スクラップブック 事件・事故編・第6回

1週間ほど旅行をしていて投稿・チェックが出来なかった。

さて今回は私の人生最大のショックを受けた大事故の記事を紹介する。

三河島事故、若い会員でもこの事故はご存じだろう。
昭和37年5月3日21時37分、国鉄常磐線三河島駅構内で田端発水戸行下り貨物287レ(D51364)が出発信号を見落とし安全側線に入り、停まりきれずに脱線して機関車と次位のタキ50044が下り本線上に飛び出した。これに三河島駅を4分延で出発した上野発取手行き2117Hレがタキに衝突、先頭車クモハ60005と次位のクハ79396が脱線して上り本線上に飛び出した。さらに7分後、上野行き上り2000Hレが進入し、線路上を歩いて避難中の乗客をはねたうえ、上り本線上の2117Hレ先頭車と衝突した。これによりクモハ60005とクハ79396は粉砕され、上りの2000Hレも先頭車クハニ67007が原形を留めないほど粉砕され、二両目のモハ72549と三両目のサハ17301は築堤下まで転落、四両目も脱線した。
死者160名、負傷者296名

1962,5,4

今日、世界に誇る安全で快適な新幹線も、この事故での教訓が活かされていることを肝に銘ずることが犠牲者の御霊に報いる唯一の道と確信する。
我ら鉄道を趣味とする者も、鉄道の安全には職員と同じく呉々も留意して接するべきであろう。

スクラップブック 事件・事故編・第6回」への6件のフィードバック

  1. 米手作市様
    1962(昭和37)年も「三河島」から遠く離れた大阪の高校生でしたが、7年後に社会人になってから初任地が東京本社になり、集団就職の皆さんとあまり変わりのない身の上でしたが、独身寮が松戸市内にあった関係から毎日「三河島」を通ることになりました。
    三河島事故の原因や対策については省略しますが、他線より早く「上野-取手」間を走行する運転席のある車両には防護無線と列車無線が取り付けられたので、屋根の上のアンテナで常磐線に入線できる車両かどうかを外部からも一目でわかりました。
    今回は、都市伝説のような話ですが、江戸時代には東海道に沿った鈴ヶ森刑場と日光街道に沿った小塚原(こづかはら、こづかっぱら)刑場が二大刑場といわれました。そのうち小塚原刑場は、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎等の国事犯の刑死者はここに埋葬され、蘭学者の杉田玄白・前野良沢らの腑分け(ふわけ)もここで行われました。
    明治になり処刑者の霊を弔うため南千住回向院となりましたが、この地を日本鉄道土浦線(現在の常磐線「三河島-南千住」間)が通過することになり、土浦線の北側が回向院、南側が「首切り地蔵」のある延命寺となり築堤で分断してしました。1960年6月に隣接した場所に建設された「東京メトロ」日比谷線の高架橋の基礎工事の際に大量の人骨が出土し、1998年10月には「つくばエクスプレス」の地下の開削工事時にも104人分の頭蓋骨が掘り出され大きなニュースとなりました。
    最後の4行の米手作市様の言葉は深く心に刻み込みたいと思います。

    • 快速つくばね様
      毎回含蓄のあるお言葉を頂き、感銘を持って読ませていただいております。
      この事故は当時の私に、鉄道趣味は楽しい遊び要素だけではなく安全を守る職員の苦労も理解して接しなければならない、との教訓を与えてくれました。
      この後の国鉄は、ATSや踏切防護信号などが強化されますが、それまでにはまだまだ悲惨な事故が必要だったのが残念です。

  2. 米手作市さま
    あの頃は三河島に続き鶴見事故など、世間を震撼させる重大鉄道事故が連続して起き、怖い思いをしたものでした。戦後経済の復興に伴う輸送量の増大に対応しきれていなかったのが大きな要因だと思いますし、加えて当時の国鉄(だけでなく社会全般)では安全を保つのは現場の職員だという感覚で、いわゆる組織のマネジメントが行われていたとは言い難かったといえるのではないでしょうか。この記事により事故の詳細を知るにつけ、たとえば列車防護や旅客誘導の訓練がどの程度行われていたものか疑問が残ります。ペーパー一枚で訓示し、それを守れ、実行しろと言っても、人間とりわけ運輸従事員には決して十分とはいえず、実地に何度も訓練してこそ実際の役にたつ行動がとれるものだからです。当時仮に訓練していたのなら、なおのこと充分ではなかったことになります。その後仰るようにATSや列車防護無線等々、保安度向上のための機器が整備され、またその過程でマネジメント力も向上したようにみえました。しかしそれは中々言うは易し行うはの類で、マネジメントが不十分だと福知山線の尼崎事故のようなことが起きてしまいます。運輸機関のマネジメントは特に「現場主義」を要します。部下に任せていたからというマネジメントでは必ずや事故は起きるものと考える必要があります。現場からの声を封殺し、現場に押し付けるごときはいずれ事故に至る第一歩というべきでしょう。

    • 1900生さん
      やっぱり現場を苦労して歩いてきた方の言葉には重みがありますね。
      外から見ていても解りませんが、マネジメントが大切なのはどこも同じですね。それが出来ていないからの事故なのでしょう。

  3. 米手作市様
    日頃何気なく見ていた国鉄時代の電車の「非常用ドアコック」の掲示案内文についても大事故の歴史が反映されています。
    1951年4月24日に起きた桜木町国電火災事故で、モハ63形の非貫通運転台や三段窓などの車両自体の問題以外に、桜木町駅の職員もドアコックの位置を知らなかったため扉を外部から手で開けることもできず、大惨事となりました。その後、一般の乗客が非常時にドアを開けられるようにした「非常用ドアコック」が導入されることになり、次のような案内文が付けられました。

    ○非常用ドアコック(赤地に白抜きの文字)
    ○あぶないですから、非常の場合のほかは外に出ないでください。(青地に白抜きの文字)
    ○この横(下)のハンドルを 手前に引けば ドアは手であけられます。(赤字)

    1962年5月3日に起きた三河島事故では、多くの電車の乗客が桜木町事故の教訓を生かして整備されたドアコックを使って列車外に避難しましたが、反対側の線路に上りの上野行きの電車が進入し、線路上に降りていた乗客を巻き込んだ事により多くの死者を出しました。この経験により追加されたのが次の文です。

    ○もし線路に降りるときは 特に他の列車や電車にも ご注意ください。(赤字に白抜きの文字)

    1972年11月6日に発生した北陸トンネル火災事故では、それまでの「いかなる場合でも直ちに停車する」という運転規程によりトンネル内で停車した結果、多数の人が一酸化炭素中毒死するという大惨事となりました。その後運転規程が「延長5km以上トンネル内の火災の場合トンネル内で停車しない」と改められ、案内文にも次の文章が追加されました。

    ○係員の指示があった場合には それに従ってください。(青字)

    昨今の鉄道会社の動きですが、地方ではワンマン運転区間が増え、都市部ではドライバレス運転の実現に向けて山手線自動運転の実証実験も始まっています。将来「係員の指示」は適切に行えるのでしょうか。

  4. 米手作市様、
    新聞記事、いつもありがとうございます。
    三河島事故の教訓は、信号冒進事故→ATS-S型車警、併発事故→列車防護無線の整備へと発展しましたが、未だ根絶できたとは言えないのが現状のようです。
    約10年後の鳥飼事故は、ATCにより後続列車に対する併発事故を防ぐことはできたものの、タイミング次第では、と考えると恐ろしくなります。よくは知らないのですが、新幹線は対向列車への防護措置を考慮した装置なんてあるのでしょうか。
    常磐線の無線装置は車外に設置してあるのでわかりやすいのですが、その他の線区の防護無線は、貼付写真の右側に写る携帯型無線機で受発信可能だったということでしょうか(他にそれらしいものが見つからないので)。
    信楽の事故は、誤出発検知装置を悪用したのが原因でしたが、両社共通の防護無線があり、それも併用していれば(悪用に併用もへったくれもないとは思いますが)防げた事故だったのでしょうか。
    いくつか疑問点が浮かび書き連ねてみましたが、取り止めのない文章で失礼いたしました。

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