっていたのです。50年前のレシプロエンジンには少し不安感がありましたが、ターボプロップエンジンで振動と静粛性が格段に良いはずのYSにそう遜色が無かったのは驚きでした。
ここはデジ青ですのでこのあたりでやめときますが、鉄道車両にせよ飛行機にせよ、旧くて懐かしいものに惹かれるのは逃れられない私の性(サガ)のようです。
写真はYS-11の保存機です。場所は所沢市の西武新宿線航空公園の駅前です。機体はJA8732(第101号機)で1969年から1997まで就航していました。航空公園にほど近い航空発祥記念館(ミュージアム)のイベントの目玉として保存されたものです。写真は2010年3月に撮影したもので古いですが、今でも美しく保存されているようです。
勘秀峰さま
以前のお住まい近くのYS-11保存機ですね。なつかしいANK塗装です。飛行機の保存は野外がほとんどですが、蒸機と違って、どれも美しいです。この所沢市の記念館は、日本で航空機の研究が始まった頃に、飛行場として選ばれた用地に建てられたとのこと、ほかにも歴史的な名機が展示されているそうですね。
嫁さんの実家が五島列島の福江島のため、福岡・長崎~五島福江間で何度も乗りました。現在は、カナダ、ボンバルディア製のDHC-8-201になっています。
平成4年5月3日、長崎空港です。
YS-11は、宇高連絡船に乗って高松に行った帰り、1988年3月22日高松空港から伊丹空港まで、ANA478便 JA8735。家族旅行で、1999年3月13日、便羽田空港から大島空港まで、ANK845便 JA8775に搭乗しました。また、海上自衛隊下総航空基地の一般公開で、遊覧飛行が当選し、登場したものの悪天候のため、離陸スタートし加速したものの、急ブレーキがかかり、宙に浮かぶことができませんでした。民間機と違い内装は、やわらかなスポンジみたいなものに覆われており、さすがに無骨な感じでした。
某航空会社に勤務していた嫁は、アットホームで、893-2が表現されているように、バスのようでリラックスして乗務できた機材だったと申していました。
皆さま
非鉄ネタで、恐る恐る出したテーマですが、皆さんから、“自分も撮ってるでぇ”写真を寄せていただき、紫の1863さんはじめ専門的な解説もいただきました。ありがとうございます。
改めて会員の興味の多様性を感じました。デジ青のテーマ基準は、「鉄道に関するもの」とされていますが、もっと広く、鉄道を取り巻くテーマや、会員の取り組んでいるテーマも取り上げるべきと思います。今までのバス、飛行機のような乗り物テーマ、また今回、K.H.生さんが写真展を開かれている、建築、町並み、看板といった、鉄道写真の背後に入っているテーマも載せて行くべきではと思っています。
大賛成です。
元々の鉄道マニアは何でもかんでも興味を持って、それについて一家言述べられないと一人前とは言われなかったように思います。
デジ青はその伝統の普及に努めます。
西村さんの石灯籠趣味なども見せてください。
マルーンさんの酒の銘柄と酔い加減なども発表してください。
追伸
準特急さんの織井茂子とコロンビアローズの比較論なども
大阪通信員さんの清水三重子と和田平助の恋愛論はどうですか。
西村さんの「常夜灯(燈)」はもう郷土史家のレベルを超えているのではないでしょうか。また、野鳥の写真も素晴らしいものです。