スクラップブック 事件・事故編・第8回 投稿日時: 2024年1月15日 投稿者: 米手作市 昭和38年(1963年)は鉄道史上希有な年となりました。 三河島事故の記憶も真新しいのに大きな事故が続きました。 多難な昭和38年の幕開きです。 因みに私はこの年高校三年生です。 この年最初に起こった大事件は、世に言う「38豪雪」です。 沖中さんも勤務地の北陸で閉じ込められたと言っていました。 最初の報道は簡単のものでしたが・・・ だんだんと報道も大きく扱い出しました。 大和川が凍ると言うことがその後にあったでしょうか? 国鉄が客車内に練炭火鉢を持ち込むなど、今なら大問題です。 当時は、北陸地方にラッセル車やマックレーなどが大量に配置されていたことが分かります。 急行「越路」が閉じ込められたことを揶揄して「越路吹雪」と書いた新聞もあったとか。 私の高校は京都の北の端、比叡山の麓にありました。 授業を休んでクラス対抗の雪合戦を楽しんだ記憶があります。 これはその時の校庭です。後は比叡山 関連記事: スクラップブック 事件・事故編・第7回 スクラップブック 事件・事故編・第6回 スクラップブック 事件・事故編・第5回 スクラップブック 事件・事故編・第4回 スクラップブック 事件・事故編・第3回 スクラップブック 事件・事故編・第2回 スクラップブック 事件・事故編・第1回 【近日公開】スクラップブック
米手作市さま これら記事の豪雪はS38年1月25日前後のものですね。私は「38豪雪」による運転障害は大晦日から元旦にかけてだったと認識していたのですが、半月あまり後にも発生していたのですね。当時、元日には本家へ挨拶に行きお年玉を貰うのが恒例行事になっていて、元旦の新聞で新潟地区の立ち往生記事を読んだ記憶があります。当時のこととて記事の論調は「大雪なので仕方がない」的なものだったように記憶しますが、一方で「大雪になるのがわかっていながら何故帰省列車を出したのか」という、国鉄側の落度と言わんばかりの論調もありました。 記事を読んで感銘を受けるのは、各駅における救援活動や要請発出等の対応で「とにかく運ぶ」という強い使命感が基本にあって、各現業機関が率先して活動していたことが窺えることです。現在のようにほぼ現業機関が無い状態では「発車させなければ途中で止まることはない、あるいは大雪になりそうだから早めに計画運休しましょう」などと、輸送使命を放棄するかのような判断をせざるを得ないのでしょう。まあ途中でストップした場合の社会的反響や代替交通機関の整備もあり、昔とは状況が大きく変化しているのはわかりますが。 大雪といえばS44年2月から3月にかけてC62ニセコ等のSL晩年を撮り回った北海道では列車は多少の遅れだけでほぼ通常運転でしたが、復路に立ち寄った東京は積雪15㎝で都内はマヒ状態でした。雪に弱い大都会を体験しました。また勤めだして間もなくのS49年頃の3月下旬に京都に大雪が降り、残業を途中で切り上げて京阪特急で三条へ戻ったはいいものの、京津線がエンコしたり路上放棄された車の影響で大幅に遅れ、乗換えの折返し浜大津からの電車が2時間遅れて到着、顔見知りの係員から「止めときなはれ。国鉄はまだ動いているから」といわれて七条へ逆戻り、何回も転びながら京都駅に向かい、1時間に1本になった電車でやっと山科へたどり着いたことがありました。この時は駅から自宅まで通常徒歩10分ちょっとのところを、膝上まである積雪を掻き分けながら、小一時間かけて帰宅しましたが、かつての豪雪の北海道での経験が大きくものをいいました。 返信 ↓
米手作市様 岩倉での雪合戦は想像できます。宝ケ池を過ぎると急に寒くなり、雪景色ということもよくありました。吹きっさらしの寒い校舎でした。さて、撮影月日の記録がないのですが、京都駅で写真を撮り始めた頃のもので、1番ホームで列車を待つ自衛隊員です。彼らが北陸に除雪に向かうということだけをよく覚えています。昭和38年の時刻表がないのですが、昭和36年6月号では、急行「なにわ」は京都発13:06で、そのあと15:05発富山行きの531レがあるので、それを待っていたのかもしれません。60年前の荷物は、こおりに荒縄というスタイルですね。 返信 ↓
1900生さん、 もしこれが現在ならJR西日本は前日から“計画運休”をしているはずです。 各駅は乗客で大混雑、本社では「この機会に廃線するのはどこがいいかな!」と相談していることでしょう。 西村雅幸さん 私も38年の時刻表は持っていませんが、自衛隊員が2時間もこのまま待つとは思えません。39年4月の時刻表を見るとなにわは10:02に京都を発車します。これに乗るような雰囲気ではないので10:08のゆのくにに乗るのではないでしょうか。そう思ったのは太陽光線の方向が午前中ではないかと思うことです。13時頃では上りの先頭はやや逆光になります。 この推理、いかがでしょうか? 返信 ↓
時刻表昭和38年1月号・2月号によりますと、急行第1なにわ104Mは京都10:03発です(第2なにわ112Mは22:28発の夜行)。そして10:43発に準急ゆのくに505レ金沢行があります(時刻表上では福井着は13:51、金沢着は15:33)。自衛隊も大勢移動するには国鉄しか手段がなかったのですかね。 返信 ↓
米手様、井原様 ご指摘の通り「ゆのくに」を待っているのでしょう。ありがとうございます。当時はやはり国鉄依存だったのでしょう。道路事情も悪く、必死で除雪して少しでも走らそうとしていた国鉄が唯一の交通手段だったのでしょう。どこの駐屯地の隊員かはわかりませんが、現在の桂川駅近くの桂駐屯地には引込線もあったように思います。黄檗の宇治駐屯地にも引込線がありましたね。 返信 ↓
私が生まれたのがちょうどこの記事の時期で昭和38年1月26日のため親からは三八豪雪のときでおむつを洗濯して干したらすぐ凍ってたとよく言われました。(今でも言われますが)今では鉄道は計画運休であまり立ち往生は少なくなりましたが、道路は毎年のように雪で立ち往生が発生しています。 生まれたばかりの私は当然記憶はありませんが暑さよりも寒さの方がまだ好きなのはこんな時期に生まれたからなのかなと思っています。貴重な記事ありがとうございます。 返信 ↓
893-2さん 貴重な思い出をありがとうございます。 新聞記事を見ると、その当時の自分を思い出して重ね合わせてしまいます。 産まれた当日がサンパチ豪雪と重なるとは、893-2さんと鉄道の関わりの原点ですね! スクラップの投稿で一番うれしいのは、こうやって記事と自らの出来事とを重ね合わせたコメントを頂くことです。 893-2さん、うれしいコメントをありがとうございました。 返信 ↓
米手作市さま
これら記事の豪雪はS38年1月25日前後のものですね。私は「38豪雪」による運転障害は大晦日から元旦にかけてだったと認識していたのですが、半月あまり後にも発生していたのですね。当時、元日には本家へ挨拶に行きお年玉を貰うのが恒例行事になっていて、元旦の新聞で新潟地区の立ち往生記事を読んだ記憶があります。当時のこととて記事の論調は「大雪なので仕方がない」的なものだったように記憶しますが、一方で「大雪になるのがわかっていながら何故帰省列車を出したのか」という、国鉄側の落度と言わんばかりの論調もありました。
記事を読んで感銘を受けるのは、各駅における救援活動や要請発出等の対応で「とにかく運ぶ」という強い使命感が基本にあって、各現業機関が率先して活動していたことが窺えることです。現在のようにほぼ現業機関が無い状態では「発車させなければ途中で止まることはない、あるいは大雪になりそうだから早めに計画運休しましょう」などと、輸送使命を放棄するかのような判断をせざるを得ないのでしょう。まあ途中でストップした場合の社会的反響や代替交通機関の整備もあり、昔とは状況が大きく変化しているのはわかりますが。
大雪といえばS44年2月から3月にかけてC62ニセコ等のSL晩年を撮り回った北海道では列車は多少の遅れだけでほぼ通常運転でしたが、復路に立ち寄った東京は積雪15㎝で都内はマヒ状態でした。雪に弱い大都会を体験しました。また勤めだして間もなくのS49年頃の3月下旬に京都に大雪が降り、残業を途中で切り上げて京阪特急で三条へ戻ったはいいものの、京津線がエンコしたり路上放棄された車の影響で大幅に遅れ、乗換えの折返し浜大津からの電車が2時間遅れて到着、顔見知りの係員から「止めときなはれ。国鉄はまだ動いているから」といわれて七条へ逆戻り、何回も転びながら京都駅に向かい、1時間に1本になった電車でやっと山科へたどり着いたことがありました。この時は駅から自宅まで通常徒歩10分ちょっとのところを、膝上まである積雪を掻き分けながら、小一時間かけて帰宅しましたが、かつての豪雪の北海道での経験が大きくものをいいました。
米手作市様 岩倉での雪合戦は想像できます。宝ケ池を過ぎると急に寒くなり、雪景色ということもよくありました。吹きっさらしの寒い校舎でした。さて、撮影月日の記録がないのですが、京都駅で写真を撮り始めた頃のもので、1番ホームで列車を待つ自衛隊員です。彼らが北陸に除雪に向かうということだけをよく覚えています。昭和38年の時刻表がないのですが、昭和36年6月号では、急行「なにわ」は京都発13:06で、そのあと15:05発富山行きの531レがあるので、それを待っていたのかもしれません。60年前の荷物は、こおりに荒縄というスタイルですね。
1900生さん、
もしこれが現在ならJR西日本は前日から“計画運休”をしているはずです。
各駅は乗客で大混雑、本社では「この機会に廃線するのはどこがいいかな!」と相談していることでしょう。
西村雅幸さん
私も38年の時刻表は持っていませんが、自衛隊員が2時間もこのまま待つとは思えません。39年4月の時刻表を見るとなにわは10:02に京都を発車します。これに乗るような雰囲気ではないので10:08のゆのくにに乗るのではないでしょうか。そう思ったのは太陽光線の方向が午前中ではないかと思うことです。13時頃では上りの先頭はやや逆光になります。
この推理、いかがでしょうか?
時刻表昭和38年1月号・2月号によりますと、急行第1なにわ104Mは京都10:03発です(第2なにわ112Mは22:28発の夜行)。そして10:43発に準急ゆのくに505レ金沢行があります(時刻表上では福井着は13:51、金沢着は15:33)。自衛隊も大勢移動するには国鉄しか手段がなかったのですかね。
米手様、井原様 ご指摘の通り「ゆのくに」を待っているのでしょう。ありがとうございます。当時はやはり国鉄依存だったのでしょう。道路事情も悪く、必死で除雪して少しでも走らそうとしていた国鉄が唯一の交通手段だったのでしょう。どこの駐屯地の隊員かはわかりませんが、現在の桂川駅近くの桂駐屯地には引込線もあったように思います。黄檗の宇治駐屯地にも引込線がありましたね。
桂駐屯地は補給処ですから、大久保にある第101施設大隊の隊員ではないでしょうか?
私が生まれたのがちょうどこの記事の時期で昭和38年1月26日のため親からは三八豪雪のときでおむつを洗濯して干したらすぐ凍ってたとよく言われました。(今でも言われますが)今では鉄道は計画運休であまり立ち往生は少なくなりましたが、道路は毎年のように雪で立ち往生が発生しています。
生まれたばかりの私は当然記憶はありませんが暑さよりも寒さの方がまだ好きなのはこんな時期に生まれたからなのかなと思っています。貴重な記事ありがとうございます。
893-2さん
貴重な思い出をありがとうございます。
新聞記事を見ると、その当時の自分を思い出して重ね合わせてしまいます。
産まれた当日がサンパチ豪雪と重なるとは、893-2さんと鉄道の関わりの原点ですね!
スクラップの投稿で一番うれしいのは、こうやって記事と自らの出来事とを重ね合わせたコメントを頂くことです。
893-2さん、うれしいコメントをありがとうございました。